(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

すでにはじまっていることについて



 ところで関係ないんですが、現在、世界同時多発的に学生運動が盛り上がってます。残念ながら、僕はここ数週間、あまりニュースをフォローしていませんでした。何がどういうことなのか、まだよくわかってません。

 なんとなくのイメージとしてはこんな感じ。とりあえず急いで書いときたいので本当に適当ですが、詳しい人がいたら訂正とかお願いします。

 

 ギリシャで国家がウルトラひどいことをした

 ↓

 若者がマジギレ→暴動

 ↓

 海外在住のギリシャ人まで暴れはじめる

 ↓

 それを見たヨーロッパの若者が、「じゃあ俺も」「いや、私も」。と言って暴れはじめる

 ↓

 ついにニューヨークに飛び火。New Schoolを占拠。


 New Schoolの場合、「引き金」となったのは、トンデモ学長がトンデモトンデモしたトンデモマネージメントを強行しようとしたことです。で、New Schoolというのはしかし、極左の巣窟なのです。学生ではなくて教授が。「私、サヨクだからね! ぜったい、ぜったいにサヨクなんだから!」と宣誓しないとポストが得られません。というわけで、まず教授陣が学長に対して「んざけんな!」とキレました。学長は逆ギレしました。

 それに乗っかるかたちで、学生たちが大暴れしだしたのです。っていうか部外者もワラワラよってきて一緒に暴れました。これ、学生運動では普通のことです。


 けれどもこれは決して局地的な現象ではありません。


 学生たちの「要求」の中にはいくつかの具体的な項目があります。けれども、そんなものは口実に過ぎない。そしていつどこにでも口実はあります。

 ではなぜ今なのか?

 もちろん、ギリシャを見たからです。

 あんなことが始まってるのに、何かしないなんて常識的にありえなくなくなくなくなくなくなくなくない? そう言えば、学長ひでーよなー。よし、あれをネタにしよう!


 というのが今回の話です。*1


 ちなみに全共闘とかも似たようなもんです。東大の場合は医学部の不当処分問題、日大の場合は理事会が授業料ガッポリ取って私腹をこやしてうっほっほ問題。というような口実がありました。しかし、その程度の問題はいつでもどこにでもあるのです。ではなぜ1968であったのか? と考えないと、何にも見えてきません。


 New Schoolの若者たちは、次のように訴えています。


ニューヨーク市より:


我々はNew School大学をたったいま占拠した。我々はこの空間を自分たち自身、そして我々に加わりたい全ての者が何にでも自律的に使えるようにするために、解放する。我々は、ギリシャで、そしてイタリアで、フランスで、スペインで大学やストリートを占拠している人々への連帯を明らかにしつつ、この大学を奪取する。


大学の企業化と教育一般の疲弊というNew Schoolでの具体的な状況への応答として、この占拠は始まる。だが、危機にあるのはこの大学だけではなく、ニューヨーク市にもわたる。つまり、これからの数ヶ月間において、我々のうち何千人もの者たちが職を失い、また他方では多くの者は住居費を支払うことができず、住む場所が得られず、生活費は高騰するだろう。


だから、このような耐え難き状況の一般的本質は資本制のスペクトラムを横断して、大学に、街に、我々の社会関係の全てにおいて存在することを強調しておこう。この理由により、New Schoolにおいて こよい始まることは、ここにとどまることはありえず、またあってはならない。


したがって。我々はこの占拠を期として、ニューヨーク市と合衆国における占拠を連鎖させ、この危機の時代に到来しつつある占拠やバリケード封鎖、そしてストの波をうち放つ。


約束しよう。これは始まりに過ぎない。


ニューヨークよりギリシャへ連帯と愛を込めて

イタリアへ、フランスへ、スペインへ、

到来しつつある暴動へ。


New School占拠委員会


[原文はこちら→ http://mail.kein.org/pipermail/nettime-l/2008-December/001108.html ]


 このいざこざ自体は、収束の方向に向かいつつある。問いは、「次はどこだ?」というものだ。


 その前に。

 ちょっとこのサイトに行ってみてくれ。

http://www.newschoolinexile.com


 英語なんか読めなくていい。写真とか動画とかをクリックしてみてくれ。


 あるいは、これだな。

http://www.youtube.com/user/givehimdanger


 どうだ? ワクワクしてきたか?

 これが、大学というものだ。

 大学はただこのためだけに存在する。

 大学は、これをやるためだけに存在する。








 そして今朝も書いたように、僕はこういうものはダメだと思ってる。ギリシャについては本当に知らないけど、ニューヨークの学生運動に革命的意義はない。


 ここからはちょっとジジェクをパクることになる。このような「抵抗」は、悪の親玉に依存している。親玉に「要求」をつきつける。しかしその親玉が倒れたらどうなる? 学長を打倒したらどうなるっていうんだ? 誰かが「よりまし」な学長になるのだろう。そしてシステムはいっそう強固なものとなっていく。岩盤浴ゲルマニウムみたいなものだ。そして今回きっかけとなったような問題は、別のかたちで当然のように存続するだろう。




 それじゃだめだ。

 学生運動なんてやってるようじゃだめだ。

 それも含めてシステム全体をぶっ壊さなきゃいけないんだ。



 ただ、これに同意しない諸君も多いことだろう。

 けっこうなことだ。


 数ヶ月前に、新宿駅ルミネ下の広場で、中核派がビラを配っていた。ついに福田辞任を勝ち取る、とかなんとかって言って。あのー、ごめん、それ、もまいらの手柄じゃないから、って言いたくなったよ。


 それに関連して言おう。

 このままだと、日本の大学は大学でなくなる。

 学生運動のない大学は大学の名に値しない。

 自滅するであろう。


 それじゃあ反自由党の立場はどうなっちゃうわけ? 僕たちは、僕たちの力で大学をぶっつぶしたいんだよ。



 というわけで、いいじゃないか、大学に希望をもつ諸君はその方向でがんばってくれ。な! 本来の大学とは何か、考えてくれ。そして学生運動がないことがいかに異常な事態であるかということに驚がくしてくれ。


 繰り返す。我々は、「さかさまの世界」に生きている。何があたりまえで、何がおかしいのか? 何が普通で、何が異常なのか?


 その問いに諸君が覚醒し、学生運動に身を投じたときに、大学が息を吹き返すだろう。


 それでこそ我が敵にふさわしい。

 それでこそたたかう意味があるというものだ。


 次は、お互いにゲバ棒を用意してから会おう。今日は、とりあえずハグして別れよう。





 革命は、いつどこで行われるのだろうか? 誰が始めるのか? もう始まっているのか? それはどこで行われているのか?




 革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。すくなくとも、私たちの身のまわりに於いては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています。海の表面の波は何やら騒いでいても、その底の海水は、革命どころか、みじろぎもせず、狸寝入りで寝そべっているんですもの。

 けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけ得たと思っています。そうして、こんどは、生まれる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。(太宰治・斜陽より)

 ここで言う革命とは、真の意味での「人間的」な革命のことである。ここでのかず子(斜陽の主人公)の言葉は、いまの僕の心境にぴったりとあてはまる。僕の革命は、……(略)……することから始まった。さまざまの悩みや葛藤を経て、現在は……(略)……することが、僕の、古い道徳(価値観)に対するたたかいである。革命や、その闘争の形式は、人によってそれぞれのやりかたがあると思うし、また、いろんなやりかたがなければいけないと思う。たとえば、所謂「暴走族」にとっては、オートバイに乗って突っ走ることが革命であり、闘争の形式だと思う。また、所謂不良中学生にとっては、教師に暴力をふるうことが革命であり、闘争の形式なのだろう。そして、学校や社会と自分、その葛藤に悩み苦しんで自殺していった少年たちにとっては、自殺が革命である、そして最後の闘争の形式であったのだろう。

 僕は、暴走族を負け犬の遠吠えとののしり、不良中学生を落ちこぼれとさげすみ、自殺した少年たちを意気地が無い、弱虫だと軽蔑するような人達を、殴り倒してやりたい。その人達は、人間の必死な生きて行く努力を嘲笑する人達だ。人間の命を嘲笑する人達だ。


 私は港の息づまるような澱んだ空気に堪え切れなくて、港の外は嵐であっても、帆をあげたいのです。憩える帆は、例外なく汚い。私を嘲笑する人たちは、きっとみな、憩える帆です。何も出来やしないんです。——(中略)——この問題に就いて、何も、ちっとも苦しんでいない傍観者が、帆を醜くだらりと休ませながら、この問題を批判するのは、ナンセンスです。私を、いい加減に何々思想なんて言ってもらいたくないんです。私は無思想です。私は思想や哲学なんてもので行動した事は、いちどだってないんです。

 世間でよいと言われ、尊敬されているひとたちは、みな嘘つきで、にせものなのを、私は知っているんです。私は、世間を信用してないんです。札つきの不良だけが、私の味方なんです。札つきの不良。私はその十字架にだけは、かかって死んでもいいと思っています。万人に非難せられても、それでも、私は言いかえしてやれるんです。お前たちは、札のついていないもっと危険な不良じゃないか、と。(斜陽より。傍点筆者)

 このかず子の話は、僕の、暴走族の、不良中学生の、そして自殺していった少年たちの言いたかったことを、全部代弁してくれたようなものだ。札つきの不良。僕は、まさにそれを自分だと言いたいのだ。また、暴走族や不良中学生の諸君は、このかず子の話をぜひ聞いてもらいたい。「お酒をやめて、ご病気をなおして、永生きをなさって立派なお仕事を、などそんな白々しいおざなりみたいなことは、もう私は言いたくないのでございます。『立派なお仕事』などよりも、いのちを捨てる気で、所謂悪徳生活をしとおす事のほうが、のちの世の人たちからかえってお礼を言われるようになるかも知れません。」(斜陽)

 最後に、いま、僕の知らないところで、きっと若者が自分なりのやりかたで、古い道徳とたたかっているに違いない。その人たちに僕は言いたい。たった一人の革命でも、いつかきっと……。

 

篠原史 「たった一人の革命でも」*2

「反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する――はてなとmixiと秋葉原グアンタナモ天国の比較自由論」からの使い回し。


*1:というわけで稲葉さん、今回ばっかりは残念賞です→ http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20081219/p1

*2:『子どもたちが語る登校拒否―402人のメッセージ』, 1980[?] = 1993, pp. 431-432.『斜陽』の引用は篠原のものをそのままコピー。