(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

(元)登校拒否児のためのブラック・フェミニズム入門講座 第1回 唯白論(ゆいはくろん)



貴戸理恵さんの『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』をめぐる「騒動」が、大きな波紋を呼んでいます。本の中で、そして今回の「騒動」を通して焦点となっていることの一つは、アイデンティティーです。「明るい登校拒否児」とそうでない登校拒否児の間に違いがあるのか、あるいは究極的には同じものとして扱っていいのか、ということが問われています。直接のつながりは全くないのですが、このことを考える手がかりとして、かつてちょっと勉強したブラック・フェミニズム(黒人によるフェミニズム)を紹介してみたいと思います。学生レポートを焼きなおしただけなので、非常に強引なまとめ方だったりします。ご了承ください。


女性は搾取され、抑圧されてきました。一方でまた女性は、解放を求めてたたかってきました。っていきなりサヨクモードに入っちゃいましたね♪ そうです。今回は(今回も?)サヨクのお話、サヨバナです。さてしかし、「女性」とは誰のことでしょうか? 彼女たちはみな同一のカテゴリーに属するのでしょうか? それとも彼女たちの間には大きな差異が存在するのでしょうか? 全ての女性にあてはまるような一般化をすることは可能でしょうか? 今回は、こうした問いを考えながら、ブラック・フェミニズム第三世界フェミニズムについて学んでいきたいと思います。第1回では、英米フェミニズムにおいて白人女性が黒人女性をどのように扱ってきたのかを見ます。第2回では、人種差別と国際的な労働分業が黒人女性・第三世界の女性と白人女性・第一世界の女性の生をどのようにして形作ってきたのか、そして両者がどのように関係し合っているのかについて書きます。第3回では、ブラック・フェミニズム第三世界フェミニズムを社会運動史的な文脈に位置づけて、それが反動的なのか、進歩的なのか、ということについて考えてみるつもりです。


では、第1回のお話です。フェミニズムのキーワードに、「家父長制」というものがあります。そのまま読むとお父さんがエライんだぞ、みたいな感じがしますが、お父さんに限らず、男性というグループが女性というグループを支配・抑圧し、そのことで利益を得るようなシステムのことです。この家父長制が一つの独立したシステムであるという考えは、1960年代以降のいわゆる「第二波フェミニスト」たちによって打ち立てられました(って強引な単純化ですよ)。これは一つには、それまでのサヨク運動で強大な力をもっていたマルクス主義が、男性による女性の支配は資本による労働者の支配の副産物にすぎない、と見なしていたことに抵抗する必要から使われるようになった概念でした。しかし、「第二波フェミニスト」たちはマルクス主義の経済還元主義を退けたまではよかったのですが、そうする中で、別の形の還元主義に陥ってしまいました。彼女たちは、女性の抑圧の源を男性VS女性という不変の対立に求め、生物学的な差異に還元してしまったのです。もし性的な差異が唯一のファクターなのだとすれば、全ての女性は同じ利害をもっており、また全ての男性と対立していることになります。

このような見方の中で忘れられているのは、女性内部にある差異の存在です。ちょうどマルクス主義者が同じ階級に属する男女の差異を見逃したように、白人フェミニストもまた異なる人種に属する女性の利害が対立しうるのだということを見落としていたのです。もちろん、なかには人種的な差異に気付いていた理論家もいましたが、そのような差異は性別に比べると重要ではないと見なされていました。「全ての女性が共有する本質的な女性性」*1が強調されました。ここでは、マルクス主義者の過ちが繰り返されていました。マルクス主義者が男性労働者だけから「労働者」の概念を一般化したように、


「女性としての」女性に注目することは、ただ一つのグループの女性だけに焦点を絞ることだった――つまり、西欧産業化国の白人中産階級の女性にである。だから、[女性の間の差異は共通点よりも重要ではないということは]、女性が女性として共有していることについて語ることではなかった。それはむしろ、ある一つのグループの女性の状態を全ての女性の状態と混同することであった。*2


Inessential Woman: Problems of Exclusion in Feminist Thought

Inessential Woman: Problems of Exclusion in Feminist Thought

このような考え方はリッチが「唯論(ゆいはくろん)」(white solipsism)と呼んだ思考パターンに基づいていました。「唯白論」とは、「白人であることがあたかも全世界を説明しているかのように考え、想像し、語る」*3傾向のことです。それは「白人以外の経験や存在を決して貴重であり重要であるとは考えない視野狭窄症(しやきょうさくしょう)」*4とも言えます。結果として、フェミニズム運動において黒人女性やマイノリティー女性は「見えない存在」の位置に置かれることになりました。

非白人の経験を軽視する方法の一つは、「足し算分析」(additive analysis)*5というものでした。このアプローチでは、人種差別、階級差別、性差別は互いに独立した別個の存在であると見なされます。まるで、「性プラス人種プラス階級」みたいに考えるわけです。このような考え方は、これらのファクターが互いに影響しあっているということ、そしてだから黒人女性は性差別を白人女性とは異なる形で、人種差別を黒人男性とは異なる形で経験する、ということを見逃します。そして、「黒人女性は、黒人として一つの形式の抑圧を経験し(←黒人男性が経験するのと同じもの)、女性としてまた別の形式の抑圧を経験する(←白人女性が経験するのと同じもの)」*6と考えられるのです。これでは、黒人女性に対する抑圧はそれ自体として分析されることはなく、黒人男性と白人女性との連想によって扱われるのみです。

もちろん、黒人女性と白人女性両方が性差別を経験し、黒人女性と黒人男性両方が人種差別を経験するということは疑いがありません。しかしだからと言って、彼女たちが同じ類の性差別/人種差別を経験するとは言えないでしょう。というのも、モハンティーが言うように、「ジェンダーと人種は相関的な用語である」*7からです。ある女性がどのように性差別を経験するかということは、彼女が人種階層のどこに位置するかに深く関わっています。同じように、彼女の人種差別の経験は彼女が家父長制社会において女性であるという事実に影響されています。黒人女性が経験する抑圧は、白人女性に対する抑圧とも、黒人男性に対する抑圧とも異なります。このことは、黒人女性のおかれた状況を理解するためには、白人女性からの一般化に頼ることはできず、黒人女性自身を見なければならない、ということを意味します。というわけで、次回は黒人女性と白人女性が具体的にどのように異なる位置にあるのか、を見ることにしましょう。


*1:Spelman, E. (1990) Inessential Woman: Problems of exclusion in feminist thought, (London: Women’s Press), ix.

*2:ibid., 3.

*3:quoted in ibid., 116.

*4:ibid.

*5:ibid., 114.

*6:ibid., 122

*7:Mohanty, C.T. (1991) ‘Cartographies of Struggle: Third World Women and the Politics of Feminism’ in Mohanty et al. (eds.) Third World Women and the Politics of Feminism, (Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press), 12.