(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する——はてなとmixiと秋葉原グアンタナモ天国の比較自由論

[改題、大幅に加筆して37倍くらい面白さアップしました。13日早朝。]


 全ての人民の皆さん、こんばんは、お久しぶりです、こんばんは、そちらのあなたもこんばんは、あ、ハぁイこんばんは、おじさんおばさんこんばんは、はい、ありがとうございます、こんばんは、初めての方もこんばんは、あ、きんさんぎんさんもお見えですね、こんばんは。こちら、反自由党左派の左派の左派プロパガンダ開発局です。


 皆さん。

 
 「はてなダイアリー」というネットブログ日記落書きサイト提供会社をご存知ですか? 我が党の覆面シークレット潜入部員によると、どんな意見を書いても削除にならないそうです。ケシカラン!です。mixiなんか、ちょっとでもヤバイこと書いたら即アボーンです。っていうか、ヤバイこと書くような空気の読めない奴が友達であるというだけで気がついたらアカウント飛んでますですよ。だから空気の読めない奴なんかと友達にはなれないんですよ。だからいつもお互いに監視し合って支えあってるんですよ。変なこと書いてる友達がいたら即メッセですよ。「あのね、友達だから言うんだけど」って、いつもそんなことしてるんですよ。そうやって、僕らは必死で明るいコミュニティを築いてるんですよ。それがなんです! はてなって! こっちがはてなですよ。困るんでちシよ。いいかげんにしてくださいですよ。今ちょっと噛んだですよ。陰謀ですよ。自由闊達ですよ。どれだけ可能性に開かれているんですよと。
 そんな心のウサを晴らしてくれるような気分爽快判決が出ました。やっぱり、日本の司法制度って、いいですねえ。上へ上へと行くほど良くなります。進歩です。今晩は*1、万国全国津々浦々八百八町分倍河原、全ての人民がインターナショナルを合唱しながら勝利の美酒に酔っていま。え? 自分は歌なんか歌ってないって? まあまあまあまあ、あなたも今日から全ての人民になってくださいよ。だってホラ、ねえ、ご覧なさい。

共産党ビラ配り、僧侶に逆転有罪


http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071211/trl0712111536004-n1.htm

 ここで問題になっているのは無色透明の観念的な「表現の自由」などではありません。攻撃されているのはあくまでも「共産党が表現する自由」です。言い換えれば、普遍的な「表現の自由」から除外されるべき「例外」の線引きをめぐる争いが行われているのです。
 もちろん、判決には「共産党、ウザイぞ! こっち来んな!」などとは書かれていません。判決のポイントを、t-ohyaさんは次のようにまとめています。

 判旨も各紙で報道されているが、要するにすでに述べた通り[ビラを配布した]被告側の法律的な主張は(原審同様)すべて退けられており、ただ住民の意思が明確に表示されているにもかかわらずそれに反する立ち入りをした場合には住居侵入にあたるという規範に関して原審は本件では住民意思の表明が十分とは言えないとしたのに対し、控訴審はその点の事実認定を覆したということであろう。


http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000482.html

 当該マンションの管理組合理事会は、部外者の立ち入りや区の公報以外のビラ配布を禁止していました。それを知りながら件のお坊さんは共産党のビラを入れに行ったわけだから住居侵入罪が成立している、と判決は主張しています。
 まるでここには共産党に対するピンポイントの悪意はないかのようです。これがオモテの掟と手続きです。しかし、これが共産党の政治活動に対する弾圧であるということは、共産党に限らず警察も、裁判所も、マスコミも、我々一般読者も、全員が知っていることです。
 ここには、一種の「いじめ」と似た構造があります。我々が普段「いじめ」を行うとき、気に食わない人間の人格を直接否定するということはしません。そうではなくて、あくまでも校則や子どもとしての一般的な仁義からのささいな逸脱を見つけ出し、それを告発するという形態を取ります。校則と仁義は元々両立していませんから、誰もが何らかの形で逸脱しています。そもそも、逸脱一般を許さないとしたら学校は維持不能に陥ります。たとえ一般的な規範に違反したという「正当な」理由でなされる「いじめ」であっても、そこに恣意的な悪意が含まれていることは、「いじめっ子」も、「いじめられっ子」も、「傍観者」も、誰もが了解しています。共同体の規範を傷つけられた「被害者」が違反者を糾弾するという外観を保ちながら、恣意的にターゲットとされた「いじめられっ子」を攻撃する。——この、「加害」と「被害」の倒錯にこそ「いじめ」の享楽があります。そしてだからこそ、恣意的な悪意を知りつつ「いじめられっ子」の逸脱自体は重大なものであるか、「いじめっ子」による制裁は適切なものであるかといったことについて「客観的に」思案していると想定される「傍観者」の役割が重大なのです。この「傍観者」を想定することによって、具体的な対象に対する個別的な悪意と攻撃は、あたかも一般的な規範の自動的な適用であるかのように偽装されます。しかしそれが偽装であることは誰もが理解しているのです。そしてもし「いじめっ子」による制裁が行き過ぎであると「傍観者」が感じると想定されようものなら、我々はその瞬間に新鮮なターゲットを獲得します。*2
 特定の対象に対する悪意が全員に了解されていながら、不偏不党、公平中立な外観が維持されます。このようなカラクリを可能にするのが、(日常)空間のグアンタナモ化とでも呼ぶべき事態です。
 キューバグアンタナモ米軍基地には、アルカイダとの関わりを疑われた数百人の人々が収容されています。彼らの多くは、裁判にかけられる予定もなく「無期限に収容」されています。また拷問が行われているという報告もあります。このようなことは、通常の法の枠内では正当化することが困難です。というわけで、アメリカではこのような収容が行われていいのかということが論争になっています。ジジェクによれば、ある討論番組で、次のような収容擁護論があったそうです。*3いわく、「彼ら(囚人)は爆弾が当たらなかった者たちである」。つまり、彼らは米軍の正当な軍事活動の対象であったにもかかわらず偶然に生きのびたのだから、彼らを収容することに問題はない。どんな状態であるにせよ、死ぬよりはマシなはずだ。彼らは死ぬはずの者たちであったのだから、彼らには何をしても許される、というわけです。
 これは遠い国のテロリストだけの話でしょうか? 街を歩けば、そうではないことに3分で気づきます。いたるところにある掲示板・看板・スピーカーが、「お前はもう、死んでいる」と我々に告げています。
 とよちゃんと共に、何をするでもなくプラプラ歩いていた時のことです。ふと気がつくと、秋葉原歩行者天国に来ていました。かなりの数の人々がいました。数十メートルおきにコスプレをした人が路上ライブなどをしていて、それをカメラを持って取り囲む人々の輪ができていました。僕はあまりこのような様子を直に見たことがなかったので、とても新鮮な気分になったことを覚えています。とは言え、個々のパフォーマンス自体にはあまり興味をそそられなかった僕たちは、そのまま特に足を止めることもなく歩いていきました。しかし、立ち止まらずにはいられないほど不可解なものを見つけてしまいました。
 警察による立て看板です。


歩行者天国内での路上ライブ物品の販売等人寄せ行為は禁止されております。

気づいてみると、この看板はたくさん置かれていました。
 僕は、もう革命が始まっているのかと思って慄然としました。警察によって明確に禁止されていることを、これほどにも多くの人々が公然と行っているのです。ついに秋葉原は過激派によって占拠され、国家権力は解体されてしまったのでしょうか? 警察官らしき人々も歩いているのですが、あれも新手のコスプレなのでしょうか?

 そのような疑問を抱いていた僕にとって、シロクマさんによる「「想像力の欠如した」路上パフォーマーが、秋葉原の歩行者天国を危機に晒す」というエントリーは、興味深いものでした。「憶測に過ぎない」という断りをつけつつ、シロクマさんは次のように書かれています。

 ……そもそも、秋葉原歩行者天国で見世物を行うことが禁じられている事ぐらいは、殆どのパフォーマーの人達も知っている筈なのだ。事実、ゲリラライブを試みる人達などは、警察官が来ると速やかに解散・退散する。とは言っても、警察官が来るまでは「ちょっとぐらい出来ちゃう」ことをいいことに、パフォーマンスを実行しているわけだ。また、女の子が一人でコスプレして写真を撮られるぐらいであれば、大きな問題に発展することも少ない。
 ……この辺りは、とりわけ最前線でオタクパフォーマー達に注意を促しているような警察官の方は、案外、実情を把握したうえで致命的な禁止措置をとらずにいてくれているんじゃないか、と私は推測している。建前としては、歩行者天国でのパフォーマンスは禁止なわけが、公序良俗や秩序維持に大幅に反したり、誰かが迷惑として申し出てこない限り、致命的な禁止措置をとるよりは現在の多少ルーズな措置のままのほうが皆が幸せでいられる事を、彼らは分かっているんじゃないだろうか。また、苦情の申し出などがない限りは、「これは秩序の敵だ」という判断も警察としては難しい以上、あまり厳格な対応をすべきでないと心得ている筈だ。だから、パフォーマンスに警察官が遭遇したら注意して解散させるにしても、(かつての原宿ホコ天がそうなったような)致命的禁止措置を繰り出すには至っていないんじゃないだろうか。

 ガッテン、ガッテン、ガッテン、ガッテン! 納得しました。
 つまり、「ウェルカム トゥ ザ・パラダイス オブ グアンタナモ!」ということです。
 歩行者天国パフォーマーたちは、あらかじめ「お前はもう、死んでいる」という宣告を受けているのです。ああ、だから「天国」なのか。
 パフォーマンスは原則として禁止されつつ同時に黙認されている。だから、いつ警察から弾圧されようとも、文句を言えた分際ではないわけです。なぜならば最初から死んでいたからです。あらかじめ死んでいる者を殺しても罪にはなりません。同様に、警察がいつ特定のパフォーマーを逮捕しても、全面的な弾圧に乗り出そうと、そこには一片の不当性もないのです。
 空間のグアンタナモ化が進行しているのは、盛り場に限ったことではありません。神田・御茶ノ水の街を見下ろす、巨大なタワービルをご覧になったことはありますか? これが自由の塔です。



Liberty Tower: 明治大学創立120周年記念館)

 リベラリズムの自由とは、領域の中の自由のことです。それを防衛するために、リベラルは領域外にある者と戦います。というのは不正確な言い方かもしれません。規格外の者たちを「外部」に排泄することによって初めて内と外の境界が確立されるからです。
 ともあれ、このリベラリズムの暗黙の伝統を、わざわざ看板にして明示してくれているのが明治大学です。





下の写真の掲示には、「当大学の方針に基づき、当大学学生ではない下記の者の入構は認めません。/入構した場合は必要な法的措置を講じます」と書かれており、その下には数人の個人名が列挙されています。)

大学のキャンパスを散歩して回ると、明治大学は決して例外ではないことに気づきます。門前で、構内のいたるところで、「お前はもう、死んでいる」という宣告のメロディが鳴り響いています。
 そして共産党の僧侶がビラを入れようとしたマンションも、グアンタナモ系列でした。産経新聞によれば、

 マンション住民の意思表示としては、マンションの玄関ホールの張り紙があった。張り紙には「チラシ・パンフレット等広告の投函(とうかん)は固く禁じます」「当マンションの敷地内に立ち入り、パンフレットの投函、物品販売などを行うことは厳禁です」と記してあった。


http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071211/trl0712112035008-n1.htm

 ここで、さっきの「いじめ」の話を思い出しながら、我々の「知」の二重構造を確認しておきましょう。言うまでもなく、ビラを入れた人が皆ターイホされているわけではありません。っていうかこのマンションにビラを入れて逮捕されたのは共産党のお坊さんだけでしょう。これが思想弾圧であることは誰の目にも明らかです。そのことは、全員が了解しています。しかし一方で、形式的には、特定の思想に対する規制がなされたわけではなく、あくまでも住民の私的領域の侵害の禁止という一般的な規則が適用されただけです。そのような二重性を可能にしているのが、空間のグアンタナモ化という事態でした。*4
 だから、ただ「表現の自由が奪われている」などと批判してみても、ノレンに腕押しすることになります。特定の思想に対する悪意は、始めから織り込み済みなのです。それは暴露されるまでもありません。
 ではどのような批判がなされるべきか?
 革命的非モテ同盟のfurukatsuさんをご覧になった方いらっしゃいますか? いつもヘルメットにサングラス、マスクというコスプレでしょ? あれは何のためだかわかりますか? 実はfurukatsuさん、めっちゃイケメンなんですよ。革命的非モテの方限定の情報でので、他の人には絶対に言わないでください。素顔を見たら、まず間違いなく心の中でドラクエのレベルアップのメロディが止まらなくなるんですよ。嘘だと思ったら、furukatsuさんのブログを訪れてみてください。まあなんというか、本当にかわいそうかわいそうかわいそうと言う他のない人々が、必死で足を引っ張ろうとしてますよ。それが証拠です。
 ではなぜfurukatsuさんは美しい顔を覆うのか?
 革命家だからです。
 スパルタカスの反乱を思い出してください。奴隷反乱が鎮圧された後、数百の捕虜が集められます。ローマ軍の兵士が尋ねます。スパルタカス(=指導者)はどこだ、と。


お前たちのご主人様で、イタリア司令官であられるマーカス・リシニアス・クローサス様よりのメッセージだ。慈悲深き閣下から、お前たちの命は助けるようにとのご命令だ。お前たちは奴隷であったし、これからもそうあり続ける。だが、恐ろしい絞首刑は免除された。お前たちが、スパルタカスという奴隷の死体か生ける姿を特定するということが唯一の条件だ。*5



(……ざわざわ……ざわ…)


アイム スパルタカス
アイ アム スパルタカス
アイム スパルタカス
アイム スパルタカス
アイム スパルタカス
アイム スパルタカス
アイム テラ豚丼
アイム テラ豚丼
 ・
 ・
 ・


 

 つまり、そこにいる全員が革命家だったのです。*6
 革命家はなぜテラ豚丼を名乗らずにはいられないのでしょうか? 言わずもがなのことを、『ザ・コンテンダー』においてジョーン・アレンが親切にも説明してくれました。
 現職副大統領の死をきっかけに始まるドロドロとした抗争を描いた映画です。事件を受けて、大統領は女性を新しい副大統領候補に指名します。ただし、新しく副大統領を任命するためには、上院の承認が必要です。その審査において、政敵たちが女性候補への誹謗中傷を行い、妨害しようとします。しだいに彼女への攻撃はエスカレートしていき、学生時代の「スキャンダル」の疑惑がもちあがります。乱交パーティーに参加していたというのです。男性ならば勲章になるようなことが攻撃材料となるという、絵に描いたようなダブルスタンダードです。
 さて、上院での聴聞会でこの「疑惑」について詰め寄られた副大統領候補は、回答を拒絶します。それは疑惑の火に油を注ぐことになり、彼女はピンチに陥ります。で、そのあと色々とありまして。ええ、まあ映画ですので。結局はハッピーエンドです。彼女は勝利して副大統領に就任します。そのあとです。ホワイトハウスの庭で二人っきりなると、大統領は彼女に尋ねます。ぶっちゃけ、本当のところはどうだったのよと。ここで彼女は、乱交パーティに参加したことを初めて否定します。「ではなぜ聴聞会で否定しなかったのか」と迫る大統領に、彼女が答えていわく、

そうすることは、彼ら(政敵)があんな質問をしたことを正当化してしまうから。

 彼女は、疑惑を否定することが自分の利益になるとわかっていながら、上院での答弁を拒絶ました。なぜならば、そんなことを「疑惑」にすることがそもそも間違っているからです。乱交パーティーが事実であるかどうかではなく、そんなことを攻撃材料にすること自体を彼女は拒否したのです。*7

ザ・コンテンダー [DVD]

ザ・コンテンダー [DVD]

 今や、抽象的・一般的な「表現の自由」は存在しません。ただ共産党の主張を叫ぶ者だけが自由です。あなたは、さっそく地区細胞に入党申込書をファックスしたでしょうか? 現在、共産党員は30万人くらいです。たぶん。今週末の時点で、それは何人に増えているでしょうか? その人数だけが日本国憲法への忠誠を誓っているのであり、それ以外の者は裏切り者に他なりません。共産党員以外の全員に、まとめて破防法を適用すべきです。今日、全ての自由主義者共産党員になりました。なぜならば、ことここに及んで共産党員を名乗らない者は、市民的自由の敵に他ならないからです。明治大学は、来週になっても共産党員を名乗っていない者をリストアップして、Liberty Towerの門前にある「下記の者の入構は認めません」という掲示にその全員を加えることでしょう。
 ではなぜ、私たち反自由党は今回の判決を歓迎することを全員一致の圧倒的多数で決議したのか?*8 
 ビラは、弾圧されることに意義があります。ビラが弾圧されないような社会の前衛党は、まずそのことを恥じます。他の全てのことを投げ出して、ビラを撒く自由のない明るい社会を実現することに全ての活動を集中させます。
 そもそも、ビラを渡して共感してもらえると思ったら大間違いです。一枚の文章で思想信条を変えてもらえると思うとしたら、それほど読者をコケにした話はありません。
 革命家は逆に、共感されることをこそ恐れます。共感されるようなヌルい文章を書いてしまった担当者には謹慎処分が必要です。
 desdelさんがこう書かれています。

 ……集会は何のために行なわれるのか。苦笑をもって受け止められるかもしれないが、あるいは、何を言われているか解らぬかもしれないが、意志統一のために行なわれるのだ。空気入れのために、気合い入れのために行なわれるのだ。もっとハッキリ言う。特定の日時と場所に何を措いても結集する同志たちを確認して連帯を強化するために行なわれるのだ。
 ……私は、MLの「転送歓迎」を基本的に無視してきた。自分が行かない(行けない?)のに、他人に行けと進めるのは無責任ではないか。知らせてやれば行く人がいるかもしれない? 自分で調べておけと言いたくなるが、知らされたおかげで行くことになる人がいるとしよう。強調しておくが、それでは〈内輪〉の動員にしかなっていないのである。運動は、〈他者〉に対して〈他者〉のために為されるべきだと習わなかったか。MLのどこに〈他者〉がいるのか。刺激的に言っておくが、いまやMLは反動的な役割を果たしている。
 ……先日、ある労組員(若い人だった)がハンドマイクを使って街頭宣伝をしていた。今時珍しいことだと感心して聞いていると、“お騒がせして済みませんが・・・この場を少し借りて・・・お忙しいところ申し訳ありませんが・・・”と言い訳めいたことしか話さず、暫く待っても、何を訴えたいのかその内容については終に一言も話さなかった。呆れた。そもそもハンドマイクは、その可聴域を通行人が通過する数十秒の間に、訴えの核心を叩き込んで繰り返すためのツールである。数十秒ですべてを外部注入しなければならないのだ(いまでは、その使用法を伝承しているのは警察だけだ)。それができないなら、連呼する政党選挙カーと同じ騒音にすぎないのだから、やらない方がマシに決まっている。騒音条例や共謀罪に反対する資格などない。事ほど左様に、人は〈他者〉に怯えている。


http://d.hatena.ne.jp/desdel/20071030

 かなり良い線を行っています。このオレ様文体を見習いたいです。でも、おしいです。運動は、決して「〈他者〉のために」やるものではないからです。
 運動は、他者を撲滅するためにやるのです。ビラは宣戦布告です。ケンカを売っておきながら、でもそれがあなたのためなんですよ、うふん、なんて、それほど他者に失礼なことはありません。
 以下は、神戸高塚高校での校門圧殺事件に際してDPクラブが撒いたビラの抜粋です。

次はオマエの番だ!!
石田遼子さんの死をムダにするオマエたち。

 校門が猛烈な勢いで
閉まってると分かっていながら
たかがテストのために突進していく。
そこまでロボット化したオマエたち。
オマエらを気付かないうちにそこまで追いやってるのは誰だ?

 友達を殺した教師を、今までどおり
「センセイ」と呼びつづけるオマエらが
石田さんを死に追いやったんだ。
オマエも、殺人を生み出す学校の
しくみを支えている一人なんだ。

今、またオマエが校門に挟まれて
耳から血を出して死んだら、お前
の友達はオマエの死体の上を
飛びこえて登校し、何もなかった
ように平然と授業を受ける
だろう

石田さんが殺されて、本当に怒って
いるのならTVのインタビューで顔と
声かくして文句たれてるだけじゃ
なくもっと他にやることがあるん
じゃないか。ボーッとしていると
自由はドンドン奪われる。
戦わない奴は、自由を
奪われて当然だ。


みんなでうたおう
※今週の朝礼でうたうことになっています。
おぼえておいてください。 (←ウソ。当り前か)

2. ゲゲゲの校門
ゲ、ゲ、校門でゲッ!
倒れた上からピョン、ピョン、ピョン
そら急げ そら急げ
 試験の時間だぞー
怒りも涙もない。


「オレは
 無実だ〜〜」
 (校門 談)


校門を閉めたのは教師か―神戸高塚高校校門圧殺事件

校門を閉めたのは教師か―神戸高塚高校校門圧殺事件

撒くに値するビラとは、こういうものです。
 こんなビラを撒く人は、心臓に毛の生えたような超人なのか? 違います。外山恒一いわく、

 ぼくはちょうど東京に遊びにきていたので、沢村、中村とともに、ヒッチハイクで神戸へ向かった。
 7月16日(月)の朝8時前、ぼくらは事件の起こったその現場に立った。すでに約10日が経過してしていたが、事件の衝撃は大きすぎて、つい2、3日前のでぎごとのように思える。
 ぼくは、到着したとたんに、足がガクガク震え、胸の鼓動が激しくなるのを感じた。
 ぼくらの作成した生徒向けビラ約百枚の内容は、起ち上がらない生徒を口汚く罵倒するような、度を越して不謹慎なものだったからだ。


[強調は引用者]
http://www.warewaredan.com/contents/b89-3.html

 対立している政治勢力がある時に、その対立がどのように展開すべきかという一般的なルールはありません。共存できてしまうとしたらそれはニセの対立なのだし、対立しているのであればその対立がどのように対立していくべきであるかということについてそもそも対立しているのです。あるいは、共存もまた一つの対立の形式です。
 本来であれば平和で調和のとれた秩序があるべきなのに、現在の政府のせいでそれが貶められているなどと考えてはいけません。逆です。本来ならばガチンコで敵対しているべきなのに、「自由を保証する」ブルジョア法によってそれが曖昧にされているのです。
 ブルジョアジーにはブルジョアジーの、プロレタリアートにはプロレタリアートの流儀があります。両者の利害は裁判所のような「第三者」によって仲裁されることは決してありません。革命的プロレタリアートは、ブルジョア法に無関心です。そうすることが都合よければ合法的に振る舞うし、そうすることが都合よければ違法・反法に振る舞います。
 今回の判決で自由が奪われてしまうなんてことはありません。逆です。むしろノーマルな状態が回復されつつあるのです。
 ブルジョア法によって「自由」が保証されるとしたら、そっちの方が異常事態です。
 我々は、戦争をしているのです。どっちかが敗北するまでは終わりません。
 だから、ビラを撒く平和な活動が不当にも暴力として裁かれたなどと驚いている場合ではありません。ビラは、そもそも暴力です。それを恐れたブルジョアジーが、ビラ撒きなどの表現活動を合法化することによってビラ撒きという暴力の牙を抜いてしまったのです。暴力の無痛化です。つまり、「表現の自由」とは、プロレタリアートの暴力に対してブルジョアジーが送り込んだ刺客だったのです。
 今回の判決により、再び好機が訪れました。やっと、共産党の凡庸なビラでもただ撒くだけで暴力になるようになったのです。そのうち、ビラを撒いていたら国家が消滅していた、なんてことになりそうです。
 再び、外山恒一を参照しましょう。

他の二人については知らないが、ぼくがこんな「不謹慎」なビラを作った理由は、前述したような、生徒に対する憤りを表現するとともに、この異常な状況の中で何とか保たれている高塚高校の「秩序」を—挙に粉砕して、混乱を生み出し、生徒を怒らせて本音を吐かせるためだ。
 後で聞いた話、神戸の市民団体がぼくらより2日早く、事件についての緊急集会の案内ビラを同じ校門前で生徒に配布したが、何の反応もなかったという。
 ──勇気をふりしぼって、ぼくら3人は、登校中の生徒にビラを渡しはじめた。
 「笑いながら読んでる奴がいるよ」
 沢村が複雑な表情でぼくに云った。
 テレビ局が2社ほど朝から取材に来ていて、そのうち1社のテレビカメラが、中村に近づいてインタビューを始める。

 ──ビラ配りを始めて、15分くらい経過したころだろうか、中村は少なくなったビラを補充し、ぼくはテレビカメラを向けられているうちに、ダダダと足音が聞こえ、振り返ると3、40人の生徒がビラ配り中の沢村のところへ集団で押し寄せ、
 「なんなんですか、このビラ──」
 「バカにしてるんですか?」
 と口々に抗議の声をあげている。
 呆れた話ではあるが、沢村と中村は、生徒が怒って出てくるという事態は予測しておらず、もっぱら教師に制止される事態を心配していたらしい。沢村は生徒に詰め寄られて、何も云えずオロオロしている。
 女生徒の一人が、沢村の目の前でビラをビリリと破り捨てる。
 ぼくはそこへ割って入った。そして、生徒らに向けて大声で訊いた。
 「あんたがたは、ぼくらのビラに対して怒っているのか、それとも石田さんを死なせた学校に対して怒っているのか、どっちなんだ?」
 ここで、じつはぼくのヨミも甘かったのだということを正直に告白しておこう。ぼくは、あらかじめ事態を予測して用意しておいたこの問いで、生徒らに自分らのバカさ加減に気づかせ、場の流れを変えることができると考えていた。しかし、ぼくの「期待」は、一人の女生徒の言葉によって、あっさりと裏切られた。
 「なんでアタシらが学校に対して怒らなあかんの?」
 ぼくは愕然として言葉を失った。
 学校の管理主義によって友人が殺された、という認識がまるでないのだ。今回の事件が、ほんとうに「単なる事故」としてしか、彼女らにはとらえられていない……。
 次の瞬間、さらに恐ろしい光景が目の前で展開された。
 一人の教師が慌てて中から出てきて、必死で生徒らをなだめ、校門の中へ何とか彼女らを押し入れた。
 なんという絶望的な構図あろうか。
 生徒が一人、実質的に学校によって殺されるという事件が起きていながら、生徒が学校を守り、また教師がその生徒たちを守る。
 ぼくは夢中で叫んだ。
 「そういうオマエらが石田さんを殺したんだ!」
 また生徒の群れの中から怒りの声がいくつか上がったがよく聞き取れない。
 沢村が続けて叫ぶ。
 「そんなふうに学校を守って、オマエら楽しいか?」
 すると生徒の中から、「帰れ!」との声が上がった。その声はたちまちのうちに群れの中に広がって、「帰れコール」になる。
 中村の、
 「オマエら、何も学校に不満ないのかよ」
 という声が空しかった。
 校舎の窓から顔を出した男子生徒が、
 「楽しい学校や!」
 と叫んだ。
 ぼくらはしばらく呆然と校舎を見上げて立ち尽くした。
 http://www.warewaredan.com/contents/b89-3.html

 これが、暴力と暴力の衝突です。反発されないようなビラなんか書いたって虚しいだけです。弾圧されないような路上パフォーマーは、もっと芸を磨きましょう。
 ビラは暴力です。一番怖いのは、スルーされることです。*9なのに、東京高裁は、マジレスを返してきたのです。ありがたいことです。もはや全面戦争です。ブルジョア憲法が断末魔の叫びを上げています。
 ここまで書いたところで、IRさんからいただいた以下のコメントを読みました。

わたしは、あなたの言う「合理的思考」に基づいて、いま、自分の「やりたいこと」から距離をおいて、働いています。その方が、いろいろな意味で「賢明」だと思ったからです。


そう、あなたの言う通り、その賢明さは、「負ける」ということなのかもしれません。


でも、まだ負けきってはいない、つもりです。


勝てる見込みはまだ立っていないけれど。


もう少しお金をためて、もう一度カムバックしたいところがあります。


そんな迂回も、結局は、合理的思考や賢明さにがんじがらめされて、負けにむかって退却戦を演じるだけに終わるかもしれません。


でも、心にはいつも「テラ豚丼」を隠しつつ、そしてそれを手放さず、もうちっとがんばります。


http://d.hatena.ne.jp/toled/20071210#c1197391595

 僕はこれを読んで男泣きに泣きました。これまで嘘ばっかり書いてきたけど、これだけは事実です。ごめんなさい、「男泣き」というのは嘘です。でも本当に15分ほど涙が出ました。いや、ホントだってば。
 なぜならば、僕自身が二十四時間の全ての一瞬に思っている思いでありながら、けれども書けなかったことが書かれていたからです。
 僕は、叩かれるようなことをしたら叩かれて当り前と言いながらテラ豚丼を叩くような人を軽蔑します。アキバ歩行者天国のパフォーマンスが「過激」化すると警察が本格的な弾圧を行ってオタク文化圏全体が被害を受けるということを想像しろ、などと、頼まれたわけでもないのに警察の下請け恫喝を飛ばしながら、「私が不快に感じるからやめてくれ」と言うことができないシロクマさんの臆病を憎みます。
 しかしではなぜ、僕は「アイ アム スパルタカス」とmixiに書かなかったのでしょうか? なぜ吉野家の本社に電凸しなかったのでしょうか? 全て私がやりましたと。真実のレベルにおいては、私以外にテラ丼はいないはずなのに。なぜアキバに行ってフルチンで歩かないのでしょうか? なぜ僕は、常にクエスチョンマークがついていて、だから何を書いても許されるような「はてな」で書いているのでしょうか?
 なぜか?
 もちろん待っているのです。「適時」が来るのを。
 いつか、僕も、僕にとってのテラ丼を作るはずです。そうでないとしたら、いったいぜんたい、何のために生まれてきたのでしょうか? 
 けれども、まだ時期が来ていない。まだ、足場もできていないのです。泥の上に杭を突き立てて、それに飛び乗ろうなんて、無茶です。
 けれども、いつか。いつか、いつかが今になるはずです。
 いつか、誰もがテラ丼になる日が来ます。きっと来ます。その日には、僕も晴れて僕なりのテラ丼を作るのでしょう。ずっとやりたかったことをするのでしょう。イヤだイヤだと思ってきたことから逃げ出すのでしょう。その時に、僕は真の自己を実現するのです。
 もはや誰も彼もがテラ丼を作ってるのだから、テラ丼を作ったって全然平気です。万が一、「おい、ここにテラ丼を作ってる奴がいるぞ!」なんて告発されても、「いや、私もさっき作ったとこですが」「っていうか、そんなのテラ丼じゃないし」「え? レシピレシピレシP〜!」という人々がワラワラワラと沸いてきて、別の意味で収集がつかなくなってしまいそうです。
 そうなったら、僕らは、一人目のテラ丼を、迷いなく敬い誇ることができるでしょう。銅像を建てるかもしれません。そして、息子に英雄物語を語るのです。
 その日が来ます。そして、そのハッピーエンドをパーにしてしまわないためにこそ、今日はテラ丼を作ってはいけないのです。
 このブログは、その未来のためにあります。ささやかなテラ丼気分をリスクフリーで味わって仮の満足を得て、今すぐにでも本当にテラ丼を作ってしまいかねない自分を縛るために。先走って犬死にしないために。未来で現在を縛ることができる者のみが、果実を味わうことができます。いつの日にか。それは確実だし、確信しています。確実なものは確実なのだから確実です。
 だから僕は待っています。
 けれども、けれどもけれどもけれどもけれどもけれどもけれどもけれども。
 けれども革命は、いったい、どこで行われているのでしょう?

 革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。すくなくとも、私たちの身のまわりに於いては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています。海の表面の波は何やら騒いでいても、その底の海水は、革命どころか、みじろぎもせず、狸寝入りで寝そべっているんですもの。
 けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけ得たと思っています。そうして、こんどは、生まれる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。(太宰治・斜陽より)

 ここで言う革命とは、真の意味での「人間的」な革命のことである。ここでのかず子(斜陽の主人公)の言葉は、いまの僕の心境にぴったりとあてはまる。僕の革命は、……(略)……することから始まった。さまざまの悩みや葛藤を経て、現在は……(略)……することが、僕の、古い道徳(価値観)に対するたたかいである。革命や、その闘争の形式は、人によってそれぞれのやりかたがあると思うし、また、いろんなやりかたがなければいけないと思う。たとえば、所謂「暴走族」にとっては、オートバイに乗って突っ走ることが革命であり、闘争の形式だと思う。また、所謂不良中学生にとっては、教師に暴力をふるうことが革命であり、闘争の形式なのだろう。そして、学校や社会と自分、その葛藤に悩み苦しんで自殺していった少年たちにとっては、自殺が革命である、そして最後の闘争の形式であったのだろう。
 僕は、暴走族を負け犬の遠吠えとののしり、不良中学生を落ちこぼれとさげすみ、自殺した少年たちを意気地が無い、弱虫だと軽蔑するような人達を、殴り倒してやりたい。その人達は、人間の必死な生きて行く努力を嘲笑する人達だ。人間の命を嘲笑する人達だ。

 私は港の息づまるような澱んだ空気に堪え切れなくて、港の外は嵐であっても、帆をあげたいのです。憩える帆は、例外なく汚い。私を嘲笑する人たちは、きっとみな、憩える帆です。何も出来やしないんです。——(中略)——この問題に就いて、何も、ちっとも苦しんでいない傍観者が、帆を醜くだらりと休ませながら、この問題を批判するのは、ナンセンスです。私を、いい加減に何々思想なんて言ってもらいたくないんです。私は無思想です。私は思想や哲学なんてもので行動した事は、いちどだってないんです。
 世間でよいと言われ、尊敬されているひとたちは、みな嘘つきで、にせものなのを、私は知っているんです。私は、世間を信用してないんです。札つきの不良だけが、私の味方なんです。札つきの不良。私はその十字架にだけは、かかって死んでもいいと思っています。万人に非難せられても、それでも、私は言いかえしてやれるんです。お前たちは、札のついていないもっと危険な不良じゃないか、と。(斜陽より。傍点筆者)

 このかず子の話は、僕の、暴走族の、不良中学生の、そして自殺していった少年たちの言いたかったことを、全部代弁してくれたようなものだ。札つきの不良。僕は、まさにそれを自分だと言いたいのだ。また、暴走族や不良中学生の諸君は、このかず子の話をぜひ聞いてもらいたい。「お酒をやめて、ご病気をなおして、永生きをなさって立派なお仕事を、などそんな白々しいおざなりみたいなことは、もう私は言いたくないのでございます。『立派なお仕事』などよりも、いのちを捨てる気で、所謂悪徳生活をしとおす事のほうが、のちの世の人たちからかえってお礼を言われるようになるかも知れません。」(斜陽)
 最後に、いま、僕の知らないところで、きっと若者が自分なりのやりかたで、古い道徳とたたかっているに違いない。その人たちに僕は言いたい。たった一人の革命でも、いつかきっと……。
 

篠原史 「たった一人の革命でも」*10

 そう、いつかきっと。いつかきっと、いつかが今になるのではなく、今をいつかにするいつかを今にするんだ。だから僕はテラ豚丼が怖いんだ。
 革命は、いつも時期尚早です。革命は他のいつでもない。今起こっています。いつか起こることが決まっている革命があるとしたら、その決まっていることに対して今は反逆するでしょう。過去の原因が現在さらに未来の結果を規定するとしたら、結果は原因に対して原因として刃向うでしょう。革命は他のどこでもない。ここで起こっています。革命は他の誰によるのでもない。たった一人の革命です。もし全人民が革命に集結したら、たった一人の革命家は反革命をやり始めるに違いありません。
 テラ丼は、いったい、どこで行われているのでしょう。



via: http://cyborg.relove.org/thought/mujahideen.html



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『禁じられた川』
『「民主主義よ、お前はもう、死んでいる」——グアンタナモ化した政治と敵対性の外部化について』
『テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」』"

*1:←これは挨拶ではなくて、トゥナイトのことです。

*2:「いじめ」というもの一般に対する大人社会の憎悪の上昇と それに伴う「いじめっ子」への厳罰化といった最近の傾向は、この享楽に新たなエネルギーを供給することでしょう。

*3:http://www.lacan.com/zizartforum1205.htm

*4:本当はグアンタナモ「化」って言っちゃうのは不適切なんですが、それは将来の宿題とさせてください。

*5:I bring a message from your master, Marcus Licinius Crassus, commander of ltaly. By command of His Most Merciful Excellency, your lives are to be spared. Slaves you were and slaves you remain. But the terrible penalty of crucifixion has been set aside, on the single condition that you identify the body or the living person of the slave called Spartacus.

*6:「私がテラ豚丼だ」という叫びは、『イン&アウト [DVD]』のラストシーンでも見られます。

*7:もちろん、ここには一つの重大なゴマカシがあって、観客が最後に「真相」を知ってしまうということです。ま、それは置いておきましょう。

*8:これがスターリン語です。

*9:http://d.hatena.ne.jp/toled/20071015/1192441864でリンクした動画を見てください。外山恒一、かわいそうです。

*10:子どもたちが語る登校拒否―402人のメッセージ』, 1980[?] = 1993, pp. 431-432.『斜陽』の引用は篠原のものをそのままコピー。