(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

わたしはクイアです。異性愛を殲滅(せんめつ)しにきました。




 われわれの主張に関して、誤解がまんえんしているようである。おそらく、われわれの正体をあらわにすべきときがきたのだろう。


 異性愛者だと思いこんでいるものたちよ。われわれをみてなつかしくないだろうか?

 そうなのだ。われわれは、諸君が異性愛者としてほかのものとの境界線が引かれたときに排出されたくずである。諸君はこの排泄物にクイアという名を与えた。



 ながいとまどい、くるしみ、涙、怒り、絶望、彼や彼女やあいつの死をへて、われわれは立ち上がった。そしてながいとまどい、くるしみ、涙、怒り、絶望、彼や彼女やあいつの死にいたった。そしてまた立ち上がり、なぶり殺され、嘲笑され、あるいは「尊重」されてきた。


 そしてまたわたしたちは立ち上がった。

 これまでと同じように、目的はただ一つだ。

 異性愛を殲滅し、クイアを解放することである。



 間違ってはならない。われわれは、男・女・ゲイ・レズビアンというリストに加えよと要求しているのではない。なかには寛大にもそれを認めようという異性愛者もあるという。しかし間違ってはならない。われわれは、まずそのような異性愛者と戦おう。


 われわれは、男女という区別のなかにゲイやレズビアンという新たなカテゴリーを容認することの欺瞞から、痛みを持って学んだ。それはマイノリティを家父長主義的異性愛に組み込むことに他ならないのであり、また、「ゲイ」というカテゴリーもまた内に敵対性を秘めているのだ。



 われわれは、諸君の社会に統合されるために来たのではない。破壊しに来たのだ。

 クイアと異性愛者が対等に共存共生することはありえない。なぜならば、クイアを排泄し、排除し続けることによってはじめて成立するのが異性愛という制度だからだ。

 われわれは立ち上がった。そして勝利する。異性愛にとって、その意味するところは一つしかない。



 正常な男女があり、トランスジェンダーがあり、インターセックスがあると思ってはならない。そもそも、男女という制度は幻想である。これは理系では常識である。人間を分類するカテゴリーは無数に存在しうるし、わけないこともできる。

 したがってこれは、トランスジェンダーというマイノリティに対して寛容であるべきかどうかという問題ではない。そうではない。いかにして男女二元論を解体するか、これが唯一の意義ある問いだ。


 われわれは、立命館当局および自治会諸君による弾圧に歓喜すべきだ。そうなのだ。われわれは諸君にとって不快なのだ。危険な存在である。武器をもち、決着をつけるしかない。



 なお、最後に言っておく。

 表現の自由について。われわれは表現の自由がクイア解放に都合がよければそれを利用するし、都合が悪ければそれを認めない。

 学問について。われわれは学問の自由がクイア解放に都合がよければそれを利用するし、都合が悪ければそれを認めない。

 ただブレないことがあるとすれば、われわれがクイアであり、たちあがったのであり、このたたかいは、どちらかが負けるまで続くということだ。


 異性愛者諸君。覚悟はよいか? 武器は用意したか? 革命は既に始まっているぞ。


↓僕がまだピチピチのクイアだったころに書いたエッセー


「登校拒否解放の(不)可能性」前編 中編 後編