(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

「『撃論ムック』から取材依頼が来た」(「ヘイトスピーチに反対する会」)への個人的追記

リアルサヨクって めんどくさいですね。


せんじつの かいぎでも、ゆうがたから はじまって、「いろんな はなしが でているので、とりあえず けつ(終了時刻)を きめよう」ということになり、じっとしてるのが にがてな ぼくなどは ほっとして、「まあ、9時くらいまでになるのかなあ」と おもってたら、さいしょに でた ていあんが「11時」。。。。おいおいおいおいおいw 東京シューレ時代を おもいだして なつかしいのはいいんだけど、おっさんとしては そろそろ きついぜ。


さて、「ヘイトスピーチに反対する会」のブログも、いちおう たすうけつのない ごうぎせいで うんえいされていて、きそうさしゃが まず げんあんを ながし、「たたいて」から まあいいんじゃね、てきな ながれに なってから こうかいすることに なってます。ちなみに じまんですが、「1.24で逮捕されたAさんへの攻撃について」の したじきは ぼくが かきました。





それはともあれ、しんえんとりーが あがったようなので 全文コピペします。さいごに、こじんてきな ついきを ふします。

『撃論ムック』から取材依頼が来た(前)


先日、西村幸祐責任編集『撃論ムック』(オークラ出版)の記者から、メールにて取材依頼を受けました。
「在日外国人参政権・推進派vs反対派」というルポを書くために、「推進派」である「ヘイトスピーチに反対する会」に話を聞きたい、というのが主旨だそうです。


しかし、あいにくですが「反対する会」はこのような取材に答えるつもりはありません。
それだけではなく、このような主旨の記事を掲載しようとする『撃論ムック』なる雑誌を、公式に批判しなければならないと考えました。


順を追って説明しましょう。


1.まず、「ヘイトスピーチに反対する会」はあくまで、「行動する保守」ら下からの保守・排外主義運動と、その土壌となっている差別・排外主義や歴史修正主義とに対抗する団体です(呼びかけ参照)。
いま政治日程にのぼっている外国人参政権についても、その「推進」運動にたずさわっているわけではまったくありません。


もちろん、推進運動にたずさわっている人びとの行動やその意志は、尊重したいと思っており、また敬意もいだいています。
ですが、現行の法案にはかかわっていない立場にあるからこそ、わたしたちは次のように言わねばならないと考え、また実際そう発言しました。


「そもそも選挙権とは、それぞれが平等な政治的主体のひとりとして投票をつうじて意思表示する権利であり、上からお恵みのように与えられる特権として扱うべきではない。それは、同じ社会に暮らす人々が互いに承認しあうべき権利である。」(1.24行動呼びかけ
「この国では「国民」の範囲が非常に狭く閉じられているからこそ、「国民」から排除される人びとへの権利承認の問題が、「外国人」参政権というかたちで問題化しているだけです。あくまで問題は、民族的・文化的他者を政治主体として承認できるかどうかでしかありません。」(何が問題なのか4


出自や文化や民族性のちがいを問われることなく、ましてや「相互主義」などといった「上」の都合などに制限されることなく、同じ社会に暮らす人びとが、誰でもひとしく政治参加の権利を認め合わねばならない。
「外国人」参政権は実現されるべきだが、それは「この国の人には与えてもいい」とか「あの民族には与えられない」とか、あれこれ資格をつけて上から目線で与えるべきものではない。
同じ社会に暮らす者どうしとして平等な立場からたがいを認めあうという、たったひとつの基準だけがあればよく、政治システムはそれをただ制度として追認するだけでよい。


以上のような考えから、わたしたちは1月24日にカウンター行動を起こしました。
ゆえに、わたしたちは「外国人参政権賛成」ではあっても、『撃論ムック』なる雑誌の記者がそう描きだそうとしているような「推進派」ではありません。




2.それを知ってか知らずか、『撃論ムック』の記者はわたしたちにモーションをかけてきました。かれが描き出したい「推進派vs反対派」の構図にうまく乗せられると思ったのでしょう。
しかしあいにく、わたしたちは「差別・排外主義への反対派」です。
その立場から、差別・排外主義のケーススタディとして、この雑誌を批判しておきましょう。


まずは執筆者の顔ぶれから見てみます。
安倍晋三田母神俊雄といった国家機関の最上層部から転げ落ちたタカ派土屋敬之のような排外主義パフォーマンスだけが売りの地方議員、拉致問題を排外ナショナリズムの扇動に利用した西岡力のような「反北」保守、西尾幹二櫻井よしこのような古参の歴史修正主義者、それから桜井誠や有門大輔のような下からの排外主義者、等々です。あと、これらすべての流れに迎合する自称「ジャーナリスト」西村幸祐のようなタイプもいますね。
過去20年ほどのあいだにこの国に登場した保守・排外主義者が、勢ぞろいです(詳細はこちら)。
かれらは威勢がいいようでいて、けっきょくは、他者を排除し内に閉ざされた、ありえない社会像を描くことしかできない人物たちです。


ただし、このような執筆陣をそろえているからこの雑誌を批判するわけではありません。
この雑誌を作ったり書いたりしている人たちは、もともとそういう言動を行っているのであって、べつに『撃論ムック』に書こうが書くまいが、わたしたちはかれらを批判するからです。
この点について最も批判すべきは、そういう雑誌を出させているオークラ出版です。
マンガ嫌韓流』を出している晋遊舎もそうですが、『撃論ムック』のような、日本社会に寄与するとは到底考えられない排外主義的な言説を流布し、在特会のような排外主義の運動を後押ししているからです。
たとえば在特会が、朝鮮学校を襲撃し、そこに通う小中学生の子どもの心に重大な傷を負わせたことについて、現在まで、あるいは過去に在特会をもてはやし、増長させたオークラ出版晋遊舎日本文化チャンネル桜などは、どのように責任をとるのでしょうか。
そもそも、そういう「社会的責任」という考え方がこれらのメディアにあるのでしょうか。


在特会のような分かりやすい排外主義集団だけではなく、そういう排外主義を許容し煽りさえするような出版社・メディアをも、わたしたちは問わねばならないと考えています。
そして、『撃論ムック』や『マンガ嫌韓流』のような分かりやすい例のみならず、左派メディアにも、本質的には強権的・排斥的でしかない言論を流させているものがあります。
たとえば、佐藤優城内実のような人物に好きなことを言わせている、週刊金曜日岩波書店朝日新聞社、情況出版などがそうです。


在特会のような集団は、左右問わずこうしたメディアが許容し、あるいは進んで扇動しているメッセージ、つまり「この社会では「日本人」のことだけが配慮されるべきであって、「他者」のことは気にしなくていいし、気にしていてはいけないのだ」というメッセージを、とことん真に受けているに過ぎません。


http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-32.html

『撃論ムック』から取材依頼が来た(後)


※ まず先に『撃論ムック』から取材依頼が来た(前)をお読みください。


3.さて、『撃論ムック』それ自体の批判に戻ります。
この『撃論ムック』という雑誌は、「撃論」というタイトルからしてそうですが、なにやら自誌が「戦う」雑誌とか、秘密を「暴露」する雑誌とか、「抵抗する」雑誌とか、そういうものであるかのようなことを、端々でしきりにアピールしています。
「マスコミが絶対に伝えない「日本の真実」」、「NHKの正体」、「誰も教わらなかった日本近現代史」、「メディアが死守する戦後レジーム」、「STOP! 日本解体計画――抵抗の拠点をどこに置くのか」、等々、そういうタイトルやアオリは挙げきれません。


そして、わたしたちが批判したいのはそこです。
この雑誌はことさらに「抵抗者」「反対者」のそぶりを見せますが、実際はただの強権主義に過ぎないということを、はっきりと言っておきます。
個々の執筆者がどんな社会的立場にあるのかは(政治家であろうが、年収100万円台のフリーターであろうが)、ここでは問題ではありません。


執筆者たちのメッセージは、要するにこれに尽きます。「国家やマスメディアは、反日(とかれらに見えるもの)をきちんと抑圧せよ、何も言わせるな!」
ただ、それが実際にはそうならないから、現にある政府やメディアの反対者としてふるまっているだけに過ぎません。


政権が自民党であろうが民主党であろうが、問題があれば批判するのは当然のことです。
また、テレビ局や新聞社のようなマスメディアへの批判それ自体も、やるべきことでしょう。
だれでも情報の発信者になれる手段をもつことができる時代にもかかわらず、マスメディアは自分だけが社会に流す情報を取捨選択する権限をにぎっていると思っているのですから。
政権批判おおいによし、マスメディア批判おおいによし、です。


しかし『撃論ムック』のような雑誌による批判の先には、メディアも政府も「日本」という権威をふりまわせ、その権威によって人びとを押さえつけろ、という要求しかない。
なんとみごとな体制翼賛。これを「抵抗者」や「反対派」と呼べるのでしょうか。




4.最後にもうひとつ、こういった手合いの矛盾を指摘しておきます。
この雑誌にかぎらず、最近の保守・排外主義は、「印象操作」や「捏造」という言葉を多用しています。
おわかりでしょうが、NHKは台湾のドキュメンタリーで「印象操作」を行ったとか、南京大虐殺の死者数は捏造だとか、そういう具合ですね。


ですが、極論すれば「印象操作のまったく入らない純粋に客観的な情報伝達の方法」なんてものはこの世に存在しません。
まあこれは、どの国でも自国に都合のいいように歴史を書くのだと主張している「つくる会」系の歴史修正主義者のかたがたには、よくおわかりのことでしょう。


では、だれもが好きなように「印象操作」と「捏造」を加えた情報をたれ流してもいいのか?
そうではないでしょう。どのような「印象操作」がされているのかが、そこでは問題となるはずです。


わたしたちは、在特会が差別・排外主義を扇動していると「印象」づけていますが、だからといって、かれらが自分をそう見せようとする「抵抗者」という「印象」のほうが正しいというわけではありません。
どちらの「印象」が正しいかをめぐって、言論や運動が起こるわけで、それ以前にあらかじめ「何が正しいか」が決まっているわけではないのですから。


ただし、これだけは言えます。
あらかじめ「何が正しい印象か」を決めつけているのは、あるいは少なくとも「何が正しい印象か」を日本国家の抑圧メカニズムによりかかって決めているのは、自称「行動する保守」や、歴史修正主義者や、タカ派政治家たちであるということです。


ようやく結論です。
『撃論ムック』は「推進派vs反対派」という印象操作をおこなっています。
本質的には強権的な体制翼賛者でしかない保守・排外主義を、あたかも「抵抗者」や「反対派」であるかのように印象操作しています。
『撃論ムック』編集関係者は、自分たちが国家の抑圧機構に迎合しながら扇動しつづけている差別・排外主義を、あたかも下からの抵抗運動であるかのように演出するのをやめなさい。
自分たちの見え透いた「印象操作」を棚上げして、「推進派vs反対派」といった両論併記のそぶりを見せることをやめなさい。


以上の理由から、わたしたちは『撃論ムック』からの取材をスルーします。
ただし、この記事だけにかかわらず、当ブログから引用・転載については、まったく制限をもうけていません。


http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-33.html

まず、客観性や 「印象操作」については、こじんてきな けんかいをもっています。



つぎに、「たとえば、佐藤優城内実のような人物に好きなことを言わせている、週刊金曜日岩波書店朝日新聞社、情況出版などがそうです」という れいじに、理論社を くわえないわけにはいけません。『不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』は、理論社という しにせから でたためにこそ、さまざまな であいの ちゅうけいてんとなりました。また、がっぼり おかねを もらいました。べっけんで したうけ ぷろだくしょんの へんしゅうしゃには ただいなる めいわくを かけており、その せいさんが なされていない だんかいで このような ことを こうげんするのは もうしわけないし、かっこわるいのですが、理論社も また 金光翔「<佐藤優>現象」と なづけた よくさんたいせいに さんかする せんたくを したいじょう、ここで この ついきをしなかったら、まさに 「「<佐藤優現象>批判」スルー現象」です。それが どういうことを いみするかについては、ようしょうのみぎりの 「いじめ」たいけんの おかげで わかっています。いずれ 「理論社著者声明」的なものを よびかけたいと おもってますが、できるかな。やりたいな。



とりあえずの ついき、いじょうです。



参考

「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-23.html