(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

登校拒否解放の(不)可能性 toyoさんのコメント



登校拒否解放の(不)可能性 前編は、約2年前にある人への私信として書いたものです*1。その後、あるメーリングリストに同じ文章を投稿しました。その際に、toyoさんから以下のようなコメントをもらいました。ご本人の了承を得てここに掲載します。


「革命家でも、駄目連でもない人の行う異議申立ては『登校拒否は病気じゃない』で問題無いんじゃないの?」

話を見えやすくするために(余計見えにくくなるかも知れないが)、たとえ話をしよう。

あるマイノリティー:Aは社会的に差別されていて、就職もままならない。結果的にそのマイノリティー:Aの少なからぬ構成員の就職先が「ヤクザ」になる。そして、社会は言う「Aはヤクザの集団だ」

Aの構成員達は言う。「お前達が、我々をヤクザにしているのだ、我々を"不当に"差別するのをやめろ」(i)

革命家は言う「ヤクザを生み出す社会が悪いのだ、革命だ」(ii)

実話時代(注)は言う「ヤクザ結構。ヤクザとして生きて行く事は価値のある事である」(iii)

(注)実話時代--ヤクザの日経とも言うべき月刊誌。普通にコンビニで売っている。読者層がヤクザさんなのか、ヤクザマニアなのかは分からない。

非常に大雑把に3つの立場を仮定した。この3つの立場をこれまた大雑把に言い直すと(i)はAに対する差別の否定、ヤクザに対する"差別"については肯定。(ii)はAに対する差別は、その他諸々の差別の要因と同様に否定され、しかし、ヤクザに対する"差別"は肯定されている(何故ならヤクザは「解消されるべき問題」だから)。これらに対して(iii)はヤクザに対する"差別"(価値判断)を相対化させる。「ヤクザはヤクザで素晴らしい」と。まあ、もっと細かく見れば(ii)と(iii)の間にヤクザ革命--民兵によるクーデターとか、考えられるけど話が面白く…もとい大きくなりすぎるので省略。

この話において"普通に"生きたいAの人々にとっての障害は、Aに対する"不当な"差別と、*その結果*生み出された「Aはヤクザの集団だ」という偏見だ。だからAは言う「我々を"不当に"差別するな」また「Aという属性とヤクザという属性は無関係だ」と。

Aは以上の目的を達する上で有利になるなら、革命家が問題とするその他諸々の集団と手を組むかもしれないし、そもそもAを差別する事でしかその社会が回っていかないのであれば革命家と手を組むだろう。しかし、もしAに対する差別を革命なしでなくす事ができるなら、Aの"普通に"生きたい人々は革命なんか望まない。

ところで実話時代は言う「ヤクザはヤクザで素晴らしい」。しかし現実にヤクザであるという事はアウトローであるという事で、素晴らしいとは言え、一般社会とはお互いに相容れないもの(または補い合うもの)として、個別に価値を認めなければならない。ヤクザになりたい(ならざるを得ない)人々にとって、自分達に独自の価値が与えられるのは喜ばしい事だろうが、"普通"に生きたいAの人々にとっては、これは助けにならない。

また、もしAに対する"不当な"差別がなくなったとしても、Aからヤクザに就職する人がいなくなるとは言えない。Aが差別されていた、という要因以外にもヤクザになる要因はあって、その要因をAの個別の構成員が持っていないとは限らないからだ。

以上の長ーいたとえ話を踏まえた上で常野に質問。

・今の社会で不登校に「吐き気」をもよおさない事は不可能だろうか?学校に行くのも行かないのも「選択」の問題に引き下げる事は「明るい登校拒否児」が「ひきこもり」に対してもよおす「吐き気」の解消と関係あるのだろうか?

・「ひきこもり」というのは「解消されるべき問題」だろうか?それともそこから何かしらの価値を引き出し得る、社会の中で一種の生き方となっていくべきものだろうか?

んでは。

その後、補足としてさらに以下のようなコメントをいただきました。


>Aの構成員達は言う。「お前達が、我々をヤクザにしているのだ、我々

>を"不当に"差別するのをやめろ」(i)

> 革命家は言う「ヤクザを生み出す社会が悪いのだ、革命だ」(ii)

> 実話時代(注)は言う「ヤクザ結構。ヤクザとして生きて行く事は価値

>のある事である」(iii)

この(i)(ii)(iii)はそれぞれ(仮想)奥地さん、革命家、駄目連に対応しております。ここでAという集団と、ヤクザという集団はそれぞれ、差別される理由は違っていたと仮定しています。Aが差別される理由の例:「なんとなく」「昔からそうだから」「穢れている」。これに対してヤクザが差別、というか、取り締まられる理由はヤクザというあり方が反社会的である(法律を破る事を前提としている)からです。法律を守る侠客というのもいるのかもしれませんが、とりあえずここでは考察外。

んで、Aが就職に際して差別されて、その結果Aの少なくない構成員がヤクザになってしまう状態が続くと*その結果*Aを差別する理由にもう一つ「Aはヤクザ者の集まりだ」という理由が付け加わるわけです。

ここでAの構成員がヤクザを"差別"するのは、ゲイの人がゲイの中のさらなる小集団を指して「自分達はあれらよりはマシだ」と言うのとは性質が違います。極論すればこれは単に相手の「好き嫌い」の基準を動かしてくれと言うだけの事です。これに対してAが「我々はヤクザではない」と言うのは「我々は(Aと言う性質は)反社会的な存在ではない」と言う事です。

なぜこんな事をくどくど言うのかというと、僕は「登校拒否児」が差別される理由と「引きこもり」が差別される理由、また「登校拒否は病気じゃない」と言う事の意味が、ゲイの例ではなく僕のたとえ話の方の関係にあるんじゃないかと考えるからです。言い換えると「引きこもり」は「登校拒否児」のサブグループではなく、それ自身(重なり合う所は有るにせよ)別個の問題ではなかろうかと。

「登校拒否は社会に対する不適応だ」と言われるのに対して「登校拒否は高々学校に対する不適応だ。その事を責め立てると、またその事で就職などで差別をするのなら、本当に社会に適応できなくなってしまう」と言うのはAの人が「我々はヤクザではない」と言うのと同じ事でない?

また「学校に対してとっても良く適応した人」が「引きこもり」になる可能性だってあります。「使えない東大生(一流大卒、大卒)」といったフレーズを聞いたことは無いでしょうか。これは一方で学歴という価値がまだまだ力を持っている証拠とも言えますが、他方、高学歴者も職場によっては排斥される可能性、それが続けば「引きこもり」になる可能性が有るとも言えます。学校によく適応できたからといって、社会に適応できるとは限らないのです。そんな事はここ数十年無いでしょうが「登校拒否は病気じゃない」という事が徹底的に信じられれば、逆に「高学歴者の引きこもり」が増えるという事も考えられます。

とはいえ、学校に対する息苦しさと、会社(その他の職場、社会)に対する息苦しさが別々の理由ではない人だっているだろうし、それは常野が問題とする学校社会に由来するものかもしれない。そこの事についての疑問が最後の質問2点です。


*1:一部加筆しています