百万眼的な視点
僕は教科書というものを廃絶すべきだと信じてきました。けれども、乙武洋匡さんがそれよりも素敵な提案をしてくれました。
複眼的な視点
http://sports.cocolog-nifty.com/ototake/2005/08/post_6a7b.html
教科書には二種類あります。当たり障りのないことが書かれている普通の教科書と、嘘八百に満ちた「新しい歴史教科書を作る会」が作った新しい教科書です。あ、いや読んだわけじゃないけど、たぶんそうです。
ところがどうです。
普通の教科書を採択する学校がほとんどで、扶桑社の嘘物語を採択している学校はたったの0.039%!
あらビックリ。
これはどう考えても偏っていますね。
こういう時に、凡人ならこう考えます。オーソドックスな教科書を採択する学校を50%にして、残りの半分の学校では歴史修正主義の教科書を使うことにしよう。
でもそれだと、個々の子どもたちはどちらかの教科書しか使わないという現状を変えることにはなりません。
そこで画期的なのが、乙武さんのアイディアです。
教科書を2冊とも使ったらどうだろう。
・・・たとえば、「韓国併合」。扶桑社版とそれ以外の教科書では、ずいぶんと書かれ方が異なっています。それは、「この歴史的事実をどの国から見つめるか」という視点の違いから来ています。
だったら、どちらの国からも見てみよう!——というのが僕の考え方です。2冊の教科書を読み比べてみれば、「なぜ日本が韓国併合を行ったのか」「それを韓国はどう受け止めたのか」という、双方の主張・立場がわかる。この複眼的な物の見方こそが、これからの国際社会を生きる人間に必要なものだと思うのです。
ものすごく斬新でいて、同時に「なんで今まで考えつかなかったんだろう」と不思議になるような提案です。
今まで僕は、いかにして教科書の権威を失墜させるか、ということをクソ真面目に考えすぎてました。教科書を燃やせ、だなんて、当たり前すぎて面白みがないですよね。
昔、あるギリシャの偉い哲学者が偽札を作ったそうです。それは、価値のない紙切れとお金の区別がつかなくなるようにして、お金というものの支配に反逆するためでした。
っていうのは又聞きなので正確じゃないかもしれませんが、ギリシャ時代の話はどうせ全てが又聞きなんだからまあいいじゃないですか。
それと同じことです。
まともな教科書と同時に、嘘っぱちの教科書を全ての子どもに与える。
良い考えです。
もう、教科書を信用する人なんていなくなるでしょう。
ただ、乙武さんのアイディアは既に十分素敵なのですが、僕はさらにスゴイ提案をしたいと思います。
教科書を100万冊使ったらどうだろう。
これは、「複眼的な物の見方」をさらに発展させたものです。
「2冊」っていうのはたしかに複数ではありますが、どうせ複数なら100万の方が景気がいいです。
しかも、この100万冊には矢追純一とか細木数子とか江原啓之とかの本も含めます。ボーガスニュースの記事は短いので10本で1冊とカウントします。
それでテストも100万冊の「教科書」に準拠させるのです。ただしランダムに。たとえば「UFOは存在する。○かXか」っていう問題が出たとして、正解は先生にもわかりません。こうすることによって無味乾燥だった試験にロシアンルーレット的なゲーム性が確保されます。
コロンブスの卵です。
僕はこれまで、どうしたら1をゼロにできるかということに頭を悩ませてきました。けれども、1を100万にしてしまえば、ほとんどゼロも同然。と、そういう話ですね。
(書き終わってから気づきましたが、乙武さんのエントリーは2005年に書かれたものなんですね・・・。扶桑社版教科書の採択率は変化してるかもしれません。)