あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞
ケーキを売ればいいのに 三宅秀道さん
また、別の回に、資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということをわかりやすく説明したくって、四川の震災のニュースを挙げてトリアージの概念を説明した。絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。
これ、「トリアージの判断をしなければいけないお医者さんたちもつらいだろうな」というのではないんですよ。そうでありつつ、でもひとりでも多くの人を助けようとしたら、そこで考えなければいけないんだろうな、それを「戦略性」とでもいうのでしょうか?と聞いてきた男子学生には、僕は巧くコンセプトが伝わった、その通り!と褒めたい感じですが、「可哀想じゃないですか致命傷の人を見捨てるなんて」。でもそういう非常事態では、特に医療資源は有限だからこそ、適切に配分しなければならないという考えなんだよ、とくどく説明した。
「そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?」と書いてきたお嬢さんもいた。そりゃあ、この大学のOGが、福祉業界に入って数年で燃え尽きてしまうというのは当たり前だよこれじゃ。この人たちの目に映るのは「目の前の最善」だけで、「全体や組織から見た最適」というのはコンセプト自体が頭の中にないのだ。いや、こちらはできるだけ冷静に、穏和に説明したつもりなんだけどなあ。
もちろん、これから少しずつでももうちょっと考えを深めさせていきたいと思いますが、なぜこうなるのだろうかわからない。社会問題を感情的に批判していれば解決するとでも思っているのだろうか。誰か悪意の人がいて、それを取り締まるべき人がまた心がけが悪く責任を果たしていない、だからそれに文句をいえば社会は良くなる、みたいな社会観が根底にある気がする。
そんな選別をしたら捨てられる側はたまったものじゃないですか。
ここには何重もの詐術があります。
人の命は算術的な比較が可能であるというゴマカシ。そのような足し算割り算は、いつも権力者が独占するそろばんで行われます。
「もう助かりそうにない患者」と助かりそうな患者を判別できるというゴマカシ。そのような診断は、おうおうにして自己成就的なものです。医者に「助かりそうにない」と判断されて見捨てられた患者は助からない場合が多い。そうなったら、はたして医者の予言が当たったのでしょうか?
「全体や組織から見た最適」というゴマカシ。これは、先日取り上げた小田亮さんのコメント対応においても見られました。
正義と倫理のあいだについて ※欄
ここで小田さんは、大学教育を受けていない者や受けても成果が得られなかった者への蔑視を露わにした上で、大学人の自由は特別扱いで認められるべきだと説きます。そしてそのような自由は一般人には必要ないことを付け加えます。またそのような不平等なアレンジメントが、実は社会全体の利益になるのだと強弁します。これを、ネオリベ用語でトリクルダウン・イフェクトと呼びます。
しかし「全体」自体が敵対性によって構成されているのです。「全体や組織から見た最適」の名の下に個が切り捨てられるとしたら、それは常に敵対するある特定の位置からなされます。
三宅秀道さんは、その特定の位置を自由に選択しています。ところがトリアージというなじみのないカタカナ語を振りかざすことによって、あたかもそれが政治的な選択ではなく、万能のプロセスの自動的な適用であるかのように振る舞っているのです。これを自己欺瞞と言います。
学生たちは、その自己欺瞞を批判しました。それを三宅さんは、「感情的」であると決めつけて否定します。他人が「感情的」だといって騒ぐとしたら、その人自身が感情的である第一の症状です。三宅さんの文章にはいらだちがあふれています。他者の感情の被害者を装うことによって、自分の感情にだけは正当性があるように振る舞うゴマカシがここにあります。