(元)登校拒否系

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学校は社会を救えるか――「学校効果」論批判 第3回 「公正のための力」?



前回は、「学校効果」モデルが内包する方法論的欠陥を指摘しました。しかし、もし仮にそのような欠陥を見逃して他よりも「効果的な」学校が存在すると認めたとしても、「学校は公正のための力となりうる」*1と言えるかどうか疑いが残ります。(1)「学校効果」は社会の不平等を正すのに十分な力をもっているか? (2)「効果的」とは誰にとってのことか? という二つの問題点があるからです。


1. 十分に強力か?

既に繰り返し見たように、「学校効果」のサイズを測定するには、入学者についての変数を統計的にコントロールする必要があります。このことは前回確認した方法論的な困難につながりました。しかしながら、そのような困難を脇に置いて、研究者が全ての学校外のファクターをコントロールすることに成功したと仮定しても、「学校効果」がどれだけ強力なものであるかということについてなお疑いが残ります。というのも、学校外の要因を打ち消すほど強力なものであったとしたら、そもそもそのような外部要因を排除する必要などなかったはずだからです。要するに、「学校効果」は、もし本当に存在するとしても、生徒のパフォーマンスに影響を与えている多くのファクターの一つに過ぎないのです。

このことの問題性は、たとえ話を使って説明できます。ある男の子が女の子をデートに誘おうとします。彼は『プライベート・ライアン [DVD]』のチケットを2枚買って彼女に声をかけますが、あえなく断られてしまいます。彼は嘆きます。「ああ、『恋におちたシェイクスピア [DVD]』にしとけばよかった!」と。ある意味において、彼は正しいかもしれません。『プライベート・ライアン [DVD]』は彼女の趣味に合わず、「映画効果」とでも呼ぶべきものが働いていたかもしれません。別の映画で誘っていればいくらかの違いがあったかもしれません。しかし、彼が認めなければならないことは、他にも多くのファクターが働いていたということです:顔、髪型、服装、年齢、性格、言語能力、社交性などなど。映画はその中の一つに過ぎません。したがって、映画を変えることで問題を解決できるかは疑わしいと言わねばなりません。そもそも、キムタクに誘われていたならば彼女はどんな映画でも一緒に観に行っていたことでしょう。*2

同じように、「学校効果」は数多くのファクターの一つに過ぎないということは、その強度を疑わしいものにします。いくらかの違いはもたらしたとしても、私たちが生きる社会の巨大な不平等を解決するには十分ではないでしょう。


2. 誰にとって「効果的」か?

さらに、百歩譲って「学校効果」が十分に強力なものだと仮定したとしても、(またしても)問題が残ります。というのも、以下のように問われなければならないからです。「効果的」とは誰にとってのことなのか? 「効果的な学校」は貧困層を利するのか、富裕層を利するのか、それとも両方か? それぞれのケースが示唆するのはどのようなことか? この問題は、ヒルマンの以下の文章に見ることができます:


個々の学校が違いをもたらす大きな余地がある。学校は……同じ比率で生徒の進歩を促すのではない。……一部の学校は、生徒の人生の可能性に「価値を加える」ことにおいて、他の学校よりも効果的である。*3


Success Against The Odds

Success Against The Odds

しかしながら、もし全ての生徒が平等に「加えられた価値」の利益を受けるなら、各生徒のお互いに対する相対的な位置に変化はないはずです。貧しくて不出来な子どもが学業的に向上するのと同じように、裕福で優秀な生徒の成績も上昇するでしょう。両者の間の距離は縮まりません。

驚くべきことに、ルターたち自身がこの点を認めています。彼らは言います:


どの個別の学校内においても、子どもたちの間の成績の差異は学校間の平均成績のいかなる差異よりもずっと大きい。教育の質を上げることは全ての者を同じようにする効果はもたない。……学校を改良することは必ずしも個人間のバリエーションに違いをもたらさないだろう。*4

ルターたちはそれでもなお、「全体の成績のスタンダード」*5を向上させるということを根拠に「学校効果」の意義を主張します。これは、公正のための力・手段としてではなく、「教育のための教育」に価値を認める者にとっては喜ばしいことかもしれません。しかし、それは社会の不平等の埋め合わせをすることとは何の関係もないはずです。

「効果的な学校」が不平等を減らすためには、以下のいずれかの条件が満たされなければなりません。すなわち、a) 「効果的な学校」が貧困層の子どもに富裕層の子どもよりも大きな利益をもたらすか、b) そうした学校が貧困地域のみに存在しているか。そうであるならば「効果的な学校」は不平等を緩和するのに役立つでしょう。貧しい子どもと金持ちの子どもの間の距離が、前者がより速く上昇し後者に近づくことによって、小さくなるからです。しかしこのことを示す証拠はありません。

それどころか、モルティモアが提示する調査結果は正反対を向いています。彼は、「一般的に効果的な学校では……特に恵まれたバックグラウンドをもつ生徒が好成績の生徒よりもさらに優秀な成績を取ることができるようだ」*6と言います。もしこれが事実だとすれば、格差は増大されてしまいます。なぜならば、「効果的な学校」は恵まれた生徒を貧困層の生徒よりも大きく押し上げるからです。だとしたら、「効果的な学校」は不平等を縮小させるどころか悪化させると言わなければなりません。このように、仮に「学校効果」が存在し、なおかつそれが強力なものだとしても、それが公正のための力となりうるということを信じることはきでないのです。


3. 学校ではなく社会を変えよう

「学校効果」モデルへの僕の批判は二重のものでした。第一に私たちは、学校が生徒のできばえに影響を与えているという研究が方法論的欠陥につきまとわれていることを見ました。第二に僕は、もし第一の点を脇に置いて、「学校効果」の存在を認めたとしても、それは社会的不平等を解消できないことを示しました。今や私たちは、自信をもってモルティモアの「効果的な学校は……一定程度……社会[の不平等]の埋め合わせをする」*7ことができるという主張を退けることができるでしょう。「学校は公正のための力となりうる」*8というルターの説も誤りです。

もちろん、これは社会的不平等を削減することが達成不可能な目標であるということではありません。それは単に、学校教育がそのための手段とはなりえないということを意味しています。「学校効果」論者の一人であるバーバーはこう言いました:


この[生徒のパフォーマンスへの学校の効果は無視できるという]立場の論理は、生徒の状態を改善することに心を砕いている教師を……社会的・政治的変革の要求へと追いやる。というのも、学校が何の違いももたらさないのだとしたら、それだけが状況を変えるだろうからである。……学校の効果性についての研究は……根本的で完全に好ましい風潮の変化をもたらす一因となった。今や教師や学校は、自分たちが違いをもたらすことができるのであり、実現可能で効果が測定可能な変化に向けて努力できるのだと信じている。*9


The Learning Game: Arguments for an Education Revolution

The Learning Game: Arguments for an Education Revolution

(イギリスでは)「学校効果」論が不当な人気を博している現在では、バーバーの言葉は逆転されてしかるべきでしょう:「学校効果」の論理は、社会的平等を目指す者たちを、経済的・政治的・社会的なレベルでの直接的な介入から、個々の学校を改善しようという虚しい努力へと追いやる、と。しかし学校教育は公正のための力たりえません。社会を変える唯一の道は、他の何かではなく、社会自体を変えることであるということに気付くべき時であると思います。


*1:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 205.

*2:分野は違いますが、ゴーントレットは「メディア効果」論を批判する論文の中で次のような例を挙げています:「イギリスの交通事故問題の解決策は、コーンウォール出身の一人の運転が下手で有名なドライバーを監禁することである」。Gauntlett, D. (1998) ‘Ten Things Wrong with the “Effects Model”’, published at <http://www.theory.org.uk/effects.htm>. Originally published in Charlton, T. and David, K. (eds.) (1997), Elusive Links: Television, Video Games, Cinema and Children's Behaviour, (London: Park Published Papers).

*3:Hillman, J. (1996) ‘Introduction: The Challenge of Disadvantage’, in National Commission on Education, Success against the Odds, (London: Routledge), 8, 強調は引用者による.

*4:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 7.

*5:ibid.

*6:Mortimore, P. (1997) ‘Can Effective Schools Compensate for Society?’ in Halsey, A. H. et al. (eds.) Education: Culture, Economy and Society, (Oxford: Oxford University Press), 481.

*7:Mortimore, P. (1997) ‘Can Effective Schools Compensate for Society?’ in Halsey, A. H. et al. (eds.) Education: Culture, Economy and Society, (Oxford: Oxford University Press), 483.

*8:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 205.

*9:Barber, M. (1997) The Learning Game: Arguments for an Education Revolution, (London: Indigo), 128.