(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

<普通>と<登校拒否>をめぐって



登校拒否解放の(不)可能性 前編の最後を、僕は次のように結びました。


登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。

これに対して、Mallkuさんからコメントがつけられました。Mallkuさんいわく、


そんなに大げさなもんかなあ。たかが学校に行かなかったぐらいで、あとは普通の人間やんか。時々メンヘルになったりするのも「普通」の範畴だと思うけどね。

彼はさらに続けます。


 ひきこもり、メンヘル一般はその辺で不登校と関係なく普通に起こっている出来事。「登校拒否=ひきこもり、メンヘルです、異常です」というのは、実態と異なるんではないか。

 まあそれと、卑近だけどぼくを持ち出して「ひきこもり、メンヘル」というのは、いつそうなるかわからないけど現状としてはなんか違うじゃない。「=」が成り立つケースはいくらでもあるけど、成り立たなそうなケースも同程度に多くて、その比率が非不登校世界とくらべて高いのか低いのか、あんまり客観的にはわからないじゃない。怪しげな人とばかり付き合っているぼくだけの実感では、比率は変わらない。

 「病気じゃない」という表現の危うさは認めるけれども、それがいきなり「病気である」にいくのはすっ飛びすぎと思います。アンチテーゼとしてはいいけど。

また、後編に対して、ふやふやさんから以下のようなコメントをいただきました。


でも学校にいってようが勤めてようが主婦だろうが「病気・ひきこもり」の人はいるこんな社会だから、登校・不登校は関係ない(線引き必要ない)って思うけど。

これは非常に難しい問題だと思います。登校拒否というカテゴリーを、「異常」なものと見なし、それに固執(こしつ)すべきなのか? それとも「私たちも普通の人間である」として、レッテル貼りに抵抗すべきなのか? 僕自身、どちらが正解であるのか確信をもって答えることはできません。

そこで今回は、この問題について考える際にヒントとなると思われるいくつかの現象・論点を紹介してみたいと思います。ややとりとめのないものとなるかもしれませんが、<普通>と<登校拒否>、<異常>というカテゴリーについて理解する一助となれば幸いです。


1. カテゴリーの暴力と可能性

Id:about-hさんが、「ひきこもり」をめぐる暴力性という文章を書いています。その中でabout-hさんは、デリダさんを引きつつ、「名付けの暴力」という概念を紹介しています。about-hさんによれば、この世界自体は直接認識することのできないカオスです。私たちはそれに対して「名づけ」を行うことで、それを認識しようとします。about-hさんいわく、


ここに権力関係が存在する。つまり、名付ける者(強者)名付けられる者(弱者)の権力関係である。名付ける者は「名付ける」という行為を出来るので、名付ける者にとって都合の良い価値観をその「固有名」に付加することが出来る。一方、名付けられる者は受け身であるので受けたくはない価値観を強制的に受け入れなければならない。

これは一種の「暴力」である。

登校拒否の問題について言えば、こういうことでしょう。人々は、混沌とした存在である。彼らを直接に把握することはできない。そのなかから、学校に行かない者を取り出して不登校・登校拒否と一括りに「名付ける」のは暴力である。そしてここには、名付ける者(専門家など)と名付けられる者(当事者)との権力関係がある。

また、about-hさんは、ひきこもりについて、「カテゴリーの暴力」という概念を紹介しています。about-hさんは言います。


「ひきこもり」というのはカテゴリーである。つまり、共通の性質に着目して人々を一つのグループに囲ってしまう。しかし、個人は多様である。

カテゴリーをつくるということは、多様性を葬り去り、まるで一つのモノであるかのように扱ってしまう。当人にとってみれば嫌なカテゴリーを強制されるし、また自身の多様性が無いかのように扱われる。従ってこれも「暴力」である。

これも登校拒否の問題に引きつけてみましょう。一人ひとりの個人は多様な存在です。ところが、不登校・登校拒否というレッテルを貼ることによって、多様な存在が乱暴に一括りにされることになります。これもまた暴力でしょう。

では、当事者の側は、そのような暴力と、いかに対峙すべきなのでしょうか? 「特別なレッテルなど貼るな。私たちは普通の人間だ」と言うべきでしょうか?

about-hさんのひきこもりについての論考は、この点についてヒントを与えてくれます。少し長くなりますが引用します。


…社会問題は誰かがクレームを申し立てないと社会問題とならない。声を上げないと誰も気づかず実態として問題があっても見過ごされてしまう。

従って「ひきこもり」の問題もクレーム申し立てが行わなければならない。しかし、クレーム申し立てには「ひきこもりが問題なのだ」と言わなければならない。つまり「ひきこもり」という「名付け」を行わなければならないし、「ひきこもり」という「カテゴリー」が必要になってくる。

ここにジレンマが発生がある。つまり「暴力」に対してクレーム申し立てをしようとすると、逆に「暴力」を受け入れなければならないのだ。皮肉な逆説である。

デリダは純粋非暴力は存在しないと言う。つまり何かしらのアクションを起こすことは何かしらの暴力行為を宿命的に併発する。だから結論としては、どの暴力を引き受けることが耐えうるのかということを選択しなければならないことになる。

「ひきこもり」と名付けることやカテゴリーに括ってしまうことは「暴力」ではある。しかし逆にその行為がないと「ひきこもり」を社会問題として社会に訴えかけていくことが出来ない。「ひきこもり」への名付けとカテゴリーの暴力を禁忌するか、実態を放棄するか

これにならって次のように言うことができるでしょう。登校拒否と名付けることやカテゴリーに括ってしまうことは「暴力」である。しかし逆に、その暴力があってはじめて、登校拒否を社会問題として提起することが可能になる。となると私たちは、登校拒否という「名前」を単純に否定することもできなければ、肯定することもできないジレンマに直面していることになります。


2. スーザン・ソンタグの死

先日、アメリカを代表する知識人の一人であるスーザン・ソンタグさんが亡くなりました。彼女の死の報道のされかたをめぐって、パトリック・ムーアさんがある問題提起をしています。*1

ムーアさんによれば、ゲイ・レズビアン系のメディアでは、彼女の死は、「レズビアン作家のスーザン・ソンタグ」が死去したと伝えられました。ところが、ロサンゼルスタイムズニューヨークタイムズなどのメインストリーム・メディアでは、長文の死亡記事が掲載されたにもかかわらず、彼女のセクシュアリティや女性たちとの関係について触れられることはありませんでした。

ムーアさんはこの現象を「興味深い沈黙」と呼んでいます。そしてこれは、アメリカ文化においてレズビアンについて語られることが少ないことの反映であると言います。ゲイ男性が一定の地位を確保したのに対して、レズビアンは、依然として、自らのセクシュアリティを明らかにすることが難しいとムーアさんは指摘します。

生前のソンタグさん自身、バイセクシュアルであることを隠していたわけではありませんが、積極的に語ることもしませんでした。しかし、彼女の著作には、彼女のセクシュアリティが強く影響しているとムーアさんは言います。ムーアさんいわく、


スーザン・ソンタグは聡明で挑発的な作家であり、同時代のもっとも魅力的で創造的な女性数人と軽視できない恋愛関係にあった。私の信ずるところでは、彼女の知的業績は、彼女のセクシュアリティにどのように影響されたのかを理解することによって、よりいっそう魅力的なものになる。

ニューヨークタイムズなどのメインストリームメディアは、ソンタグさんを、いわば、「普通の人」として扱ったと言えるでしょう。それに対してムーアさんは、彼女をあくまでもレズビアンとして扱うべきだと主張しているわけです。

この問題も、登校拒否の当事者を「普通の人」と扱うべきか、「登校拒否児」という一つのカテゴリーを構成していると見なすのか、というジレンマを考える際に、興味深い示唆を与えてくれるのではないでしょうか。


3. 「青い芝の会」の思想

Id:sarutoraさんは70年代の障害者運動を紹介しています。CP(脳性マヒ)者の団体「青い芝の会」の運動です。sarutoraさんが引用する「青い芝の会」の行動綱領にはこうあります。


一、われらは自らがCP者であることを自覚する。

われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且つ行動する。

一、われらは強烈な自己主張を行う。

われらがCP者であることを自覚したとき、そこに起こるのは自らを守ろうとする意思である。われらは強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。

…。

一、われらは健全者文明を否定する。

われらは健全者文明が創り出してきた現代文明がわれら脳性マヒ者をはじき出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動および日常の中からわれら独自の文化を創り出すことが現代文明を告発することに通ずることを信じ、且つ行動する。

これは、反-普通の思想であると言えるでしょう。「青い芝の会」の人々は、「普通の人間」としてこの社会に組み込まれることを目指すのではなく、「CP者」としての自覚を持って「健全者文明」との対決を志向しています。僕の「登校拒否解放の(不)可能性」(前編, 中編, 後編)はこの立場に近いかもしれません。


4. <排除された者たち>と<普遍性>

アメリカのフェミニストであるジュディス・バトラーさんは、西洋近代における普遍性を問い直しています。彼女によれば、タテマエとしての普遍性は、「全ての人」を含んだ概念です。しかし、実態としては、黒人、女性、ゲイ・レズビアンといったマイノリティーはその領域から排除されてきました。

Contingency, Hegemony, Universality: Contemporary Dialogues on the Left (Phronesis (London, England).)

では、支配に抵抗する側は、「普遍性」なるものを拒否すべきなのでしょうか。必ずしもそうではないとバトラーさんは言います。「普遍性は、ヘゲモニーをめぐる無制限の闘争に属する」からです。普遍性とは、あらかじめ固定されたものではなく、常にそれに関わる人々によって構築されつつあるものなのです。バトラーさんは問います。


しかし、では、権利を奪われた者が、普遍性への権利を主張し、自分たちが普遍性の範囲に含まれるべきだと主張するとき、どのような事態が起こるだろうか? …ある人が普遍性の保護のもとに語る資格をもたず、そしてにもかかわらず、普遍的権利を主張して語るとき、…その人は、無意味なあるいは不可能なものとしてすぐに退けられるような形で語ることになる。「レズビアン・ゲイの人権」とか「女性の人権」について語られるのを聞くとき、私たちは普遍性と特殊性の奇妙な並列に直面する。その並列は、両者を統合することもなければ、両者を引き離すこともない。…しかし、明らかに、これまでの定義による「人間」は、レズビアンやゲイ、女性を直ちに含むものではなかった。そして最近の人々の集まりは、人間の従来の限界を暴露しようとするものである。…しかしそうした普遍性の従来の規範の排他的性質は、その用語のさらなる活用を妨げるわけではない。それは、従来の意味が型にはまらないものとなるような状況に入ることを意味するけれども。このことは、私たちがより真実に近い普遍性の基準を先験的に活用できるということは意味しない。しかし、このことは、従来の排他的な普遍性の規範が、倒錯した反復を通して、普遍性の型にはまらない表現を生み出しうるのだということを示唆する。その型にはまらない表現は、新しい要求を出すと同時に従来の普遍性の表現の限定的で排他的な性質を暴露する。

む、難しい。。。けどがんばって登校拒否に引きつけて考えてみると、こんな感じだろうと思います。従来の「普通の人」の範囲から、学校に行かない者は排除されている。排除された彼らがそれにもかかわらず「私たちもまた普通である」と語るとき、明らかになるのは、従来の「普通」概念の限界である。

Mallkuさんやふやふやさんが不登校もまた普通だと言うときの「普通」は、支配的文化における従来の「普通」概念とは、明らかにズレがあります。従来の「普通」とは、たとえば、「健康で、結婚していて、勤勉で」みたいな感じでしょう。それに対して、Mallkuさんは言います。


…「暴力、病気、ひきこもりなど」も普通のうちということ。だって、トーコーキョヒと関係なく、そこらじゅうで普通に起こっている現象だよ。

これは、従来の「普通」概念を覆(くつがえ)すものです。元登校拒否児が「登校拒否は普通のことだ」というとき、「普通」のヘゲモニーをめぐる政治闘争が始まると言えるでしょう。


5. 「提示できるのはパラドックスのみ」

フェミニズムの論点の一つに、「平等か差異か」というものがあります。男性と女性が平等になることを目指すべきなのか、女性の固有性を追求すべきなのか、という論争です。これをめぐって、アメリカの歴史家であるジョーン・スコットさんが、フランス革命以後のフランスにおける女性選挙権運動の言説を分析しています。

Only Paradoxes to Offer: French Feminists and the Rights of Man

彼女によれば、革命以後も女性が市民権から排除されていたことに対して、フランスのフェミニストたちは抵抗しました。その際、彼女たちの戦略は、男女間の「性的差異」を否定するというものでした。ところがこの戦略は、矛盾を含んだものでした。スコットさんいわく、


フェミニズムは、女性が政治的に排除されていることへの抗議であった。そしてフェミニズムの目的は、政治における「性的差異」を除去することだった。しかし、フェミニズムは、その主張を(「性的差異」を通して言説的に生み出された)「女性」を代表して行なわなければならなかった。「女性」のために行動した限りにおいて、フェミニズムは、除去しようとした「性的差異」を生み出した。このパラドックス――「性的差異」を受け容れると同時に拒絶する必要性――は、政治運動としてのフェミニズムのその歴史を通しての構成条件であった。…私の言うパラドックスとは、対立する戦略のことではなく、フェミニズム自体の構成要素のことである。フェミニズムの歴史はパラドックスしか提示しえない女性たちの歴史である。

さて、これも登校拒否にあてはめてみましょう。奥地圭子さんらは、「明るい登校拒否の物語」を通して、学校に行く者と行かない者の差異を否定しようとします。「明るい登校拒否の物語」は、学校に行かなくても学校に行く者と同様に仕事につき、家庭をもつことができるというものです。

しかし、ここにはパラドックスがあります。なぜならば奥地さんらは、その一方で、「学校に行かない者のための」活動を行なっているからです。奥地さんは「登校拒否を考える会」という団体を主宰しています。また、彼女が主宰する東京シューレは、学校に行かない者のための居場所です。つまり、奥地さんらは、学校に行かない者と行く者の差異を否定しつつ、同時に、その差異を生み出してもいるのです。

スコットさんは、パラドックスを指摘して、フェミニズムを中傷しようとしているのではありません。そうではなくて、そのようなパラドックスこそが、フェミニズムの原動力であると言うのです。同様に、奥地さんらのパラドックスも、登校拒否解放運動になくてはならないものであると言えると思います。必要なのは、矛盾を解消することではありません。スコットさんいわく、


フェミニズムの歴史を、あたかも単に正しい戦略――平等か差異か――を選ぶ問題であるかのように描くことによって、私たちは、これらのオプションのうちどちらかが実際に選びうるものであったということ、結論を出すこと、決断することが最終的に可能であるということを示唆する。しかし、フェミニズムの歴史は、選びうるオプションの歴史でもなければ勝利可能な計画を縛られることなく選ぶことでもない。それはむしろ、直面するジレンマを解決することの根源的な困難に、繰り返し取り組んできた女性(と一部の男性)の歴史である…。

同様に、登校拒否をめぐるジレンマも、どちらかのオプションを選べばよいというような単純なものではないのかもしれません。と、いうわけで、今回は結論はなしです。


*1:Moore, Patrick, “The sexuality of Susan Sontag – a case of curious silence” in The Daily Yomiuri, January 7, 2005.