麻生さんの家に、普通に行けた
やっほー! 人民のみんな! 反自由党書記局です。
今回は、若者が麻生さんの豪邸に向かって歩いているだけで逮捕されてしまったということで、ビックラ仰天しました。
こ、これはすごい。
これを見て、僕は思ってしまいました。ひょっとして、麻生さんの家になにかあるんじゃないだろうか? 実は麻生邸が火星人との通信基地になってたりとか。
そういうことでもなければ、こうまでして弾圧しようとするだろうか?
麻生さんの家に行けば、「何か」を見つけることができるんじゃないだろうか?
そしてこの日常から飛び立っていけるのかもしれない……。
というわけで、昨日とよちゃんを誘って行ってみました。
まずは渋谷に集合。ちゃんと地図も用意してきました。
よし、出発。
あっと言うまに「逮捕現場」に到着。
ここからほんの少し歩いて小道に入ると、、、突然高級住宅街でした。
僕はこういうところを散歩するのが好きです。もし辛酸なめ子さんとデートする機会があったら、ここを手をつないで歩いてみたいです。
あ、そうそう、麻生さんの家に行くのでした。はい、ありましたよ。あっさりと見つかりました。
僕は、窓の1つから麻生久美子がこちらを見ているかもしれないと思ってドキドキしました。
そんな僕の周りにお巡りさんがわらわらと集まってきて、5分ほどトークタイムとなりました。
僕は怖くて怖くてビクビクしながら、こんな姿を久美子に見られたくないなーと思っていました。
しばらくすると別の警官が出てきて「まあまあまあまあまあまあまあ」という感じで丸く収めてくれました。
「外から建物を撮るぶんにはいいんじゃねーの」などと、コワモテのお巡りさんの面目丸つぶれな結論をだしてくれたので、もう1枚、記念撮影することにしました。
[表情が萎縮してますが実物はこの5倍ハンサムです]
ともかく、お屋敷であることは確認しました。革命が成功したらあそこを党首公邸にして、麻生さんとモノポリーとかやって過ごそうと思います。
では最後に漫才です。
A:「転び公妨」って、たしかにけしからんのだけど、同時になんか滑稽でもあるような気がする。
B:なんで?
A:だって、自分で転んでおきながら「公務執行妨害だ!」って逮捕するわけだけど、わざと転んでることは、やってる本人にも、逮捕される人にも明らかなわけじゃん。だったら無言でストレートに手錠をかければいいものを、なんで「転ぶ」必要があるわけ? ↓なんかもさ、深刻な場面ではあるんだけど、思わず笑っちゃうんだよね。
B:なるほど「転び公妨」っていうのは警察が誰でも好きに逮捕できてしまう方法だ。それなら最初から警察にはそういう権限があるということにすればいいものを、なぜあえて「転ぶ」のか、ということだね。
A:彼らは、いったい誰に見せるために転んでるんだろうか? 実はこのテーマについて僕は「「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット」というエントリーでジジェクをパクリながら論じているんだよ。
B:宣伝かよ! でも、今回の事件のやつは、よく見ると転んでさえもいないぜ。
A:おー。そうだね。あ、これもジジェクのネタなんだけど、アメリカは「テロとの戦争」において、拷問などを公然と行っている。ただ、拷問はどこの国でもいつの時代にも行われてきた。ジジェクの分析では、現代アメリカの特徴は、かつては陰で行われてきた拷問が正当な論題となってしまっているところにある。ジジェクは次のように言っている。
では、拷問に関する懸念や重箱の隅をつつくような差異で拷問を区別しようとすることに対する、以下の回答――人気があり表面的には説得力のある――についてはどうであろうか。
「何を空騒ぎしているんだい? たった今、合衆国が拷問を行うことを公認したってだけじゃないか。少なくとも合衆国は黙認状態でつねに拷問を続けてきたし、他のあらゆる国家も拷問を行ってきたんだ。むしろ今の僕らは以前よりも偽善的では無くなったんだよ」
これに対しては以下のような単純な反問を返すべきだろう。
「そのことが合衆国政府の声明が意味する唯一のことだったら、『なぜ』彼らは拷問を公認したんだ? 以前からそうしていたように、黙って拷問を続けていれば良いじゃないか」
「語る内容」と「語るという行為」との間に存在する、解消できない裂け目――たとえば「あなたはそのように語るけれど、でも、『なぜ』あなたはそのことを公然と私に語るのだろうか?」のような――は、人間の発話に内在しているものである。
たとえば我々は皆、知人の話が退屈でバカバカしいことを婉曲に伝えるために「それってとても興味深いね」(“That was very interesting.” )という言い回しを用いることができることを知っている。もしその代わりに「退屈でバカバカしいよ」と公然と知人に語ったとしたら、彼は驚愕するだろう。何かを公言するという行為は決して中立なものではない。語るという行為は語った内容それ自体に影響を及ぼすのだ。
B:ふむふむ。で、それがなんか関係あるの?
A:うーん、自分で何言おうとしてたのか忘れた。
B:なんじゃそら!