(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

『不登校(ふとうこう)、選(えら)んだわけじゃないんだぜ』 第4章 ひらがなバージョン


 ぼくは もと 「あかるい とうこうきょひじ」だ。「あかるい とうこうきょひじ」というのは、「こせいてき」 である ために がっこうに なじまず、がっこうの そとで たのしく いきてる ひとの ことだ。
 これまで ぼくら「あかるい とうこうきょひじ」が かたって きた ものがたりには、ひとつの きょうつうてんが ある。それは、ハッピーエンドで おわっている という ことだ。ハッピーエンドは ひとを あんしん させて くれる。それまで どんなに つらい ことが あったにしても、それを ちょうけしに して、スッキリ させて くれる。
 でも、ぼくが ときどき しりたいと おもうのは、 ハッピーエンドでものがたりが 「おわった」 その あと には なにが おこる のか という ことだ。みとこうもん いっこう が いんろうをみせて、あくだいかんを たいじ して、で、むらに へいわが もどった あと。れんあい えいがで ふたりが うよきょくせつの すえ むすばれたあと。
 ぼく じしん、かつて 「あかるい とうこうきょひじ」 として、ハッピーエンドの ものがたりを かたって いた。で、その あとどうなったか? ぼくは いま、あんまり ハッピー では ない。いきるのが たいへんだ。でも、じゃあ なにが どう たいへんなのか、ときかれても、ちょっと こまって しまう。ありきたりの りゆうを ならべて みる ことは できても、しっくり くる ような こたえは うかんでこない。
 ともかく、うまく せつめいは できないけど、ぼくは いま そういう じょうたいに ある。もし そうだと すれば、さっきいんよう した エンディング は、じつは ほんとうの エンディング じゃ なかったの かも しれない。そして、なのに それを「ハッピーエンド」 という ことに してしまった ことが、いまの じょうたいを うまく かたれない ということに むすびついて いるんじゃ ないだろうか。
 これまで ぼくは、「あかるい とうこうきょひ」の ものがたりに ささえられて いきてきた。これなしの じんせい なんてかんがえ られない。でも、もし この ものがたりが そういう たいへんさを うんで いるんだ としたら、それは なぜ なのか ということをかんがえて みる ひつようが ある だろう。
 

 ぼくが 「あかるい とうこうきょうひじ」に なったのは、「東京シューレ」 という ばに であってからだ。80ねんだいのおわりころの こと である。シューレは とうじ、がっこうに いかない こどもの ための たまりば みたいな ところ だった。そこに はじめていった ひの ことは いまでも ハッキリと おぼえている。しゅさいしゃの おくち・けいこ(奥地圭子)さんは、ぼくに あうなり 「がっこうにいかない ことは わるいこと じゃないんだよ。ほうりつ いはん でも ないんだよ」 と いった。
 それまでの ぼくにとって、がっこうに いかない ことは、ぜったいに ゆるされない こと だった。だから、じっさいに じぶんが がっこうに いけなく なったとき、もう せかいの おわりだと おもった。ぼくに とって がっこうが せかいの すべてだった から、がっっこうに いけない ということはこの せかいに いばしょが ない ということを いみして いたのだ。
 まいにち まいにち、なにを して いても、どこにいても、「じぶんは がっこうに いって ないんだ」という ことを いしき していた。てつやで ファミコンを していた ときも、テレビのじだいげきを みて いた ときも、うえのの はくぶつかんに いたときも、なきわめき ながら おさらを わっていた ときにも。こころの なかにポッカリと おおきな あなが あいている ような かんかくが いつも あった。「こころが いたいよう、くるしいよう」などと うめきごえを あげては おやを こまらせて いた。
 そういう じょうたいに あった ぼくに とって、シューレとの であいは てんきと なるものだった。「がっこうに いかない ことは わるい こと じゃないんだよ」という ような ことは、それまでにも きいた ことがあった。でも、おくちさんの ことばは、それとは くらべものに ならない ちからを もって いた。それは たぶん、その ことばが、おなじように がっこうに いっていない にもかかわらず、へいぜんと している ヤツらが あつまって くる ばしょで はっせられた からだ。
 ぼくは、がっこうに いけなく なった ときに、「とうこうきょひじ」という レッテルを はられた。それは、そんざいする かちのない クズだ というせんこく だった。でも、シューレと であい、その レッテルを はられた にんげんが、ぼくや、ぼくと おなじような あにだけでは ないんだということを しった。ぼくは、しょうすうはでは あるけれども けっして すくなくは ない かずの グループの いちいん だったのだ。そしてシューレは、がっこうふっきを めざさない ばしょ だった。つまり、とうこうきょひじ という 「おめい」を へんじょう しようとするのではなく、その おなじ レッテルを はられた ものが あつまって、 とうこうきょひじの まま いきて いく ばしょ だった。
 ぼくは シューレに きて いきかえった。いまでも シューレでの たのしかった ひびを まいにちの ように おもいだす。まさに じんせいの ぜっちょう だった。ぼくは いまでは ダメにんげんに なって しまったが、シューレで すごした すうねんかんの ため だけにでも うまれてきたかいが あったと おもう。
 この シューレで、ぼくは がっこうに いくか どうかは ほんにんの せんたくの もんだいだ という かんがえかたにであった。がっこうに いっても いいし、いかなくても いい。これは シューレの おくちさんや ゆうじんの おおくの かんがえでも あった。この「せんたく」の ろんりは、がっこうに いくみち だけではなく、いかない みちも、おなじ ように かちの あるもの として しめして くれた。
 このことは、がっこうに いけない ひとに とっては、すごく いぎの あること だった。「がっこうに いかなければ ならない」 というのは、だれもが しっている じょうしき だ。それが わかって いながら、それでも どうしようも なく いけなく なってしまうのだ。それなのに、「がっこうふっき」が ゆいつの みち なんだ としたら、それは とてつも なく ぜつぼうてきな ことだ。「がっこうのそとでも OK」と おもえる ことは、だから、ぼくらに とっては、「いきても いい」という こと だった。
 かつての ぼくに とっての「せんたく」の かんがえかたは、だい3しょうで きど(貴戸理恵)さんが しょうかい している いちぶの おやの いう 「せんたく」とはちょっと ちがう。かれらは、がっこうに いかない ことを、こどもが 「えらんだ」こと として こうてい しよう としている。でも、ぼくは「えらんだ」と おもった ことは いちども ないし、「えらんだ」という ひとに であった ことも ない。ぼくらが いいたかったのは、「えらんだ」という こと では なく、「えらべる ように なるべきだ」という こと である。


 ただ、この 「せんたく」の かんがえかた には、ちょっと ムリが あった。というのも、せけん には、がっこうに いかない ことについて、あっとうてきに ひていてきな イメージしか なかった からだ。そういうものを うけいれる のは、がっこうに いかない ほんにんに とっても、おやに とっても、せけんの ひとに とっても、たぶん、すごく むずかしい ことだ。そんな ものが どうして せんたくの たいしょうになる ことが できる だろうか?
 「がっこうに いかない という せんたくしも アリ」と おおくの ひとに おもって もらうためには、この イメージを なんとか しなければ ならなかった。だから、「せんたく」の かんがえに たつ ひとびとは、「がっこうに いかないみち」を けっして ぜつぼうてきな もの ではなく、むしろ きぼうに あふれたもの として、「えらぶ」に あたいする もの として えがきなおす という さぎょうを してきた。
 そういう せつじつな ひつようせいに せまられて、ぼくを ふくむ いちぶの シューレかいいんは 「あかるい とうこうきょひじ」に なった。ぼくらは マスコミの しゅざいに おうじたり、ぶんしょうを かいたり して、じぶんたちの あかるくげんきな すがたを アピールした。くらい ジメジメした 「とうこうきょひ」という ことばに、ひかりを そおごう とした。おくちさんら がっこうに いかない ひとを しえんする ひとびとも、そういう ぼくらの すがたを せっきょくてきに しょうかいし、じぶんたちの しゅちょうをせいとうか しようと してきた。


 ぼくが 「あかるい とうこうきょひの ものがたり」と よんでいる のは、かつての ぼく じしんを ふくめ、がっこうに いかない ひとやいかなかった ことが ある ひとのうち、そのことを こうていてきに とらえる ように なった ひとの ものがたり である。これは しゅきや インタビューといった かたちで ほんにんに よって かたられる ことも あるし、しえんしゃに よって しょうかい される ことも ある。
 そういうのを いくつか よんで みると いちもくりょうぜんに わかる こと だけど、この ものがたり には、いっかんした 「きしょうてんけつ」の ながれが ある。それは つぎの ような ものだ。

起(き):「がっこうに いくのが つらいよ!」
承(しょう):「がっこうに いけなく なったら もっと つらく なっちゃったよ!」
転(てん):「がっこうに いかなくても OKと きづいたら らくに なった! まいにち たのしくて しょうが ない!」
結(けつ):「げんざいは しゃかいじん として りっぱに やって います」

「結」の ぶぶんは、80ねんだい こうはん くらいに とうじょうした 「あかるい とうこうきょひじ」が、20代、30代に なった さいきんに なってつけ くわえられた もの なので、「てん」の ところで おわってる はなしも おおい。ほかにも ぶぶんてきに かけてるようそが あったり することも あるけど、かならず 「てん」から 「けつ」に かけて、はっぴーえんどに むかって じかんが ながれて いくことに なっている。
 たとえば、シューレのスタッフが かいた 『フリースクールとはなにか 子どもが創(つく)る・子どもと創(つく)る』(教育史料出版会)*1 という ほん。この ほんに よれば、シューレ しゅっしんしゃの しんろは、「進学(しんがく)ルート」、なんらかの しょくぎょうに つく ルート、そして「バンド、絵(え)、カメラなど、自分(じぶん)の趣味(しゅみ)ややりたいことにエネルギーを注(そそ)ぎ、いま収入(しゅうにゅう)につながっている」 ルートの 3つに ぶんるいする ことが できる らしい。このほんは、アニメや ゲームに ねっちゅうする ことが しゅうしょくにつながった 「ヒロキ」や、アルバイトの けいけんや ちょうりし がっこうを へて げんざいは こそだてと しごとをしている「タカコ」、ほいくしを めざして つうしんせい たんだいに ざいせきする 「シホ」、 おやの けいえいする ほうせい こうじょうをへて げんざいは だいくを している 「トオル」らを しょうかい している。
 この ものがたりは とてつもなく ウソっぽい。もと・とうこうきょひじの なかで マトモな しゃかいじんに なってる ひとが、いったい どれくらい いる っていうんだろう。ひきこもり、びょうき、おうりょく といった 「ハッピーエンド」とは ほど とおい じょうたいに ある ひとも すくなくない はずだ。
 シューレは よく 「とうこうきょひの エリートを あつめて いる」と かげぐちを たたかれている けど、その シューレ しゅっしんの ぼくのしりあい でも、あんていした しょくぎょうに ありついた ひとは しょうすうはだ。ていしょくに ついて なくて、 さっくの 3つの ぶんるいのどれにも あてはまらない ひとも おおい。こういう ひとたちは、うっかり わすれられて しまったん だろうか? それとも、「みせたくない」とハブかれて しまったん だろうか?
 もし そうだと すると、 ぎもんが わいて くる。「あかるい とうこうきょひ」の ものがたりは、ほんとうに とうこうきょひを こうていする ような もの だったのか?
 おもうに、「あかるい とうこうきょひ」という のは、 むしゅう ニンニク みたいな もの である。ある むしゅう ニンニクの せんでんもんく には、こう ある。

『にんにくは けんこうに よい けれど、あの においが どうも……』
という かたに ろうほう です!!


 たしかに そうかも しれない。しかし ぼくが もんだいに したいのは、それが ニンニク じしんに とっても 「ろうほう」と いえるのかということ だ。むしゅう ニンニクは 「ニンニクなのに においが ない。スゴイ!」と いわれて うれしい だろうか? そして、 だっしゅうされていない、 ニンニクの においが する ニンニクの たちばって、いったい……。
「あかるい とうこうきょひ」も また、ほんらいうけいれ がたい そんざい である とうこうきょひを だっしゅう して、より おおくの みなさまに ごあいこ いただける ように なったかいりょう ひんしゅ である。でも、「ふとうこう なのに スゴイね、げんき だね、かつどうてき だね、しゃかいじんに なれるね」といってもらった として、それって ホメことば なんだろうか?
 たしかに、あかるく げんきな ひとびとの すがたや かれらの そのごのサクセス・ストーリーは、より おおくの ひとが 「がっこうに いかなくても OK」と おもえる ことに つながる かもしれない。「とうこうきょひ? びょうき でしょ」、「ずるやすみは ひこうの はじまり だよ」、「ふとうこう はねー、あの しょうらいせいのなさが どうも……」と おもってる ひと でも、じしんに みちた せいこうしゃの すがたを みれば、かんがえを かえて くれる かもしれない。でも、そういう イメージを つくる ために、きりすて られて いくものが ある。きたない もの、くさい もの、くらい ものは、ぬきとられて いく。
 もちろん、「あかるい とうこうきょひの ものがたり」にも、ひきこもり、ぼうりょく、びょうき といった 「くらい」かこは とうじょう する。でも それは、ハッピーエンドの ものがたりの なかでは あかるい げんざいが あって はじめて いみを もつ「かげ」のような ものだ。
 このことは、がっこうに いく ひとと いかないひとの あいだの さべつに くわえて、がっこうに いかないひとたちの あいだにも じょれつを つくりだす。だって、もし 「くらい」 じょうたいから 「あかるい」 じょうたいに むかって すすんでいくもの なのだとしたら、げんざい 「くらい」 じょうたいに ある ひとは、「おくれて いる」ということに なって しまう から。
 すうねんまえ、ぼくが まだ 「あかるい とうこうきょひじ」を やっていた ときの ことだ。ある あつまりで、とうこうきょひ けいけんしゃのせいねんが、とても いきにくいのだ という はなしを していた。そして かれは、「それは、たぶん、じぶんが まだ とうこうきょひを したことを ひきずっている からだと おもう」と いった。それに たいして ぼくは、「じぶんの じんせいに とって とうこうきょひが マイナスになっているとは まったく おもわない。がっこうに いかなかったから といって ひけめに おもう ひつようが どこに ありますか?」とつめよった。くちに だしてこそ いわなかったが、「あなたは いまは かつての ぼくの ように くるしい かもしれない けど、がっこうにいかなかった ことへの れっとうかん さえ すてれば ぼくの ように ラクに なれるのでは ないですか」と あんに いっている ようなものだった。
 いまにして おもえば、これは すごく ごうまんな いいかただ。「あかるい とうこうきょひ」の ものがたりは、1つ1つはこじんの たいけんだんだ。でも、ハッピーエンドつき である ために、がっこうに いかない ひとが たどるべき みちすじを しめす マニュアルになって しまっている。ぼくは かってに その マニュアルに あてはめて、あんに かれを 「しどう」していたのだ。すべての ひとがマニュアルどおり 「げんきに なる」ことが できるのなら まだしも、すくなくない かずの とうこうきょひ けいけんしゃが 20だい、30だいになっても ひきこもっている ことが あきらかに なった げんざい、そんな マニュアルの おしうりは つうよう しない はずだ。
 さっきぼくは、じぶんが とうこうきょひじ という 1つのグループに ぞくしている ことに きづいた ときの ことを かいた。でも いまや、けっしてこの グループを ひとくくりに して しまう ことは できない だろう。がっこうに いく ひとと いかない ひとが ちがう だけじゃなくて、がっこうに いかない ひと どうしの あいだにも、さまざまな ちがいが ある。これまで、がっこうに いかない ことを こうていしようと する ひとびとは、じぶんたちの しゅちょうを せいとうか する ために 「あかるい とうこうきょひの ものがかたり」を りようしてきた。でも、この ものがたりに あてはまる ひとは、がっこうに いかない ひとの ごく いちぶに すぎない。けっきょく、「あかるいとうこうきょひじ」たちが かたる ハッピーエンドつきの ものがたりは、じつは 「とうこうきょひの ものがたり」ではなく、「とうこうきょひエリートの ものがたり」に すぎなかった のだ。


 だけど、「せんたく」の ろんりには もう1つの じゅうような メリットが あった。 それは、これが がっこうにいくひと・いったひとにも うけいれ やすい ものだ ということだ。「せんたく」という ことばを つかうこと によって、がっこうを ひていしなくても がっこうに いかない けんりを しゅちょう できる ように なるからだ。「がっこうは まちがっている!」などという カゲキなかんがえに きょうかん してくれる ひとは すくない だろうが、「ぼくには がっこうは あわないので、 べつの みちを せんたく させてください」というので あれば 「まあ、いいんじゃない」と おもい やすい だろう。げんに、がっこう エリートの しゅうだんである しんぶんやテレビでも、がっこうに いかない いきかたが こうていてきに とりあげられる ように なった。たとえば ジャーナリストのえがわ・しょうこ(江川紹子)さんも、とうこうきょひ けいけんしゃを 「がっこうの そとで じぶんの やりたいことを みつけ、それに むかって いきいきと じゅうじつした まいにちを おくっている」と ひょうか している。
 「がっこうに いくか いかないかは こじんの せんたくの もんだいだ」
 こんな いいかたは たしかに みみざわりが いい。がっこうに いってるひと・いってないひと、どっちも こうていてきに とらえることが できる からだ。でも これは、すごく ウソっぽい はなし なんじゃ ないだろうか。
 まず だいいちに ぎもん なのは、「がっこうが あっている ひと」なんて ほんとうに いるのか ということだ。「がっこうって なにからなにまで オレに ピッタリ だぜ!」なんて いいながら がっこうに いくことを 「えらんだ」ヤツ なんて ほんとうに このよに いるんだろうか。
 じっさいには、 がっこうに いっている ひとたちは いくことを 「えらんだ」から いっている のでは ないと おもう。いまのしゃかいでは、6さいに なったら すべての ひとが がっこうに いくことに なっている。つまり がっこうっていうのは、「あう・あわない」とかは ぜんぜん かんけいなしに うえから おしつけられて くるもの なのだ。ムリヤリ おしつけられた ものに たいして うまく じぶんを 「あわせる」ことが できる ひとも いれば、ぎゃくに きょうれつな きょひはんのうを しめす ひともいるだろう。でも いろんな はんのうの しかたが あるから といって、がっこうとは そもそも おしつけ られたもの なのだ ということに かわりはない。「いくか いかないかは ほんにんが せんたくすれば いい」という いいかたは このてんを アイマイに してしまう。
 このかんがえかたが ウソっぽいと おもう もう ひとつの りゆうは、がっこうに いっている ひとと いっていない ひととの かんけいが みえにくくなってしまう ことだ。がっこうに いかない ひとは、なにも かくり された 「むじんとう」に すんでる わけではない。がっこうに いっているひとも いっていないひとも、おなじ ひとつの しゃかいに いきている。それは つまり、いっている ひとも いっていないひとも おたがいのおかれている じょうきょうと むかんけい ではない ということだ。
 たとえば 「がくれきさべつ」 について かんがえてみよう。このことが もんだいに されるときに とりあげられるのは、おおくの ばあい、むがくれき・ていがくれきの ひとの ほうだ。かれらがいかに さべつ され はいじょ されているか ということに めが むけられる。でも わすれては ならないのは、これは こうがくれきの ひとの もんだい でもある ということだ。かれらの さまざまな 「とっけん」は、なにも てんから ふってくる わけでは ない。それは ていがくれきのひとたちへの さべつに ささえられて いる。こうがくれきの ひとが こうしゅうにゅうで かいてきな しごとを いじできるのは、ていがくれきのひとが ぎゃくに ていしゅうにゅうで しんどい しごとを になわされて いる からに ほかならない。
 これは ぎゃくにいうと、ていがくれきの ひとへの さべつも こうがくれきの ひとの とっけんと むかんけい ではない ということだ。だったら、「がっこうに いきたいひとは いけば いいし、いきたくないひとは いかなければ いい」なんて あまッチョロイ いいかたは もう やめた ほうがいい。がっこうに いかないでも あんしんして いきていける ように なるためには、つまり がくれきが ないからって いやなめに あわないように なる ためには、がっこうに いくひと、なかでも 「いちりゅうだいがく」に いくひとの がわが もんだいに されなければならない。かれらの とっけんが こくはつ されなければ ならない。とうこうきょひじに ひつようなのは、がっこう エリートに 「りかい」してもらうこと ではない。かれらを だとうすることだ(って いってる ぼくも 「だいそつ」の がわ なんですが……)。


 ぼくはいま、じぶんの いきづらさを うまく りかい することが できない。そのことは、ぼくが かつて 「あかるい とうこうきょひじ」になるために、じぶんの なかに あった くらい ふの そくめんを きり おとして しまったことと かかわりが あるような きがする。
 「あかるい ふとうこう」の ものがたりが こうていする 、「ふとうこう エリート」。
 ぼくは かつて、その 「エリート」の ひとり だった。でも、いまにして おもえば、ぼくじしんにとっても、この ものがたりは よくあつてきなもの だった。というのは、がっこうに いかないことへの れっとうかんを こくふくした じてんで、この ものがたりは ハッピーエンドで おわってしまう からだ。この ものがたりを うけいれる かぎり、それいこう どんなに つらいことが あったと しても、それを ことばに することができなく なって しまう。
 リアリティのない ハッピーエンドは もう たくさんだ。ぎゃくに ぼくは、こう いいたい。
 とうこうきょひは びょうきだ。とうこうきょひは ぼうりょくを うむ。とうこうきょひは ひきこもりに つながる。とうこうきょひは ふじゆうだ。とうこうきょひは くらく、きたなく、くさい。
 そして、そのようなものとしての とうこうきょひを こうてい するのだ/こうてい できる だろうか、と。






 いじょうは、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』の いちぶを ひらがなのみ ひょうきにしたもの です。この ぶぶんの ないようを りかい するためには、ほんぜんたいを よむ ひつようが あります。ほんの たいはんを かいたのは きど・りえ(貴戸理恵)さん です。


不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

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「登校拒否解放の(不)可能性」前編 中編 後編

「逃げよ。しかし逃げながら武器をつかめ」

「選択の幻想から反学校の政治へ」第一回 第二回 第三回

*1:

フリースクールとはなにか―子どもが創る・子どもと創る

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