(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

まるで「北朝鮮みたい、中国みたい」というのをやめるだけでなく、まるで大日本帝国みたいとも言うな!

「まるで中国、北朝鮮」と言うのではなく、「まるで大日本帝国」と言おう。 - 村野瀬玲奈の秘書課広報室


日本の悪いところを表現するために、「北朝鮮」なり「中国」なりが持ち出されるとしよう。その際にまず指摘されるべきなのは、そのようなイメージは、現実の朝鮮民主主義人民共和国中華人民共和国とは無関係に浮遊しているということだ。それらの国に不正義がないということではない。というか、不正義はどこにでもある。正義の役割はまさに、どこにあっても、いつなんどきでも、不正義を嗅ぎつけ、告発することにある。したがって、正義ある限り、正義が果てるまでは、不正義はある。いつだって。どこだって。


第二に重要なのは、日本がまずあって、それが「北朝鮮」なり「中国」なりに比されるのではないということだ。そうではない。そうしたイメージを構成的外部とすることによって、日本なる同一性が立ち上がるのだ。本来、日本は「北朝鮮」や「中国」とは_異なり_、自由で民主的で人権が保障される平和国家である・・・。ところが安倍によって脅威にさらされている。こうした物言いによって、日本という一つの本質が作られる。「北朝鮮」でも「中国」でもない、また安倍の脅威にさらされている日本というイメージ。それは、あらかじめあるものではなく、そのような排除や脅威によって初めて事後的にあったことになるのだ。


では、たとえを大日本帝国に置き換えてみよう。そうすることによってどのような効果が発生するか? 言うまでもなく、「戦前」と「戦後」をわかつ境界線の幻想である。ここにおいて「戦前」は悪魔化され、それを構成的外部として「戦後」がでっち上げられる。自由。民主。人権。そうしたデマカセは、「戦前」との対比によって意義を持つ。安倍がいる。軍靴の音がする。まるで「戦前」みたいだ。これでは「大日本帝国」だ。


こうして日本は、本来は自由で平和で民主的であるが、安倍という悪魔の使いによって、「大日本帝国」の使いによって、危機にさらされているかのような演出が成立する。まったく、話があべこべだ。


日本は、1945によって切断されることは、実際にはなかった。あなたは、苦しくないのか? あるいは他者を苦しめているという自覚はないのか? 「戦前」みたいなんじゃない。日本とは、ずっとずっとそうなのさ。


安倍のせいにしてはならない。「戦前」と「戦後」という区分自体がナンセンスだ。そのままつながっている。続いている。それ自体がそのまま悪であるものが。


そのような認識を獲得するならば、つまり幻想ではなく現実によって日本をとらえるならば、答は一つだ。悪は、悪い。悪いものを打倒しよう。


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