(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

「学校自殺」



最近の「いじめ自殺」問題についての報道を見ていて、ふと10年ほど前にあるミニコミに書いた文章を思い出しました。


学校自殺


ソ連と日本の共産党

昔、ソ連スターリンという人がいた。当時ソ連では共産党による一党独裁体制が施かれており、彼はその書記長(トップ)だった。横暴な人で、気に食わない者はシベリアへ流刑にしたり死刑にしたりしたそうだ。スターリン共産党の思想は唯一絶対のものだった。ただスターリンだけが「正しい」のであり、その彼に反する者は当然「正しくない」のだから、そうした「反革命分子」に対する暴力も正当化されていた。神聖なるスターリン主義に反対する者・適応しない者は、容赦なく排除されていたのだ。

ところで、この日本にも同じ名前の政党がある(もっとも彼等は自らをスターリン主義とは相容れぬものと主張しているが)。この党は数十万もの党員を擁しているので、中には党中央と対立したり党中央の気に食わない行動をとったりする党員もいる。現在は“オウム・ウォッチャー”として華々しい活躍をしている有田芳生もその一人だった。有田の「哀しい日本人と日本共産党」(『週間金曜日』65号)という文章によると、ある行動を「規約違反」とされしかも自己批判しなかったために党を除名された彼は「さまざまな得難い体験」をすることになる。街や空港で出くわした知り合いの党員にシカトされる。「罵倒の汚い言葉を羅列した葉書」が送られてくる。党機関紙では彼のジャーナリストとしての功績までがシカトされる。「有田と道で出会ったら、挨拶をしていいのか」と討議した党支部さえあったという。

たしかに共産党や党員の有田に対する仕打ちはひどい。有田の「規約違反」は除名するほどのものとは思えないし、たとえ除名されたからといってシカトまですることはないと思う。はっきり言ってこれは「いじめ」だ。だがそれでも、有田は島流しにも死刑にもならなかった。それどころか今や全国に知られる売れっ子ジャーナリストとして成功している(彼の姿勢には疑問も多いがここでは関係ない)。ソ連スターリンの反対者がたどった運命とは明らかに異なるのだ。

この違いはどこから来るのだろうか。ソ連よりも日本の共産党の方がより民主的であるということかもしれない。だが最大の原因は、両国共産党自体の体質の違いというよりも、共産党が両国において占めている社会的位置の違いにあると思う。ソ連では共産党スターリンは独裁体制を施く絶対的存在であり、社会の隅々まで支配していた。共産党から疎外されることは社会全体から疎外されることを意味したのだ。これに対して日本では、共産党は数ある政党・運動体の一つにすぎない。共産党から除名されたぐらいでは、社会における活躍の場が奪われることにはならないのだ。


いじめの論議

最近のいじめ論議において最も攻撃の対象となることが多いのは学校である。「いじめ隠し」に走って失敗するマヌケな校長がまず非難される。そして「なぜいじめを放置したのか」といった声が教師に向けられる。教師自身がいじめに加担していた場合は尚更である。

こうした学校攻撃の次になされることは、「より良い学校」を目指しての学校改善策の提案である。「思いやりのある人を教師にするために採用に際しては面接を重視し、ボランティア経験を評価しよう」「一人ひとりに教師の目がゆき渡るようクラス定員を削減しよう」「暴力はいけないのだと教えるためにまず教師が体罰をやめよう」「いや、いじめる側の子どもには厳しい姿勢で臨むべきだ」「明るい友達関係をつくらせるために挨拶運動を推進しよう」「芸術科目を増設して子どもの心を豊かにしよう」「各学校にカウンセラーを置こう」「点取り競争が子どもの心を荒廃させる。偏差値を廃止しよう」「生徒自身に自分たちの問題として自主的に取り組まよう」「互いに尊重し会う友達関係をつくらせるために名前の呼び捨てやあだ名をやめさせよう」・・・。

現象として現れた学校の問題を攻撃し、「より良い学校」をイメージすることで、そうした問題がもたらしている現実の害悪に対する責任が回避される。「私はこのようなすばらしい学校のあり方を提案しているのに文部省や日教組がダメだから問題が起きる」というわけだ。だが、腹を空かせたトラのオリに投げ込まれた人間が、肉を削がれ、骨を砕かれながら呪うのは、直接的加害者としてのトラだろうか。逃げることを不可能としている鉄格子という存在、そしてそんなところに投げ込んだ人間こそ問われなければならない。


学校自殺

いわゆる「いじめ自殺」をする子どもは、死の直前、親に「もう学校に行きたくない」と言うことがある。これに対してほとんどの親は「そんなことは許されるわけはない」と常識的にこたえる。実はここに大きな分かれ道があるのではないだろうか。というのも、『君らしく僕らしく自分色』(東京シューレの子どもたち編、教育資料出版会)*1という登校拒否児たちの手記を読むと、一時はいじめに苦しみながらも学校をやめることで解放され、現在は元気に暮らしている子どもたちがいることがわかるからだ。実際、いじめに限らず学校における問題は全て学校をやめさえすれば解決してしまうのである。「学校における問題」は学校において発生するからそう呼ばれるのだから当然だ。

ここで日ソ共産党の話に戻ろう。ソビエト共産党スターリンに楯ついた者は流刑・死刑となったのに対して日本共産党からの被除名者は党関係者からはいじめられながらも社会で活躍している。この違いは両国共産党自体の体質というよりも共産党が両国において占めている社会的位置の違いからくるものであると述べた。

今、「いじめ自殺」の問題において、次のように言うことができるのではないか。「いじめ自殺」の原因は学校自体の体質というよりも学校の社会的位置にある、と。学校でどんなにつらいことがあっても、どんなにイヤな奴がいても、そんな所に行かなければ、そんなやつと付き合わなければ、つらい思いをせずにすむ。ところが多くの子どもにとって学校は絶対的存在(=「絶対に行かなければならない所」)であるために、「学校に行かない」という選択ができない。学校で生きられないと言うことは生きる場所を失うということを意味するのだ。子どもはそう思い込まされている。「いじめ自殺」はこういう構造の下に起きているのではないか。

そうだとすれば、「いじめ自殺」という表現はおそらく適切ではない。自らの生よりも学校を優先させて死ぬのだから“学校自殺”とでも言うべきだろう。「いじめ自殺」ではいじめっ子に対して不当に過重な責任を押し付けてしまう危険がある。本当の殺人犯はいじめっ子ではない。文部省でも日教組でもない。学校の絶対性=学校信仰、そしてそれを支えている一人ひとりの意識こそが子どもを殺すのだ。

だから、安易に「より良い学校」を求めることは、学校の絶対性を強化してさらに子どもを追いつめることにつながりかねない。学校信仰に手をつけずに学校における現象的問題を解決しようとしたとしても、スターリン独裁体制を維持しながら強制収用所の待遇を改善すること以上の意義はもちえないだろう。あるいは、オリの中の獰猛なトラをなだめようとすることでしかない。


無限の世界へ!

実は、学校なんて普遍的・絶対的な存在なんかではない。たかだかここ百年ぐらいの間に人間が勝手につくってきただけだ。それまでは存在しなかったし、将来いつの日か消滅してしまうかもしれない。ほんらい人間は、そんなものに囚われず自由に生きることができる。学校は無数に存在する生きていくための場所の一つにすぎないのだ。スターリンの死後その絶対性が剥奪されたように学校のそれも破り捨てられねばならない。

アジア・太平洋戦争末期、地上戦の舞台にされた沖縄では「集団自決」という悲劇が起きた。米軍によって追いつめられた洞穴の中、親が子を、兄が弟妹を殺し、彼らもまた自らの命を絶ったのだ。天皇や国家への忠誠のためであった。米軍に捕まれば強姦されるか殺されるかどちらかだと信じ込まされてもいた。軍国教育が彼らを縛りつけていたのだ。だがそのような状況にあっても、あえて生き残る可能性に賭ける勇気をもち、米軍に投降した人もいた。敗戦後、忠誠を全うした人はあっさりと天皇・国家に裏切られ、軍国教育も否定されたが、生き残った人は戦争の悲惨さを語り、幸せを求めることができた。

学校信仰という名の錆び付きかかった鉄格子は、子どもを窒息しそうな狭さの中に閉じ込めている。だがそんなものはこじ開けてしまえばいい!一歩外に踏み出せば、この世界は無限に広がっているのだ。どこにでも行きたいところに行き、したいことをすることができる。命に替えてまで留まっている理由はどこにもない。


追記

学校を改善しようとすること自体に反対しているのではない。現象的な問題だけに目を奪われて学校の絶対性という根源的な問題が見えず、「より良い学校」イメージが一人歩きすることでかえってそれが強化されることを懸念しているのだ。選択肢の一つとして学校を改善するのであれば大賛成する。ただし何が「より良い」のかは人によって違うと思うが。

『脱学校通信』No. 56 (1996年5月)

もちろん、現在の僕の考えはこれとは大きく異なります。もしこんなものを書いたということがバレたら、反自由党から鉄の制裁があるでしょう。しかし、歴史的資料としての意義を考慮し、命がけでここに再録することにした次第です。誤字なども含めて変更はしていませんが、紙に印刷されたものをタイプしたので、新たなミスがあるかもしれません。


*1原文ママ。正しい書名は『僕らしく君らしく自分色』、出版社名は教育史料出版会です。


僕らしく君らしく自分色―登校拒否・私たちの選択

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