(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

強制と選択

「感情の制禦について深い関係があるユダヤ哲学についての宮台ツイートのまとめ」(宮台真司:みやだい・しんじ)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=869

わたくしは いつも激高し、泣いて、こぶしを にぎりしめている。


感情的になってるって? ああ、そうなんだよ。よくぞ わかってくれた。ありがとう。


わたくしの ほほに すいてきを みたら、こうずいだと おもってくれ。わたくしが ほほえんでいたら、なくことさえできない くやしさを おもってくれ。わたくしが おこっているように みえたら、そう、わたくしは おこっているのだ。


ぎゃー!


いかりよ。わたくしを みちびいておくれ。正義へと。いかりよ。わたくしを みすてないでおくれ。ここにいてくれ。やくそくする。わたくしは、きみを 否認することはしない。







ツイッターをプログにまとめろという要求がツイートされましたので…」(宮台真司:みやだい・しんじ)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=866

「僕がツイートした「一般永住外国人についての論点」をまとめろという声に応えて…」(宮台真司:みやだい・しんじ)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=868


 社会学の使命は、脱神話化にある。
 たとえば、教育制度が機会の平等を促進するという神話。社会学は言う。機会の平等はフィクションである。教育は不平等を固定化しつつ、平等のよそおいを演出する装置であると。


 神話、社会学、覚醒。
 覚醒には副作用がともなう。快感である。
 快感には依存性がある。
 快感が忘れれない依存症患者は、神話さがしに熱中しはじめる。


 だが困ったことに、社会学は産業となってしまった。そこかしこにころがっている神話には、あっというまに同業者がむらがり、社会学してしまう。


 どうしたもんだろうか?





 え?
 「「在日=強制連行」図式」?
 なにそれ?


 ぼくは、3年半ほど、小学校に通っていたことがある。そのうち3年弱は、兵庫県赤穂市立塩屋小学校ですごした。そんな教育は受けたおぼえがない。
 政治的にものごころついたのは1980年代後半である。その時期を、ぼくは東京シューレですごしていた。日本人ではない人々が日本列島に渡り、生まれ、育ち、生きているのだということを知るようになった。「ころされた / 警官のまえで ころされた」という歌を歌いにきた在日韓国人がいた。中国人が来て、外国人が日本の役所でどんなあつかいを受けるかということを語った。
 そんなごく平凡な中産階級左翼の環境にあって、朝鮮半島からの強制連行について知った。1989年の北海道合宿。たまたま、小グループで朱鞠内(しゅまりない)に行った。湖をみおろすおそろしく貧弱な展望台のそばに、強制労働についての掲示をみつけたことをおぼえている。
 一方でまた、ほかの偶然や出会いにより、朝鮮半島から日本列島への移住にはさまざまな経緯があることも知るようになった。


 「「在日=強制連行」という虚偽図式」?
 なにそれ?


 侵略。植民地支配。土地調査事業。済州島4・3事件。朝鮮戦争。さまざまな経緯。ぼくは少しずつ学んできた。なに一つとして隠されていたものはなかった。本屋に行ってごらん。図書館に行ってごらん。ネットで検索してごらん。事実は、手の届くところにある。きみが知らないのだとしたら、それはきみが選択したことだ。「「在日=強制連行」という虚偽図式」という虚偽図式。それを可能にしているのは、きみが知恵をしぼって選んできた無知だ。ありもしない神話をでっちあげて暴いてみせる。偽装された脱神話化の覚醒にひたる。在特会や主権回復を目指す会が反体制派をきどって民主党政権に「危機感」をいだいてみせているのと同じように滑稽なペテンだ。きみの問題は無知ではない。無知であるとしても、より根源的なレベルで「あえて」無知であろうと努力しているのだ。だから、解決策は教育でも啓蒙でもない。暴力だ。




 そのうえで、強制連行という確認された事実は、大日本帝国から現代日本にいたる在日韓国人在日朝鮮人一般の歴史において重要な位置をしめている。それは日本の植民地支配の性質を誤解不可能なまでに示しているからだ。大日本帝国朝鮮半島を侵略した。強制連行を平然と立案し、実行する暴力を有していた日本人による支配。そして1945以後の南北分断。それが移民の文脈だ。「さまざまな」経緯の多様性は、強制連行を参照点の一つとして共有している。


 「一旗あげに行ったにすぎない」?
 社会学の使命をもう一つ紹介しよう。それは個人の「自由な」選択を規定する構造をうかびあがらせることである。強制連行の事実は日本帝国主義の構造の輪郭をえがいている。「自由な」選択はその構造によって強制された状況においてなされたものである。そしてそのような強制への反逆を自由と呼ぶのだ。




 高校「無償化」はそうした植民地主義的構造を持続させる政策である。それは朝鮮学校への新たな攻撃だ。在日は日本の高校も朝鮮学校も「自由に」選ぶことができる。しかし国はすべての高校を一律に援助しながら、朝鮮学校や無認可の外国人学校は排除する。これは事実上、日本民族主義教育を行う日本の高校へ行けという経済的強制として機能する。あるいは、「第三者機関による審査」によって、朝鮮学校のあり方に恫喝を行う。それが構造だ。


 だが、それでも朝鮮学校はある。高校生がいる。彼らは何を選択しているのだろうか? 「無償化」外しだけではない。それについて知ろうとした。ワンクリック先には朝鮮学校への弾圧の歴史についての情報がころがっていた。それでいてなお、なぜ在日の人々は朝鮮学校を選ぶのか?




 その問いについてのヒントを、朝鮮総連系列の月刊誌『イオ』から獲得した。ほかのあらゆる媒体と同じく、ある一定の制限の枠内で作られている雑誌のようだ。4月号(No. 166)に「学校選択:あなたは? (上)――【日本学校出身者】自分を大事に思えなかった経験、ムダにはしない」という記事がある。
 人間の自由は状況との関わりのなかにある。強制する構造。選択できない構造。選択を強いる構造。だが人間の自由はそのような構造自体に介入する。選択肢を選ぶだけではなく、選択の条件を選ぶ。
 記事では、みずからは日本政府支配下の学校に通った在日朝鮮人の、子どもを朝鮮学校に通わせることを選択するに際しての逡巡、不安、葛藤、誇りについて紹介されている。読んでみたまえ。選択を許さない強制。その状況自体を、選びなおそうとしている人々がいることを知るだろう。
 強制はいつも選択とともにある。保障された「選択の自由」という強制。強制する構造に介入する選択。この二重性が人間の自由というものである。


 無償化除外がいやなら日本の高校に行けばいいじゃないか。差別がいやなら帰化すればいいじゃないか。そういう言いかたは現に日本の高校に行ったり日本国籍を取得した人々への差別に鈍感であるばかりか、それ自体が自由を踏みにじる強制である。日本の学校を選ぶ人。朝鮮学校を選ぶ人。選びなおす人。学校に行かない人。さまざまだ。だが多様な選択の背後には、強制という統一的な文脈がある。
 無償化外しに反対し、「第三者機関」の設置に反対することは、そのような強制に反対するということである。



 『イオ』4月号には、ぼくの登校拒否体験談も掲載していただいた。かなりのぶぶんは『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(2005年)第四章と重複しているが、にじみ出てくる怨念のレベルでは逆のことを書いた。5年たって変わったのではない。同じことを逆から書いたのだ。登校拒否に興味のある諸君には、ぜひ比較しながら読んでもらいたい。
 「ちょうせん がっこうの せいとたちは すんだ めを している」という日本人高校教師の発言は徹底的に批判されなければならない。しかし、具体的な獲得目標がある場合に、そのような発言を容認するという選択はありえないと断言できるだろうか? 容認しているように見える人にもまた葛藤があるのかもしれない。そのようなことについて考えるヒントにも、ひょっとしたらなるかもしれない。


 『イオ』は朝鮮総連ごく一部の書店かネットで買えるとのことである。




参考エントリー
Korean Schools to Be Excluded from a Policy for All | Dissident Voice
朝鮮学校「無償化」除外と北朝鮮への経済制裁について - 催涙レシピ


選択の幻想から反学校の政治へ 第一回 無人島主義 - 催涙レシピ
選択の幻想から反学校の政治へ 第二回 奴隷の「選択」 - 催涙レシピ
選択の幻想から反学校の政治へ 第三回 学校制社会と反学校 - 催涙レシピ