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フロイト講演会「精神分析の起源と発展」 第二講義(3)



おおざっぱなたとえ話によって、この抑圧の過程と患者の抵抗との必然的な関係を、より具体的なものとしてお示ししてもよいかもしれません。このたとえ話は、私たちが今あるこの状況から取ったものです。

このホールのこの聴衆(みなさんの模範的な平静と注意はいくら賞賛しても十分ということはないわけですが)の中に、妨害行為をする人物がいて、行儀の悪い笑い声を出したり、おしゃべりをしたり、足をすったりして私の注意を私の任務からそらしたとしましょう。このような状態では講義を続けられないという私の説明を受けて、みなさんの中から数人の屈強な方々が立ち上がり、ちょっとしたもみ合いの後、この平安を乱す者をホールから追い出します。彼は今や「抑圧」されおり、私は講義を続けることができます。しかし、たった今追い出されたばかりの男がこの部屋に強引に戻って来ようとするといけないので、妨害行為が繰り返されないよう、私の提案を実行してくださった紳士たちが自分たちの椅子をドアのところまで持って行って、抑圧を維持するために、そこで自ら「抵抗」となります。さて、この二つの場所を精神に移し、ここを「意識」と呼び、外を「無意識」と呼べば、抑圧の過程のまあ悪くない例証となるでしょう。

今や、私たちの理論とジャネの理論の違いを見ることができます。私たちは、精神の分裂を、精神機構が経験を統合する能力を先天的に欠いていることに帰すのではなく、対立する精神的な力の葛藤によって動的に説明します。つまり、私たちはそこに、それぞれの精神的なコンプレックス(複合体)が積極的に互いに対抗しようとすることの結果があると考えるのです。

私たちの理論について、多くの新しい問いがただちに浮上します。精神的な葛藤の状況はとても頻繁なものです。自我が苦痛の伴う記憶から自らを守ろうとすることは、いたるところに見ることができるわけですが、その結果として精神が分裂するわけではありません。葛藤が解離という結果に結びつくとすれば、まだ別の条件が必要であると考えざるを得ません。私は、「抑圧」の仮説が、心理学的な理論の終点ではなく始点にあるということを自ら進んで認めます。しかし私たちは一度には一歩ずつしか前進できませんし、私たちの知識を完成するにはさらなるより完璧な仕事が必要です。

ここでブロイアーの患者の症例を抑圧の観点から見ようとはしないでください。彼女の病歴はそのような試みには向いていません。というのも、それは催眠の影響の助けを得て得られたものだからです。催眠術を排除してはじめて抵抗と抑圧を観察し、病原的な過程を正しく理解することができます。催眠術は抵抗を隠蔽し、精神の特定の領域を自由にアクセス可能なものにします。この同じプロセスによってこの領域の境界にある抵抗は塁壁にとなって積み上げられ、その向こうにあるもの全てがアクセス不能となってしまいます。

ブロイアーの観察から私たちが学んだ最も有益なものは、症状と病原的な経験、つまり精神的なトラウマとの結びつきについての彼の結論であり、この結果を抑圧理論の観点から適切に評価しなければならないでしょう。抑圧からどのようにして症状の創造を理解すればいいのか、はじめから明らかであるわけではありません。複雑な理論的な導出の代わりに、ここで、抑圧の特徴を表すために用いたたとえ話に戻りましょう。

乱暴者を追い出してドアの前に番人を置くことによって、ことは必ずしも終わっていません。追い出された男が、憤激して自分の行動の結果をよく考えもしないで私たちにさらにやっかいをもたらすかもしれません。彼はもう私たちの中にはおらず、彼の存在、侮蔑のこもった笑い声、はっきりとは聞き取れない話し声はもうここにはないわけですが、ある意味において抑圧は失敗しています。というのも、かれは外でひどいわめき声をあげていて、叫び声やドアを拳で叩くことによって、さきほどにも増して私の講義を妨害しているからです。このような状況の下で、もし私たちの名誉ある学長であるスタンリー・ホール博士*1が調停者の役割を引き受けてくだされば、喜ばしいことでしょう。彼は外の乱暴者と話をして、私たちに、男が行儀よくすると約束するという条件で、彼を中に入れるという提案を持ち込みます。ホール博士に従って、私たちは抑圧を停止することにして、静かさと平安が戻ってきます。以上は、神経症精神分析療法で医者が行う仕事を実際にかなりうまく表しています。同じことをもっと直接的に申し上げると、ヒステリー患者や他の神経症患者の治療から、彼らは矛盾した願望を伴う考えを完全には抑圧できていないのだという結論が得られます。たしかに彼らはそれを意識と記憶から追い出して、多大な精神的な苦痛を免れているように見えます。しかし、抑圧された願望は無意識にまだ存在しており、活動的になる機会をうかがっていて、ついに意識の中に、抑圧された考えの代わりに、偽装された認識不能な代理物(Ersatzbildung)を送り込むことに成功します。その代理物には、患者が抑圧によって取り除くことができたと思っているのと同じ苦痛を伴う感覚が結びついています。この抑圧された考えの代理物――症状――は自我の防衛機構からのさらなる攻撃から守られており、短い葛藤の代わりに今や永続的な苦しみが発生します。私たちは、症状の中に、偽装の印に加えて、元の抑圧された考えに遡ることができる類似性の残余を観察することができます。代理物がどのように作られるかは、患者の精神分析療法の中で発見することができます。そして治癒のためには、症状から同じ道をたどって抑圧された考えまで遡らなければなりません。この抑圧された素材が再び意識的な精神的機能に取り込まれると――これはかなりの抵抗を克服することを前提とする過程です――、その時に発生する精神的な葛藤、患者が避けたいと思ったのと同じ葛藤は、医者の指導によって、抑圧よりもより幸福な終結を迎えることができます。葛藤と神経症を幸福に終わらせることができるいくつかの適切な決定がありえます。個々の症例においてはその内いくつかを組み合わせようとすることもあります。患者の人格は病原となった願望を退けたのが誤りだったと説得されて、患者はそれを完全にせよ部分的にせよ受け入れさせられるかもしれません。あるいは、昇華(Sublimierung)と呼ばれる過程によってこの願望はさしさわりのないより高等な目標に向けられるかもしれません。あるいは、拒絶は正当な動機に基づくものであると認識されて、自動的でしたがって不十分な抑圧のメカニズムはより高度で典型的に人間的な心の能力によって強化されるかもしれません。つまり、意識的な思考によって願望を征服することに成功するわけです。

今日「精神分析」として知られている治療の要点をより明確に提示できないことをお許しください。困難は、この論題の真新しさだけにあるのではありません。

抑圧されているにも関わらず無意識から影響を与える受け入れられない願望の性質について、そしてそのような抑圧の失敗と代理物や症状の創造においてどのような主観的な構成的要素が働いているのかという問いについては、後ほどお話しすることいたします。


*1:訳注。フロイトをアメリカに招待した著名な心理学者。講義の会場となった大学の学長。