(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

バーチャルな不幸を抱きしめて



いま体験しているこの現実は、コンピューターによって生み出されたバーチャルリアリティかもしれません。目の前にあるものも実際には存在せず、「本当の」世界には、まったく異なる現実があるとしたら?

このような問いに、科学的に反論することはあまり意味がないでしょう。「これこれこういう科学的な根拠から、この世界がバーチャルリアリティーであるはずがない」と言ってみたところで、そのような「根拠」自体、あらかじめプログラムされていたものかもしれないという疑いが残ります。もちろんこの世がバーチャルリアリティであるという確信もありませんが、それを完全に否定することもできないわけです。

この人生がバーチャルリアリティである可能性がある。

だとすれば、実際にバーチャルリアリティであったと仮定した上でいくつかの問題を考えてみる作業も、無意味なことではないでしょう。

そこで疑問があります。もしこの人生がバーチャルリアリティだとすれば、なぜ苦しいのでしょうか? なぜ痛いのでしょうか? なぜ悲しいのでしょうか? なぜ不安なのでしょうか? なぜ無気力で怠惰なのでしょうか? なぜブスなのでしょうか? なぜ病気なのでしょうか? なぜ貧乏なのでしょうか? なぜバカなのでしょうか?

バーチャルリアリティにおいては、あらゆる設定が可能であるはずです。心地よい。嬉しい。楽しい。安心。意欲旺盛。美人。健康。大金持ち。天才。なのに、この人生が「あえて」不幸に設定されている理由はなんでしょうか?

もし自分のバーチャルリアリティをあらかじめ自由に設定できるのだとしたら、人はどんな人生を望むでしょうか? リアルの人生から離れてバーチャルリアリティに入るのだから、なるべく実際の人生では体験できなかったことを味わいたいと思うのではないでしょうか?

もしそうだとすれば、苦しみ・痛み・不幸は、実は、リアルの人生が幸福なものであることの徴候だと言えるでしょう。ブスな人は、リアルではミス日本なのです。美人でチヤホヤされることに飽きたのでブスになってみたかったのです。貧乏な人は実人生ではビル・ゲイツだったのです。苦しいのはリアルでは楽しかったから。一度苦しみを味わってみたかったから。悲しいのは本当の人生では嬉しいことばかりだったかったから。悲しみを味わいたかったから。不安なのは安心することに疲れたから。不安の味を知りたかったから。無気力な人は実は努力家。病人は健康優良児。

と、いうのは荒唐無稽(こうとうむけい)な妄想です。しかしこの妄想によって、あることが見えてくると思います。それはつまり、「味わう」という感覚です。

なるべく金持ちになりたい。なるべくもてたい。なるべく幸せになりたい。不幸はなるべく避けたい。人がそう願うのは、当然のことでしょう。

しかし現実には、必ずしもそうはいきません。避けたくても避けようがないのだとすれば、なんとか不幸の価値を救い出すことはできないものでしょうか?

そう考えたときに、不幸にも「味わい」があると言いたいと思います。バーチャルリアリティの妄想において不幸を味わうことを求めるように、いま現に感じているこの痛みに、苦しみに、悲しみに、味わおうと対することができるのではないでしょうか?

もちろん、これは不幸が大きければ大きいほど、難しいことです。激痛を感じながらそれを味わうのは容易なことではありません。しかし、不幸が大きければ大きいほど、「味わい」もまた深いはずです。

不幸はなるべく避けたい。でも避けようとしても避け得ないならば、その「味わい」を噛みしめていきたいと思います。それがバーチャルなものであれ、リアルなものであれ。

参考文献


自虐の詩 (下) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)

自虐の詩 (下) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)