(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

教育基本法改正:サヨクは今のうちに賛成に回ってください



今から10年以上の前のことです。初台くんと登山に行きました。山道を登りながら、なぜか僕たちは憲法論議を始めました。初台くんは当時も今もノンポリ、当時の僕は「日本共産党には幻滅したけれどもまだ本多勝一はちょっといいかなと思っている」サヨクでした。

で、僕は当然「自衛隊憲法違反だから廃止すべきだ」と主張したのですが、初台くんは「じゃあ、憲法が改正されたら自衛隊に賛成するんだね」と言いました。それを聞いて僕はドキリとしました。たしかに、憲法を根拠にして自衛隊に反対するんだったら、9条がたとえば「可能な限り軍事力を強化して、チャンスがあったら侵略戦争をしかけるぞ、ゴラァ!」とかに改正されたら、軍隊を支持しなければならないことになってしまいます。

う〜ん、困った、と思って30秒ぐらい熟慮に熟慮を重ねて、結論に達しました。侵略戦争はとにかく悪い。憲法に何が書いてあっても関係ない。悪いから悪いんだ。だから平和主義者は、憲法がたまたま反戦的なものであれば利用すればいいし、軍国主義的なものになったら踏みにじればいい。つまり、まず憲法から出発して平和主義に到達するのではなく、平和主義がまず出発点で、その上で憲法が都合のいいものであれば賛成すればいいし、そうでなければ反対すればいいと思うようになったのです。

ところで話は変わりますが、最近話題になっている教育基本法がどうなろうが僕にとってはどうでもいいことです。教育それ自体をいかに破壊するかということが課題なのですから。死刑廃止論者が「絞首刑がいいか、電気椅子がいいか」という議論に参加しないのと同じことです。

というわけで本当にどうでもいいのですが、なぜだか気になってしまうので思うところを書きます。

教育基本法を変えることに反対している団体のサイトに、「教育基本法が「改正」されるとこんなことに・・・」という文章があります。

ここでは、たとえば「子どもたちの内心の自由[が]奪われ」るとか「教育機会の不平等が進」むといった問題点が指摘されています。しかし、子どもたちの内心の自由を奪い、人間に優劣をつけるのがそもそも教育というものです。法律が変わるからといってそれを心配するのは、死刑の執行方法を絞首刑から電気椅子に変更する案に対して「死刑囚の命が奪われるから」という理由で反対するのと同じくらいスゴイ論理です。死刑囚の命が奪われるのが嫌だったら、死刑それ自体を廃止しなければなりません。

もう1つ気になるのは、反対派の人々が、法律が変わったらこんな恐ろしいことになるぞ!という恐怖を振りまいて反対への賛成を獲得しようとしていることです。しかし、国会ではブルジョア政党(民主党+自民党)が圧倒的多数を占めるわけですから、現改正案がそのまま通るかどうかはともかくとして、似たようなものが成立することはほぼ間違いないでしょう。だとしたら、この基本法が改悪されたらこんなにヒドイことが可能になってしまう、みたいな煽りは賢明とは思えません。実際に「改悪」された後で、「そうだよ、この法律のおかげでこんなことやあんなことができちゃうんだよ。君たちが言っていたようにね」と反動勢力が言い出したら困ります。

ある法律が実際にどのような現実を生み出すか、あるいは生み出さないか、ということは、法律の中身とはあんまり関係がありません。もちろん、たとえば税金の法律とか自立支援法とか少年法みたいな具体的な法律の場合についてそう言うのは無理があるでしょうが、教育基本法のように抽象的なお題目しか書かれていない法律の場合、条文に何が書いてあろうと解釈しだいでどうにでもなってしまうと思います。

たとえば、現憲法でも、「自衛隊OK」「海外派兵OK」という解釈が可能で、現にそれが長くまかり通ってきたわけです。とすれば逆に、「領土拡大のための軍隊を整備する」という憲法になっても、「軍隊は違憲だ」という解釈が可能であることになります。法律に何が書いてあるかということよりも、それをどう解釈するか、どの解釈が支配権を獲得するか、ということが重要です。

というわけで、すばらしい教育を守りたいサヨクが今ただちに行うべきことは一つです。すなわち、教育基本法の改正に圧倒的に賛同することです。「改悪」という言葉を使うのは絶対にやめてください。なぜならば、改正案は自由と平等と平和と人権を推進し、すばらしい教育をさらにすばらしくするからです。

こうすることによって、「解釈の政治」で先手を打つことが可能になります。法律を作った人々がどんな気持ちだったかということは将来の解釈において重要になりますから、なんとしても民主的な教育の信者に国会で賛成演説をさせ、賛成票を投じさせなければなりません。自民党の議員に抗議のファックスを送るのはやめましょう。逆に、共産党社民党の党本部前で座り込みをして、賛成票を投ずるよう働きかけてください。

では、改正案はどのようにすばらしいのか? chikiさんによる「現行教育基本法と「教育基本法改正案」の比較」を参照してみましょう。

現行法


前文

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。

ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

改正案


前文

我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

まず、「われらは」が「我々日本国民は」になりました。「われら」だったら法律を作成したエリートだけに限られていたかもしれないわけですが、この変更によって主体が国民にあることがはっきりしました。もちろんサヨクであれば「国民」などという排他的な概念は粉砕しなければなりませんが、それは次の課題ということにしましょう。

改正案には、民主、平和、正義、というすばらしいキーワードもちゃんと入っていますね。公共、ちょっとこれは微妙ですが、たぶん、所得税を5倍にしてみんなで分けましょう、という意味です。伝統、これはすばらしい。サヨクにとっては常識ですが、伝統は守るものではなくて、新たに作るものです。未来にむけて、進歩を続けるぞという決意が表れています。それが「未来を切り拓く」という言葉につながってくるわけですね。

現行法


(教育の目的)第1条

教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

改正案


第1章 教育の目的及び理念

(教育の目的)第一条

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

これ、現行法があまりにひどすぎますね。「勤労」って働いてない人に失礼だよ。全体主義的な環境で「自主的精神」なるもの植えつけることが最も恐ろしい支配であるということはサヨクの常識です。どうりで、現行法のこの条文には「民主」という言葉がないわけです。ま、「前文」にはありましたが。「心身ともに健康な」というフレーズは説明抜きでNGですね。

これに対して、改正案では「平和的な国家及び社会の形成者として」が「平和で民主的な国家及び社会の形成者として」になり、全体主義ではなく民主主義が目指されることが明確になりました。「心身ともに健康な」が残ってしまったのは残念です。また、後の条文ではやはり「勤労」が出てきてしまいますが、元々あったものなわけですから、別に改悪ではありません。

疲れてしまって全部は読んでいないので、この後の条文しだいでは上記の解釈には修正が必要かもしれませんが、基本的に、改正案にある問題は現行法に元々あったものだし、逆に現行法にあった問題で改善されているものがある、という解釈が可能です。

すばらしい教育のおかげですばらしい大人になったと思っている人は、子どもたちにもっとすばらしい教育を受けさせるために、このすばらしい改正案に賛成した方がいいのではないでしょうか?

いや、反対派の人々は、別に従来の教育基本法がすばらしいと言っているわけではありません。ただ今回の「案」が重大な改悪であるというのが彼らの主張です。

しかし、教育そのものを嫌悪する立場からは、全く違いが見えません。細かな違いに熱くなるよりは、そもそも教育とは本当にいいものなのかということを、まず立ち止まって考えた方がいいと思います。

教育基本法を維持すべきか、変えるべきかという議論に反自由党は参加しません。少なくとも、教育規制法の制定が選択肢に加わるまでは。