(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

反自由党は卒業式での日の丸・君が代の強制を断固支持する(前篇)



卒業式への日の丸・君が代の導入について、朝日新聞が「国旗・国歌 ここまでやらずとも」という社説を出しています。東京の公立学校で教員への処分が続いていることを指摘した上で、朝日新聞は次のように言います。


私たちは社説で、処分してまで国旗や国歌を強制するのは行き過ぎだ、と繰り返し指摘してきた。

http://www.asahi.com/paper/editorial20060315.html#syasetu2

2ちゃんねるなどでは、朝日新聞サヨク思想で人々を洗脳する陰謀機関ということになっていますが、少なくとも社説の内容を決める立場にあるような主流派のポジションは、このように極めて穏健なものです。上の文から、朝日新聞は日の丸・君が代を国旗・国歌と認めていることがわかります。また、「処分してまで…強制するのは行き過ぎだ」ということは、逆に言えばよりソフトな形での日の丸・君が代の公教育での使用には賛成するのでしょう。

社説によれば、教育委員会は、教師の君が代斉唱・起立だけではなく、生徒が斉唱時に起立することに教師が責任をもつよう求めているそうです。教師は自分は起立しても、生徒が起立しなければ処分の対象になるかもしれません。これにより、自分のせいで教師が処分されることを恐れる生徒は、たとえ「国歌」に反対でも起立せざるをえなくなります。それは結果的に、生徒の内心の自由を縛ることになる、と社説は主張します。これは、かつて国旗・国歌法が審議された際の政府の「児童や生徒の内心に立ち入って強制するものではない」という答弁に矛盾するものです。

教育現場で日の丸・君が代が強制されることに、私たちサヨクはどのようなリアクションを示すべきでしょうか? 反自由党の見解は「Yes, please! 断固推進しよう」というものです。

あれ、日の丸・君が代って軍国主義の象徴じゃなかったっけ? 日の丸・君が代軍国主義=悪いっていうのがサヨクの発想じゃないの? と思われるかもしれません。もちろんそれはその通りです。しかし、文脈をよく考えてみる必要があります。

たとえば、アメリカがイラク戦争で一応の勝利をした日に、兵士たちがイマジンを合唱したとしたらどうでしょうか? 散々人を殺しておいて反戦ソングが歌われるとしたら、それは欺瞞を通り越して滑稽な光景であることでしょう。

卒業式の性格についても、同じように考える必要があります。学校制度は、一定の年齢の人を強制的に監禁し、支配的イデオロギーを注入し、「テスト」や「入試」という公然とした差別を行う、構造的暴力です。

多くのサヨクは卒業式で日の丸・君が代が強制されることに反対します。しかし、そもそも学校では全てのことが強制です。学校に行くことが強いられるのだから、そこで何が行われようと、それは押しつけです。南京大虐殺戦争犯罪として教えられようが、聖徳太子が偉人として教えられようが、授業が行われているということ自体が生徒の自由を侵害します。

いや、自分は強制はしない、生徒の自主性を育んでいる、という教師もいることでしょう。しかし、とにもかくにも、生徒が教室にいる時点でそれは強制の結果なわけです。そのような環境で育成される「自主性」には、カルト信者の信仰心と、いかほどの違いがあるでしょうか?

とすれば、学校とは、リベラルな体制と矛盾することにはならないでしょうか? このように問うことによって、リベラリズムの正体が明らかになってきます。ロックは、『市民政府論 (岩波文庫)』の中で、次のような論理で親の子どもに対する支配権と教育の義務を擁護します。もちろんロックは学校については語っていませんが、リベラリズムにとっての教育と自由について考える際に、興味深い一節です。


アダムを支配すべき法は、すべての彼の子孫を支配すべき法と同じで、理性の法であった。しかし彼の子孫は、彼と違って、自然的誕生という方法で、この世に生れ出たのであって、そのため彼らは生れた時には無智であり理性を用いる力がなく、従って生れて直ぐその法の下に立つというのではなかった。何故なら何人も自分に向って公布されたのではない法の下には立ち得ないし、そうしてこの法はただ理性によってのみ公布されあるいは公知せられるのであるから、自分の理性を使用するに至らないものはこの法の下にあるとはいい得ない。でアダムの子たちは、生れるや否やこの理性の法の下にあるのではないのだから、はじめは自由ではなかったのである。けだし法は、その真の観念からいえば、自由で知的な行為者を、制限するよりは、むしろその本来の利益に導いていくものであり、そうしてそれはまさにこの法の下にある人々の一般的福祉となるように命ずる以上に出るものではないから。法がない方が、彼らがより幸福になり得るというのならば、は、無用のものとして、おのずから消滅したであろう。それであるからわれわれをただ沼沢や断崖から護るに過ぎないようなものを、拘束という名で呼ぶことは適当でない。そんな誤解があるとしても、法の目的は、自由を廃止または制限するのではなくして、それを保持拡大するにある。法にしたがう能力をもっている生物にとっては、どんな場合にも、法のないところ自由もまたないのだから。自由とは、他人による制限および暴力から自由であることであるが、それは法のないところにはあり得ない。自由とは、普通にいわれているように、各人が自分の欲するところをなす自由ではない。(何故なら、すべて人がもし他の者の気分で圧制的に支配されるとすれば、誰がいったい自由であり得ただろうか。)むしろそれは、彼がそのもとにある法の許す範囲内で、自分の一身、行動、財産およびその全所有を処分し、このようにして、自分の思うままに振舞う自由であり、その点で、他人の恣意に服するのではなくして、自由に自分自身の意志に従うことである。

そこで両親がその子供たちに対してもっている権力は、自分の子孫が不完全な子供の状態にある間、彼らの世話をするという、その負わされた義務から生ずるのである。彼らがまだ無智な幼年時代に、その精神を教え、その行動を指導することは、理性がこれにとって代り、子供たちが、このような煩わしさを脱するようになるまでの間は、子供たちの必要とするところであり、かつ両親の義務である。何故なら自分の行動を導くべき理解力を人に与えたところの神は、人が服従している法の限界内で、あたかもこの理解力に本来属するものとして、意志の自由と行為の自由とを許したのだから。しかしながら、彼が自分の意志を導くべき自分自身の理解力をもたない状態にある間は、彼は従うべき自分の意志をもたないはずである。彼に代って理解力を働かすものが、また彼に代って意志せざるを得ない。その者は彼の意志を指図し、彼の行為を規律せざるを得ない。しかし彼の父を自由人とならしめたその状態に彼が達するや、息子たる彼もまた自由人となるのである。


市民政府論 (岩波文庫)

市民政府論 (岩波文庫)

最後の一文にも示されているように、ロックは親の権力を限定的に捉えています。子どもは理性を身につけ成人すれば、親を尊敬する義務はあっても、もはや服従する必要はありません。これは当時としてはカゲキな考えだったのかもしれません。

しかし現代から見ると、リベラリズムにおける自由というものが抱えている矛盾が明らかです。リベラリズムにおいては自由が擁護されます。しかしそれはあくまでも教育によって理性を涵養され、法を理解できるようになった上でのことなわけです。理性が未発達な者の自由は認められません。ロックはさらに言います。


けれども時には、自然の通常の筋道通りに発達しないで、個人に何かの欠陥の起ることがあり得る。そのためにもし何人かが、法を知りその規律に従って生活するだろうと想定される程度の理性を獲得しないとすれば、その者は決して自由人となり得ず、決して自分自身の欲するままには放任されない。――何故なら彼は自由の限界を知らないし、その適当な指導者である理解力をもっていないから――むしろ彼自身の理解力がその責任を引受けることができない間は、絶えず他人の後見支配の下にあるのである。だから精神病者白痴は決してその両親の支配から解放されない。『自分を導く正しい理性の力をもつべき年齢にまだ達しない子供、自然の欠陥によって全然それをもち得ない白痴、および第三に、現在のところそれをもち得ていない狂人は、彼らのためにその福祉を探し求めようとして彼らの後見人となった、他人の有する理性を、自分の指導者としてかり受けるのである』、とフーカはいっている…。

ここに、リベラリズム全体主義的な前提があります。それは、「自由に行動してよい――ただし理性に従う限りは」というものです。

たとえば、かつてアルジェリアで民主的な選挙で勝利したイスラム原理主義政権が軍部クーデターによって転覆された際、欧米諸国はこれを容認しました。*1リベラルは自由と民主主義を信奉します。しかし、ひとたび「理性」から逸脱するや否や、人は自由の権利を失うのです。先日のパレスチナの民主的な選挙でハマス勝利してしまったことに対する欧米諸国のとまどいも、その例の一つです。

というわけで、学校という明らかに自由を侵す制度が私たちの「自由な」社会の礎となっていることも、納得できる現象でしょう。そしてここに、私たちが反自由党を名乗る理由があります。真に自由を目指すためには、条件付の「自由」の幻想を拒否することがまず必要です。

私たちは、卒業式について騒ぐ前に、学校においてはそもそも一日一日が自由の蹂躙であることをまず認識すべきです。卒業式とは、数年間に渡って自由が踏みにじられてきたことを祝う儀式です。

だとしたら、もし卒業式でたとえばゲルニカが掲げられたとしたら、それは茶番ではなくて何でしょう? 軍国主義には軍国主義がよく似合う。日の丸と君が代は、学校の暴力性を象徴するのにまさに適切な道具であると言えるでしょう。

さて、ここで疑問が生じます。学校がそもそも徹頭徹尾暴力的なものだとしたら、たかだか一日の儀式で旗と歌が押しつけられるぐらいの、相対的にささいなことが、なぜかくも大きな政治的な争点となるのでしょうか?

繰り返すように、学校で何が行われようと、学校があるということ自体が既に暴力です。とすれば、プロ教師が喝破したように、『教師と生徒は“敵”である』ことになります。学校の暴力を否定することは、学校の存在自体、教師の存在自体を否定することです。また、それは勉強やスポーツに秀でているといった学校エリートの優越性を否定することです。真に政治的な行為は学校を解体することであり、それは教師や学校エリートにとってある程度のコストを伴うものとなるでしょう。

日の丸・君が代に抵抗することは、この大きな痛みを伴う真の政治的行為に対する代償行為となります。たかが旗と歌程度のことで大騒ぎすることによって、サヨクは自分が反権力であるという満足感を、お手軽に得ることができます。*2

しかし、真の問題は旗でも歌でもなくて、そもそも学校があるということ自体なのです。


つづく


*1http://seiji.blogzine.jp/lgv/2005/10/post_c91e.html

*2:もちろん「処分」はされます。しかしそれは学校制度が崩壊することに比べれば、受け入れやすいものでしょう。http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/17/12/05121602/007.htm