tari-G問題
なんでこんなに、tari-Gさんのことが気になるのだろう。なんでいちいちむかついて、激怒するんだろう。わたしは。
一つには、キャラがかぶっているということなのではないかとおもうようになった。
skさん問題。
ぼくはskさんがきらいだ。
ちょくちょく会っている。
会うなかでイメージを修正した。
skさんは、「仁義」キャラなのだ。
保守主義者だとおもっていた。じっさいそうである。
しかしつきあってみると、それいじょうに「仁義」のひとである。
ぼくは「正義」キャラである。
いいことはいい、わるいことはわるい。
おもいやりの問題ではない。
いいことはいいんだ。
というわけで、日本の保守主義者は全否定する。
というわけで、skさんは否定する。
しかしおもいおこしてみると、skさんは、あずまんのけんでウルトラ仁義をとおした。わたしのことで。
わたしは仁義なんてどうでもいいとおもっている。
あってもいいし、なくてもいい。どっちでもいい。
しかし、skさんの仁義がじぶんに到来したことをおもうとき、せめてskさんにたいしては仁義の「かり」があるということをにんしきせざるをえない。
そこでわたしは、せめてskさんにたいしては仁義ということをかんがえる。
そこで、skさんがいる場所で、目をそらさず、あいまいさを排除して、あなたがきらいですと言うことにした。
「いいひと」キャラでもあるわたしとしては、けっこうな負担である。
とはいえ、それでなにかをうしなうというわけでもない。
かんたんにできてしまうことだし、なにもこまらない。
かげぐちも継続するけど、おなじことをほんにんにも言う。
わたしなりの、仁義への応答である。
それをやっていてきづいた。
にている。
しゃべりかた。
しゃべるタイミング。
しんたいてきな癖。
にている。
政治的にわるいことはわるい。
しかし、わるいひとはいくらでもいる。
それでなおskさんへの嫌悪がわたしのなかできわだつとすれば、たぶん、こういったところからくるのではないかとおもう。
さて、tari-Gさん問題である。
tari-Gさんについてはskさんと出会ったようには出会っていない。
共通点があるとすれば、政治的に間違っているとわたしが確信しているということ。
しかし、skさんへの嫌悪を自覚し、表明するということをくり返しながら、なんとなくわかったような気がしてきたことがある。
キャラがかぶっているということだ。
えらそう。
学問について半可通でいながら、学問の権威を利用する。
じぶんがどりょくもしてないようなことを、へいきで他人にもとめる。
またここからは想像となるが、彼もまた、なんらかの文脈で、ちゅうとはんぱなマイノリティなのではないか。
まさにわたしだ。
たぶん、わたしのtari-G嫌悪には、そのことがかかわっている。
ついでにいうと、mojimojiさんとのケンカにもそういうところがあった。
で、なにが言いたいのか?
そういう問題ではないということである。
tari-Gさんは、まちがっている。
まちがっているからわるいのだ。
わるいことはわるい。なぜならばわるいから。
そして、わるいことはわるいと言うべきだ。
というわけで、わるいと言います。
おしまい。