(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

飯島愛の先生



 最近はテレビをほとんど見なくなってしまった。ネット中毒だからだ。

 正確にはテレビ番組を見ることはあるが、YouTubeで見る。


 さて、このたびの訃報にせっして、ふと思い出したことがある。

 僕がまだテレビっ子だったころのことだ。


 久米宏が司会。たぶん。よく覚えてないけど。

 それは「成功者の半生」を再現して、本人がスタジオでコメントする、みたいな番組だった。

 それで飯島愛が出てきた。

 そう、彼女が「成功者」であった時代があったのだ。

 そしてこれはそのころの話だ。


 彼女の半生は壮絶なものだった。

 その中のエピソードとして、超ウルトラ最低な教師に出会ってしまったという話があった。

 そしてそれを「きっかけ」の一つとして彼女は不良街道に突入するのであった。。。

 詳しくは覚えてない。たぶん、彼女の自伝を読めば書いてあるんじゃないかな?

 僕は特に興味がないから、記憶を確かめたいとまでは思わない。


 さて、たとえば不登校児の語りを収集してみるとわかることなんだけど、この「きっかけ」というものほどアテにならないものはない。

 少なくとも「原因」とはまったく別物として見るべきだ。


 というのはここではどうでもいいことだ。

 話を続けよう。


 再現VTRが終わって、久米宏が、以下のような発言をした。

 いや、もちろん発言内容は覚えてない。

 ただ、悪い教師に出会わなくて、良い教師に出会っていればよかった。

 と解釈しうる発言をした。


 それに対して飯島がどんなリアクションを示したかは覚えていない。


 でも僕にとってはショッキングなことであった。

 さまざまな感情がごちゃまぜになって到来した。

 怒りなのか、悲しみなのか、くやしさなのか?





 当時の飯島は「成功者」であり、そういう者としてそこにいた。

 そして彼女は過去に壮絶な体験をしていた。

 そういう役割を、その番組のなかでは与えられていた。


 であるとするならば、彼女の半生における重要なエピソードがなかった方がよかったと捉えることは、現在の(=当時の)彼女にとってどんな意味があるのか?


 過去を取り消すことはできない。

 取り消すことが可能なのだとしたら、答えは決まっているのかもしれない。

 けれどもそれが無理だとしたら、これは難問である。


 そして彼女は「成功者」だった。


 そのことが、この問いに対して一つの角度を与えていた。

 あの苦しみがあったからこそ、今の彼女がある、という例のあの言い方だ。

 これについては、ずいぶんと前に↓で書いた。



「登校拒否解放の(不)可能性」前編 中編 後編


 さてそれから時間がたった。

 半生があり、半生を振り返る時点があり、それもまた半生、いや全人生の一部となった。


 そして最後の瞬間に飯島愛は「成功者」ではなかった。

 実際のところは知らない。

 しかしマスコミ物語的にはそうだ。


 そして今こそあの問いが本当の意味で試されている。

 少なくとも僕にとっては。







プラトニック・セックス

プラトニック・セックス

  • 作者: 飯島愛
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2000/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)