(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

選択の幻想から反学校の政治へ 第二回 奴隷の「選択」



学校に行けなくなった10歳の頃の僕にとって、学校に行かないことは絶対に許されないことでした。このままでは生きていく資格はないと思っていました。そのような僕にとって、東京シューレ奥地圭子さんとの出会いは、大きな転換点となるものでした。初めてシューレに行った日、「学校に行かないことは悪いことではないんだよ。法律違反でもないんだよ」と彼女に言われた時のことは今でもはっきりと覚えています。そのように言われて、そして、自分と同じように学校に行っていないのに平然と遊んでいる人々を見て、押しつぶされそうに重い肩の荷が降りたように感じました。

シューレに入ってしばらくの間は、それまでの反動からか「学校に行ってない方がエライ!」などと考えたりもしましたが、しだいに丸くなり、「どっちでもいいじゃないか」と考えるようになりました。「学校には行ってもいいし、行かなくてもいい。本人が決めればいいことだ」。こんな考え方は、かつての僕だけではなく、学校に行かないことを肯定する人々のコンセンサスになっています。たしかに一見すると、非常に「成熟」した考え方に見えます。学校に行かないことを頭ごなしに否定するのでも、逆に行かないことをヘンに持ち上げるのでもなく、そんなことにこだわらなくてもいいじゃないか、と軽くサラッと言ってしまうわけです。中沢淳さんは、1991年に以下のように宣言しました。


学校に行く、行かないは、おおげさに言えば人生の一つの選択に過ぎないと思うのです。ですから学校をこよなく愛する人たちには、皮肉ではなく未来永劫学校に行ってもらえれば、それはそれで誠に結構な事だと思うのです。自分にあった勉強の仕方、自分にあった生き方、それが大事なのだと思うのです。大人は憲法第22条職業選択の自由アハハーンを振りかざして、堂々と愛想のつきた会社を辞めることが出来ますが、なぜ子どもは堂々と愛想のつきた学校を辞める事が許されないのでしょう。

 この本を読んだら、自分からはっきり親に、学校に、社会に「自分は自分の道を歩もうとしてるんだ、邪魔するなぁー」と言って欲しいものだと、僕は勝手に思っています(他の著者はどう思ってるかは知りません)*1

中沢さんの言葉にあるように、この立場の特徴は、学校に行くか行かないかを「選択」の問題としてとらえているところにあります。行く/行かない、どちらが優れているわけでもない。一人ひとりが自分に合った道を選べばいいのだ……。これは、「不登校芸術」でしばしば描かれる物語のテーマでもありました。約15年前に製作された東京シューレ5周年記念ビデオ『いとをかし東京シューレ』には、このようなシーンがあります。制服を着た少年と私服の少年が仲良く連れ立って歩いてきて、校門の前で手を振って別れる。一人は学校の中へ、もう一人は学校の外へ……。

このリベラルな立場からは、学校に行くことを強制することは否定されます。しかしこの立場は、学校制度自体を否定しているわけではありません。学校に行かないことを肯定する運動に関わってきた人々は、しばしば「反学校」「学校否定」という立場と「誤解」されることに当惑し、「選択」という穏当な言葉を強調してきました。

しかし、本当に「選択」をキーワードにしてしまっていいのでしょうか? 校門の前で別れた二人の少年は、本当に「別の道」を歩いていくことになるのでしょうか? 現在の僕の答えは否、です。「学校に行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなければいい」などと八方美人なことを言うのではなく、はっきりと「反学校」の立場に立つ必要があると思います。

それは一つには、学校制度というのは一種の奴隷制度のようなものだと考えるからです。はたして「奴隷でいたい人は奴隷でいればいいし、奴隷でいたくない人は奴隷をやめればいい」などという言い方がありうるでしょうか? 言葉の定義から言えば、奴隷は自由意志に反して強制的に働かせられるから奴隷なのであって、もし奴隷に奴隷でいるかどうかの選択権があるとすれば既にその人は奴隷ではありえず、奴隷制度は成り立っていないことになります。問題なのは「奴隷制を廃止するか存続させるか」であって、「個々の奴隷に選択権を与えるかどうか」などという問いは論理的に無意味です。

とは言え、イキナリ学校を奴隷制度にたとえるのはカゲキすぎるかもしれません。そこでこの連載では、もう少し遠回りをしながら考えてみたいと思います。

「選択」という言葉は、焦点を個人に絞ります。もちろん、選択を阻害するような社会的な偏見や差別は批判の対象となるわけですが*2、学校に行く/行かないは究極的には個人の自己決定に委ねられるべきであるとされます。これに対して僕は、個人ではなく社会を出発点とする立場に立ちます。それはつまり、個人を独立させて見るのではなく、複数の者の関係を問題にするということです。マルクスいわく:


社会は単なる個人の集合ではなく、個人がお互いに対する諸関係の和である。社会の観点からは、奴隷や市民は存在せず、皆人間であるなどと言う者がいるかもしれない。実際には、これは彼らの社会の外での姿である。奴隷であること、市民であることは個人Aと個人Bの間の社会的に決定された関係である。個人Aは元来からして奴隷なのではない。彼は社会において、社会を通して初めて奴隷となるのだ*3

学校に行く者も行かない者も同じ一つの社会に生きています。私たちは、各個人をバラバラに分析するのではなく、各個人を結ぶ社会的な関係の糸を辿って行く必要があります。次回は、このような社会学的発想の例としてウォーラーステインの「世界システム論」を紹介しながら、学校に行く者と行かない者がどのような関係にあるのかを見ていきます。


*1:中沢淳,1991,「まえがき」「東京シューレ」の子どもたち編『学校に行かない僕から学校に行かない君へ 登校拒否・私たちの選択』教育史料出版会,5-6.

*2:実はここには選択の政治の両義性があります。これについては回を改めて論じます。

*3:Marx, K., quoted in Hall, S., 1977, E202 Schooling and Society: Unit 32 A Review of the Course, Milton Keynes, The Open University Press, 13.