(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

反自由党のニート・ひきこもり・不登校政策



先日、「ニート・不登校・ひきこもり NEXT VISION FORUM」というイベントに参加させていただきました。以下は、その際にお話しするために用意していた原稿に、後から手を加えたものです。当日は想定していたようには早口でしゃべることができなかったので、かなり割愛しなければなりませんでした。



 さきほど「バランス」ということが話題になりましたが、僕は今日バランスを取るつもりはありません。せっかく呼んでいただいたのですから、可能な限りの極論を申し上げるつもりです。バランスを求める方は、各自で取ってください。

 ニート・ひきこもりが本当に存在するのか、いるとしてもそれは一般に抱かれているようなネガティブなイメージが当てはまるような人たちなのか、ということが争われています。しかし、これは果たして実りのある論争なのか、いささか疑問をもっています。

 そもそも、ニートに限らず、あらゆる集合的カテゴリー、それは性別でもいいし階級でもいいし人種でもいいし民族でもいいわけですが、こういったもの全ては、自然世界に最初から存在していたものではありません。もちろん、人間にはあらゆる違いがあります。目の色も違えば背の高さも違うし、生殖器官の機能も違うし肌の色も異なる。これらは自然にあるものです。しかし、自然の中にある混沌とした様々な膨大な違いを、私たちは直接に把握することはできません。違いに意味を与え、分類していくのは、人間の社会的行為です。

 ですから、ニートが本当に存在するのか、ニートという言葉はある集団の実態を正しく表しているか、ということを議論してもあまり面白くないと思います。社会学の入門書には、ある状況がリアルであると人々が定義すれば、それは結果的にリアルである、ということが書かれています。そこにニートがいるからニートという言葉があるのではなく、ある種の人々を指してニートと呼ぶことによってニートが生れるのです。

 だとすれば、ニート・ひきこもりという言葉の意味をあらかじめ保証するような本質はないことになります。むしろ、これらの言葉はいわば空の入れ物で、そこには色んな人々の思いがこめられうるでしょう。そしてそれは、様々な文脈の中で、時には正反対の機能を果たします。これらの言葉はもちろん、明らかにネガティブなニュアンスを持つものですが、しかし、逆に「おまえはニートだ」「ひきこもりだ」と名指された人々が、そのまさに同じ言葉にしがみつきながら差別に抵抗するということもありうるし、また、多数の人にニート・ひきこもりというレッテルが暴力的に貼られることによって、逆にマイノリティーが共通項を得てつながっていく、共同していく、ということが可能になるかもしれませんし、そういう例は既に現われています。

 たとえ話をしますと、かつて、この世界に同性愛者は存在しませんでした。もちろん、男性同士、女性同士の性交渉はたくさん行われていたわけですが、かつての社会では、そのような行為をする人々が特別な存在であるとか、一つのグループを構成しているとは考えられていなかった。ところが、近代になって、精神医学の発達に伴い、これらの人々は「異常」であると考えられるようになりました。この時、「同性愛者」は誕生したのです。さて、これは差別でしょうか? 誰とセックスするかということを基準にして人間を分類するのは、批判されるべきでしょうか? これについて、あるゲイの哲学者は面白いことを言っています。たしかに、「同性愛者」というカテゴリーは権力によって暴力的にでっち上げられたものである。しかし、この言葉が誕生したことによって、「同性愛者」の「同性愛者」としての自覚や文化も生まれ、「同性愛者」の連帯を生み、差別それ自体に対する抵抗も可能になったと。

 もう一つ例を挙げますと、部落差別という問題があります。生れた場所によって、「エタ・非人」などといって人を差別するのはもちろん誤りです。しかし、明らかにネガティブな感じの漂うこの言葉も、当事者があえて名乗ることによって、解放の叫びとなりました。1922年の水平者宣言には、「吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ」という文があります。

 さて、このように、人間を分類するための言葉は、多くの場合、差別によって生み出されます。しかしその言葉がどのような機能を果たすのかということは、言葉を生み出した人の意図だけでなく、言葉に名指された人も参加する政治的な闘争にかかっています。言葉がどのような意味を持つかは、誰が、誰に対して、どんな文脈で語るのか、そして誰が耳を傾けるのかによって変わってきます。

 ですから、僕は「ニートって言うな」とは思わない。「ニートって言うな、って言うな」って思ってます。少なくともニートじゃない人がそう言う権利はないでしょう。フランケンシュタイン博士が作った人造人間が博士の意図を超えて凶暴化し、ついには博士を殺戮したように、ひきこもり・ニートという言葉を普及させた医者や学者たちも、もはや自らが生み出したモンスターを完全にコントロールすることはできません。ひきこもり・ニートたち自身もまた、「ひきこもり」「ニート」という言葉の定義を巡る闘争に参加しだしたのです。ウソだと思ったら2ちゃんねるを見てください。というわけで、私たちがすべきなのは、これだけ普及したニートという言葉を禁句にすることをめざすことではない。そうではなくて、その意味をめぐる社会的闘争に参加し、ニート・ひきこもりに対する差別にいかに抗っていくか、ということだと思います。


 僕自身は一応仕事をしていますので、ニートでもひきこもりでもありません。ですから発言資格がどれだけあるかはわかりませんが、言葉を巡る闘争の目指すべき方向性について、思うところを述べさせていただきます。

 ニート・ひきこもりに対する社会的な偏見は、とても否定的なものです。勤労意欲がない。我慢することができない。すぐあきらめる。根性がない。犯罪を犯す。。。このような偏見に対して、社会学的な反論が現われました。『「ニート」って言うな! (光文社新書)』の中で、本田由紀さんは、ニートと一括りにされている膨大な人にもさまざまなタイプがあり、大半は仕事があればやる意志をもっていること。また、いわゆるニートとしてマスコミでふりまかれているイメージ、つまりひきこもりっぽい人とか犯罪者予備軍のような人、ステレオタイプに当てはまるような者は少数派であることを主張しました。

 本田さんの善意は疑うべくもないのですが、しかし僕は手放しで共感することができません。というのは一つには、僕の日々の実感からです。僕は仕事をやってはいますが、できれば働きたくありません。仕事が嫌です。本当に嫌です。やりたくない。今の仕事が合ってないというよりは、とにかく働くのが嫌なんです。仕事先に向かう電車の中で、「隕石でも降ってこないかなあ。そしたら休めるのに」とか、本気で思ってますよ。これまで若者に対するネガティブキャンペーンをやってきた政治家や学者は、後藤さん、本田さん、内藤さんの本が出て、自分たちの放言がことごとく論破されてしまって、「やべ〜」と思ってるかもしれませんね。*1でも、もし今日、そういった方の関係者がいらしたら、安心するように伝えてください。少なくとも一人、根性の腐りきったダメ人間がここにいます。

 それはともかくとして、本田さんの戦略は、若者に対する偏見を解いていく、というものです。「ニートは○○だ」という偏見に対して、主に統計的データを用いながら、いや、そういうニートはむしろ少数派で、大半はそうではない、と彼女は主張します。

 僕は『ニートって言うな!』を読んで、どこかで聞いたような話だな、と思いました。不登校・登校拒否に対する差別に抵抗する運動の一部の中で取られてきた戦略を思い出したのです。本田さん自身は、不登校に対するかなり素朴な偏見を垣間見せていたりもするのですが、それはともかくとして、彼女の、若者に対するネガティブなイメージを払拭して若者への差別と対抗しようという戦略は、一部の不登校関係者が取ってきた、不登校に対する偏見を批判し、それに反するような「実例」を紹介して差別と戦う戦略を思い起こさせるものです。

 かつて不登校は、徹底した差別と否定の対象でした。そのような現実を背景にして、奥地圭子さんら不登校関係者は、不登校に対するネガティブなイメージを書き変えようと努力してきました。

もちろん、奥地さんも不登校の単に美しい面だけを編集して提示しているわけではありません。奥地さんの本には、必ず不登校に伴う暴力や神経症のエピソードが出てきます。しかし、その場合でも、それらが登校拒否の「本質」とは切り離されたものであることを強調するような構造の物語が用意されています。そのような仕組みは、たとえば、奥地さんの以下の発言に見ることができます。


不登校そのものは病気ではない。本人が登校することを心や体が拒否する何かの経験や感覚あるいは意識があってのことで、いわば学校制度に対する生き物としての反応をしたわけだ。ところが、日本社会は、不登校を容認しない。…不登校とからんで出てくる症状は、そういった社会状況の中で、存在が受け止められず、自分でも自分を肯定できず、強い不安にさらされたり、苦しい状況に追い込まれたりする中で発症しているものが多い。…私たちは、症状をどうにかしようというより、なぜ子どもはそんな症状を出しているのかを考え、子どもに共感し、家庭を居場所とし、社会の中にも居場所をつくり、がんばることよりマイペースと自己決定を大事にする姿勢でやってきた。とてもたくさんの例が、医者にかからなくても安定し、落ち着き、元気になった。医者にかかわって元気になった人もいるが、医療にかかわらないとダメということではない。

この枠組みのなかでは、「不登校とからんで出てくる症状」が、不登校自体とは別の、「プラスアルファ」のものとして捉えられています。こうすることによって、暴力、神経症、ひきこもりといった不登校にまつわる「汚物」を切り離して、不登校を美しいものとして提示することが可能になります。

「無臭ニンニク」ならぬ、「無臭登校拒否」のできあがりです。「登校拒否は病気ではない」し、不登校自体は無害なものなのだから、「存在が受け止められず、自分でも自分を肯定できず、強い不安にさらされたり」という状況さえ改善されれば、「安定し、落ち着き、元気に」なることができる。そして、学歴社会をものともせず自分を売り込んで就職することもできるし、結婚することもできるし、名のある大学に入ることもできる。現にA君は…だし、Bさんは…になったし、C君は…なんてことまでしている。学校に行かなくなったからといって、何を心配する必要があるだろう……。

 しかしでは、「無臭」ではないニンニクの臭いがするニンニク、病気・暴力・ひきこもりを抱え続けた不登校児の立場、とくに大人になっても生きがたさを抱えている者の立場は一体どうなってしまうのでしょう。「不登校=ダメ人間」という偏見がとけ、不登校でもエリートになれることが実証されたとして、それは不登校差別の解消を意味するのでしょうか?

不登校エリートのような人々のことを、社会運動ではモデルマイノリティーと呼びます。モデルマイノリティーたちの存在は、社会的偏見に対する反証となります。「ゲイは性欲のカタマリだ」という偏見に対しては慎み深いゲイが、「黒人は野蛮だ」という偏見に対しては知的な黒人が、「女性は仕事ができない」という偏見に対しては女性社長が、存在として反論となっています。同じように、「学校に行かない者は病気だ。彼らに未来はない」という差別に対して、私たちは、健康に社会でエリートとして活躍する元不登校児の存在を指摘することによって抗うことができるでしょう。

 しかし、そうした瞬間に、私たちは大切な何かを失うことになると僕は思います。なぜならば、それは差別の「基準」を受け入れることだからです。問題なのは、「ゲイは変態だ」という認識がどれほど現実を反映しているかということではなく、「変態」と「正常」を分け、「変態」を忌み嫌うことそれ自体であるはずです。ゲイに対する統計調査を行うこと、モデルマイノリティーの存在を宣伝することによって、「ゲイは変態だ」という偏見は薄れていくかもしれません。しかし、「変態」と「正常」を分ける発想が温存されるのであれば、「変態的なゲイ」と「正常なゲイ」がいることになり、変態に対する差別は相変わらず続くことになります。そして差別に反対するはずだった運動は、より深く陰湿な差別をもたらしかねません。

 「成功例」と言えるような不登校経験者は、少数派です。多くの人が、学業や仕事で困難を抱え、病気になり、人間関係につまずいています。とすれば今や、不登校を一括りにすることはできず、「良い不登校」と「悪い不登校」が存在すると言えるでしょう。近い将来、不登校という言葉は消滅し、この両者に別の名前が与えられることになるかもしれません。

 しかしこれは、やむにやまれず、八方ふさがりの状況で、かつて「学校に行かなくて何が悪い」と叫んだ人々の思いからは、遠く離れた現実であるのではないでしょうか? 私たちが言いたかったのは、学校に行かなくても「正常」の基準を満たすことができるということではなく、「異常」で何が悪い、正常・異常に関わらず全ての人の存在が肯定されるべきだ、ということであったはずであると思います。

変態左翼の日比野真さんは、こう言っています。


ホモやオカマは決して「普通の人」ではありません!!


ホモやオカマが嫌われるのは、それらが異常(=時代の多数派権力が生き延びるために恣意的に創り出した生け贄/スケープゴート)だからなのだ。「異常な私たち」が、異常なままで、堂々と今の社会の中に生きることが大切だ。決して「同性愛者は正常な普通な人だ」などと言ってはならない。そう言ってしまうことは私たち自身に対する最大の裏切りだ。正常化され毒抜きされた「普通の姿をした」同性愛者を社会が受け入れることが大事なのではない。私たちが生きる今の社会秩序---性別2分法と「男らしさ・女らしさ」の性別役割を押しつけ、ホモフォビア(同性関係嫌悪)で、強かんや暴力などの「男のわがまま」を黙認し、セックスを悪いことだと考える社会秩序を、変態で性的倒錯者でホモで異常でオカマな「私たち」こそが、堂々と解体しなくてはいけない。

http://barairo.net/works/TEXT/hutuunohito.html

差別に反対する者こそが、マイノリティーに対する偏見を、そのまま肯定すべきです。ひきこもりは犯罪者予備軍で、無気力で怠惰で、無能で、不道徳で、ゲーム脳で、歯の噛み合わせが悪いと言いましょう。*2武部幹事長や、猪口邦子大臣や、小沢一郎党首に、激励の手紙を送りましょう。なぜならば、争われるべきなのは、偏見が真実であるかどうかではなく、偏見が問題となってしまうことそれ自体であるからです。

 ひきこもり・ニートもまた、さまざまな差別・偏見の対象となっています。これに対して、「いや、それは彼らの実態からずれている。彼らの真の姿は○○だ」と反論する人々も現われてきました。しかし僕は、ひきこもり・ニートと分類される人々の「真の姿」が何であるのかということには興味がありません。偏見に反するような「実例」を指摘したり、統計的なデータで偏見を覆すことは、「良いニート」「悪いニート」を生み出すことでしょう。しかしどんな統計テクニックを駆使しようが、僕のようなダメ人間が一定数いることは否定しようがありません。2ちゃんねらーがよく知っているように、「ダメなやつは何をやってもダメ」なのです。

しかし私たちが目指すべきなのは、適性ある者が偏見によって無能と誤解されることがないような社会ではなく、したがって本当にダメな者は相変わらず切り捨てられるような社会ではなく、全ての人が無条件に肯定されるような社会であると僕は思います。ニンニクから匂いを除去し、コーラからカロリーを抜き取り、ビールからプリン体をカットするのではなく、登校拒否を、ニートを、ひきこもりを、誰一人として「トカゲの尻尾きり」のように切り離すのではなく、そのまま、丸ごと、生きていていい、と言うべきです。

もしマイノリティーに「モデル」が必要であるのならば、それにふさわしいのはネオ麦茶であり酒鬼薔薇聖斗でありM君であり宅間さんであり新潟事件の青年でしょう。支配的価値観から評価しやすいような人材を「発掘」してきて寛容の精神を示すことではなく、最も忌み嫌われるべき、おぞましき者たち、「限界」を超えてしまったような者たちを肯定できるかどうかということによって、私たちの差別との距離は測られます。

永野潤さんという哲学者が、


「納豆はあの臭いがいやだ。あの臭いさえなければ……」などと言っている人のどれぐらいの人が、超爽やかフレーバーの納豆が開発されたとして、「こんなのを待っていた」とそれを食べるだろうか。結局納豆嫌いだってだけちゃうんか…。

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060408

と言われています。いや、もし仮にそんな商品がヒットしたとしても、それは納豆にとって名誉なことと言えるでしょうか? かつて、南アフリカアパルトヘイト政策を実施していて、有色人種に対して厳しい差別を行っていました。ところが、高度経済成長をへた日本人は、「名誉白人」として歓迎されました。一体、これほど不名誉なことがかつて他にあったでしょうか?

では、登校拒否を、ニートを、ひきこもりを肯定するとはどういうことか。それはたんに、「学校に行かなくたっていい」「働かなくっていい」「家にいたっていい」と主張することではありません。

かつて、不登校への差別が今よりも激しかったころ、私たちは「学校に行くか行かないかは選択の問題だ」と主張しました。しかし、そのよう考えが一定程度浸透していく中でわかってきたことは、問題は個人に選択の自由が与えられるかどうかということではない、少なくともそれだけではない、ということです。学校に行かないことを「選んだ」人々は、現在、経済的・精神的な問題に直面しています。それは一つには、学校というのは個々の施設のことだけではなくて、社会の隅々まで、学校的価値観が支配しているということがあります。だから、不登校を肯定する、と言うためには、単に子どもに選択の自由を与えるというだけではなく、この学校化しきった社会全体を変える必要があります。

ひきこもりについても、ひきこもる自由があるのか、それはあくまでも治療の対象であるのか、という議論、というかケンカがあって、斉藤環さんや高岡健さんらが争っています。しかし僕は、そういう議論を特権的な知識人が行うことに滑稽さを感じます。たとえば、肢体障害者が、地下鉄を利用する自由を考えてみましょう。「あなたには地下鉄を利用する自由があるよ」「いや、障害者は地下鉄に乗るな」と障害者の前で健常者が議論を始めたら、二人ともぶん殴られることでしょう。問題なのは、個人に選択の自由が与えられるかどうかではなく、全ての地下鉄の駅にエレベーターが設置され、必要があれば多くの人が気軽に手を貸すような社会を、いかに実現すべきか、ということです。そのような状態が実現して初めて、「選択の自由」を云々することは意味を持ち得ます。

不登校児もニートもひきこもりも、社会の外に存在するわけではありません。私たちは、何をしようがしまいが、どこに行こうともどこに留まろうとも、同じ一つの社会に生きています。私たちは、社会を通して初めて、登校拒否児でありニートでありひきこもりであるのです。そしてこの社会では誰もが、互いに関係し合いながら生きています。マイノリティーの問題を、社会から切り離して解決することはできません。マイノリティーを肯定するということは、すなわち社会それ自体を変えるということです。

では、ひきこもり・ニート不登校を肯定するために必要なことは何か? それはズバリ、共産主義世界革命です。ここで言う共産主義というのは、全ての人が、無条件で、平等に尊重されることを目指す運動です。性別だろうが年齢だろうが民族だろうが障害だろうが「血」だろうが、さらに言えば、意欲だろうが、個性だろうが、努力だろうが、能力だろうが、いかなる尺度による差別も認めません。支配的な尺度にあてはめてマイノリティーの「救える」側面を探そうとするのではなく、尺度による支配それ自体を廃絶することを求めるのが共産主義革命です。

この「革命」というところが重要です。さきほど、雨宮処凛さんへの質問者の方が、「生きているだけで金をよこせ」というようなことを要求しても、大企業などの人は「なんで私たちの稼ぎを働かない連中に回す必要があるのか」と言うかもしれない、ということを指摘されました。もっともな疑問です。しかし安心してください。そういう人たちは、収容所にぶち込みます。革命とは、支配階級に同情を求めることでも、「わかってもらう」ことでもありません。そうではなくて、そのような態度の選択を可能にするような支配関係それ自体の転覆をはかることです。

働かなくてもいい社会をつくりましょう。仕事をしなくても、経済的に困ることがない制度を作りましょう。保守派は、働かない者を叱責します。良心的なリベラルは、個人を責めるのではなく経済政策によって雇用問題を解決しようとします。しかし、もうたくさんです。ニートの根性を叩きなおすのでもひきこもりのコミュニケーション能力を鍛えるのでもなく、また彼らに「機会」の幻想をふりまくのでもなく、ニートだろうがひきこもりだろうが不登校だろうが、そのまま、生きているということ自体に価値があるし、それを支えるような世界を目指すべきだ、というのが共産主義者の主張です。


最初に書いたように、全てを話す時間がなく、また後で修正を加えたので、これは当日お話しした内容とは異なります。なお、事前にこのイベントのブログに投稿した文章が、以下にあります。これも上とはじゃっかん違いがあります。

http://next-forum.dreamblog.jp/blog/20.html


 会場から2つの質問をいただきました。まず「ごかいの部屋」というメルマガを配信されている丸山康彦さんから、「ニート・ひきこもり・不登校などのレッテルの使用を禁止するレッテル禁止法案を検討してはどうか」と問われました。これに対しては、レッテル自体には何も保証はないということを繰り返した上で、これらのレッテルがどのような効果を持つかはこれから様々な人々がどのようにそれらのレッテルを使っていくかということかしだいであり、あらかじめ予測することはできないとお答えしました。

 さらに「目に映る21世紀」というブログを書かれている園良太さんから、「モデルマイノリティー」について質問をいただきました。これにはうまくお答えすることができなかったので、園さんのブログに以下のようにコメントさせていただきました。


たとえば、アメリカでは、黒人は、徹底的な差別の対象でした。黒人であるというだけで、さまざまな機会を奪われていました。これに対応する公民権運動は、キング牧師のワシントンでの演説で頂点を迎えました。彼は言いました。「私には夢がある。私たちの子どもたちが、肌の色ではなく、人格のありかたによって判断される日が来ることを」。これはもちろん、肌の色によるあからさまな差別が行われていたアメリカの現実に対する強烈な異議申し立てであり、現にキングは何度も投獄されています。

 さて、現代のアメリカでは、キング牧師は犯罪者ではなく、国民的英雄になっています。学校の教科書には彼の演説や拘置所から書かれた文書が「名文」として公認の教材になっています。先日、キングの夫人が亡くなった際には、公民権運動のかつての闘士はもちろん、クリントン・ブッシュ夫妻すら葬式にかけつけました。

 「キングの夢」が、もやは、体制側に取り込まれてしまったと言えるでしょう。

 一方、公民権運動を受けて、大学入試制度の改革が行われました。人種によって入学を拒否することは(ごく一部のトンデモ学校を除いて)なくなりました。また、これは現在ではバックラッシュにさらされてはいますが、アファーマティブ・アクション積極的差別修正主義)によって、困難を抱える有色人種の生徒に対して、入試の際に一定の手心を加えるということがなされています。

 こうして一定数誕生したのが、「モデルマイノリティー」です。彼らは、かつては黒人には閉ざされていたようなポジション、教授や、医者や、弁護士や、ビジネスに進出していきました。

 さて問題は、黒人差別を解消する運動にとって、この現象は前進と言えるのか否か、ということです。モデルマイノリティーは、これまで黒人には閉ざされていた領域に進出していって、黒人も白人とかわらず「能力」を発揮できるのだということを証明しました。

 しかしここに、微妙な問題があります。というのも、それは、要するに、黒人でも白人のようになれる、ということに他ならないからです。モデルマイノリティーの存在が示しているのは、あくまでも黒人でも白人的価値体系のなかで高い位置を取ることができる、ということであって、そこではあくまでも白人至上主義が温存されています。黒人を排除せよ! というのはもちろん差別です。しかし、この黒人は、私たちの基準をクリアしている、だから歓迎する、というのも、レイシズムであることにかわりはありません。会場では、ある作家の、「進歩に関するアメリカ的考えとは、いかに速く白く(白人に)なるかということだ」という言葉を紹介しました。

 一方で、黒人の多数派はモデルとは言いがたい状態にあります。若い男性の犯罪率は高く、平均的学力は低く、抜け出しがたいようなスラムが形成されています。これは一つには、中産階級的な成功を収めたモデルマイノリティーたちが、郊外に移るようになり、黒人地区に残ったのは困窮した人々だけだった、という現実があります。

 かつて、モデルマイノリティーは、自分たちが出世するだけではなくて、自らの属する集団事態自体を引っ張り挙げる役割を果たすであろうという楽観的観測がありました。しかし、キング牧師の死後数十年をへて明らかになったのは、モデルマイノリティーの「上昇」は、黒人コミュニティーの解体をもたらした、ということです。

 となると、モデルマイノリティーの存在は、はたして反差別の運動にとって「前進」と言えるのか、なかなか難しい問いです。前進とも言えるし、2歩前進、3歩後退とも言える。明確な評価は下しがたいと思います。

 フォーラムでは、最初に申し上げたように、「極論」を言うことを目指しました。ですから、特に不登校のモデルマイノリティーについて否定的な捉え方をしたわけですが、本当のところは黒白つけがたい、と思っています。彼らの存在は学校化社会に「アリバイ」を与える。モデルマイノリティーが受け入れられたからと言って、差別が本質的に縮小したかと言えば、そんなことはない。しかし一方で、彼ら不登校エリートが、差別を言わば「すり抜ける」形で立身出世したことによって、不登校当事者自身の語りが耳を傾けられるという状況が生れたのも事実です。そしてそこには、エリートからは程遠いような、ダメ人間が滑り込んで語りだすような可能性が、ないとは言えません。

 というわけで、フォーラムで申し上げたように、微妙だと思います。

http://srysrysry.blogzine.jp/meniutsuru/2006/06/_next_vision_fo_03b2.html

これでもご質問の趣旨とはずれているかもしれません。

また、休憩時間中に、ある知人から、「全ての労働を否定するの?」と聞かれました。もちろん、労働になんらかの積極的な意義を見出す人はいるでしょう。しかし本当に労働に意義があるのであれば、強制された労働に感じる喜びよりも、働いてもいいし働かなくてもいいという条件で、それでもなお働いて得る満足感の方が、より大きな輝きを持つのではないかと申し上げました。

終了後の打ち上げで、別の知人から、「いやー、共産主義とか言ってもそれを本気でやるわけじゃないでしょ。たとえばここにいる人みんなの頭の上に年収がバー、と表示されて、はい、じゃあ今から平等に再分配しましょうとか言われたら嫌だもん」と言われました。全くごもっとも、僕も嫌であります。。。


*1:これに対しては後藤さんから「いや、そんなことはないと思いますよ」とツッコミが入りました。

*2:歯については http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2006/05/post_3047.html を参照してください。