(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

『Fonte』(旧・不登校新聞)メーリングリストへの投稿



『Fonte』(旧・不登校新聞)のメーリングリストに以下の文章を投稿しました。



こんにちは。

このたび経済的事情により、定期購読を継続しないことにしました。『Fonte』の社会での必要性はますます高まっていると思いますが、お金があまりないもので。。。

編集局の方のメールに紙面についての意見をとありましたので、この機会に僕の思うことを書かせていただきます。もうすぐこのメーリングリストの参加資格もなくなってしまうので「言い逃げ」になってしまうかもしれませんがどうかご容赦ください。

ちゃんと読んできたわけではないので間違っているかもしれませんが、僕の『Fonte』を読んでの感想は、「偏っているな」ということです。一部の人の同じような意見ばかりが目に付くように思います。

偏っているから悪いということではありません。『Fonte』は一般のマスコミに大きくは取り上げられないような、不登校を支える立場に立つメディアですからある意味「偏って」いて当然です。紙面の内容は学校に行かない者や行かなかった者を応援するような、あるいは彼らが自ら語ることを可能にするようなものでなければならないでしょう。

ただ、学校に行かないことを何らかの形で肯定する人々の声が中心になるのは当然として、彼(女)らの内部にも実はさまざまな違いがあるのではないかと思うのです。僕の印象では、その多様性がうまく掬(すく)い上げられているようには見えません。

一例を挙げますと、去年の11月に、貴戸理恵さんが『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』という本を出されました。この本は、かつて学校に行かなくなり、現在は成人している若者たちへの社会学調査をまとめたものです。貴戸さん自身も不登校経験者です。インターネットではこの本のことがたいへん話題になり、また『朝日新聞』の書評でも取り上げられました。ところが、『Fonte』ではこの本のことを見かけることはありませんでした。

また、自分のことを言うのは恥ずかしいのですが、貴戸さんと僕は一緒に『不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ) (よりみちパン!セ)』という本を書きました。非常に傲慢な言い方になってしまうのは承知で書きますが、貴戸さんと僕はこの本で不登校を肯定する思想に新たな視点を提供しています。この本は代表理事奥地圭子さんにも献本させていただき、またこのメーリングリストでも恥ずかしながら宣伝させていただきましたが、『Fonte』では取り上げてはいただけませんでした。

貴戸さんや僕の考えが奥地さんをはじめとして編集局の方々と一致したものではないということはわかっています。編集局の方からすれば、正しくないように見えているかもしれません。これは一朝一夕にして決着のつくことではないでしょうし、違いがあることは認めたいと思っています。

しかし、仮に貴戸さんや僕の意見がいかに間違ったものであるにせよ、本を読んでいただければ、少なくとも学校に行かないことを肯定したい、学校に行かなくても嫌な目に遭うことがない社会にしたい、という欲望が根底にあるということは理解していただけると思います。編集局の方々からすればあまりにも低レベルで誤ったことを言っているかもしれないけれど、貴戸さんも僕も不登校肯定という「同じ陣営」にいることだけは確かではないでしょうか?

僕は、貴戸さんや僕の本がいつか取り上げられるのではないかと思って『Fonte』が来るたびにドキドキしながらページを捲ってきました。しかしついにそれはありませんでした。紹介もなければ批判もなかった。そこで感じたのは、昔なつかしいある「におい」です。そう、あのシカトという嫌なにおい。まだ批判していただいた方が、こちらとしてもありがたかった。しかし完全に無視されてしまったことは正直こたえました。

これは一つの例です。学校に行かなくてもいいじゃないか、と思っている人は少数派です。しかしその少ない人々の中でも、様々な意見があるはずです。『Fonte』は、その多様な声の交差点であるというよりは、あらかじめ決められた「正解」を布教するための拡声器のように見えます。

たとえば、このごろ、文科省が「フリースクール」などの運動に近づこうとしています。これは果たして歓迎すべきことなのか? それとも警戒した方がいいのか? 僕も確信を持った「答え」はもっていません。だからこそ、いろいろな人の意見を知りたいと思います。不登校を肯定するという一点は共有した上で、しかしお互いに譲れないところは妥協しないで、活発な対話があってもいいのではないでしょうか。もちろん、「現場」におられる方はそのような話し合いを日々行っておられると思います。それを、紙面と言う公開の場で、間違ったことを掲載してしまうというリスクを引き受けた上で、行うことができないものでしょうか?

現在の体制だと、東京や大阪にいる「指導者」が「正しい」見解を教えることが目標になってしまっていると思います。しかし、そのような立場にある人々は、誰かから教え導かれて現在の思想に到(いた)ったのでしょうか? 奥地さんの本に特に詳しく書かれていますが、彼女自身、さまざまなとまどいや失敗を生き延びながら、自分自身の手で言葉を獲得し、場をつくってきた人です。その過程にはあらかじめ確定された「正解」などなかったはずです。

だとしたら、現在のようなワンパターンな紙面はどうかと思います。もっと色んな人の文章が読めないものでしょうか? 激しい論争があってもいいのではないでしょうか? 時には編集局や理事に批判的な意見が載ってもいいのではないでしょうか? もちろん、学校に行かないことを肯定するという一点は守った上で。そのような批判は決して理事の方たちを貶(おとし)めるものではなく、むしろ深い「度量」を示すものであると思います。僕は奥地さんは個人的に存じ上げていますが、彼女がそのような人間的深みをもっていることは知っているつもりです。

不遜ながら、もしお誘いいただければ、僕はエッセーでもインタビューでも座談会でも喜んでお引き受けします。現在ほとんど働けておらず、時間はありますので。

毎号ていねいに読めていたわけではないのに、思いつくままに書いてしまいました。僕が提案したようなことはすでに一部実現されていて、「釈迦に説法」だったかもしれませんね。そうであればどうか聞き流してください。なお、このメールは僕のブログにも掲載させていただきます。批判的な内容ではありますが、このようなものを積極的に出していくことが「私たちの陣営」(そうです、この文章は一人称で書きました)の豊かさを示し、少しでも風通しをよくしていくことになることを期待してのことですので、どうかお許しください。


p.s. 173号の要友紀子さんへのセックスワーカーについてのインタビュー記事、たいへん興味深く読みました。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20050414#p1 と一部矛盾していることはくれぐれもご内密に。。。



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