(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

学校は社会を救えるか――「学校効果」論批判 第1回 「学校効果」モデルとは



私たちは人種差別的な社会に生きています。私たちの社会は家父長主義的(男女差別的)でもあり、階層化されてもいます。この現実を前にしての一つの姿勢は、それを「自然」なものとして受け入れることでしょう。日本人は在日朝鮮人よりも、男性は女性よりも、金持ちは貧乏人よりも優っているのであり、不平等があっても当然である、こう考える方もいるでしょう。そう思う方とは対話すること自体が不可能であり、革命成就後に思想改造所でお会いしましょうとしか申し上げようがありません*1。一方で私たちサヨクは、現在のそのような社会のあり方に異議を申し立てようとします。サヨクにとって社会的不平等は放置されるべきものではなく、解消されるべき課題であるのです。この立場からは、人種的・性的・階級的不平等を縮小したりなくしたりすることは言うまでもなく良きことであると見なされます。この連載で僕は、この立場に立ちます。

しかし、平等を求める者の間にも、いかにしてそれを達成すべきかということについては合意がありません。っていうか対立のあまり、殺し合いが起きたりするありさまです。社会を変えるために、どんな手段が取られるべきか? 平等を実現するためには、何がなされるべきか? こうした問いに対する解答としてしばしば挙げられるのが「教育」です。教育や学校制度が、社会変革のカギであると多くの人が考えています。しかし本当に、教育は社会を変える力をもっているのでしょうか?

「学校効果」(school effect)論の立場に立つイギリスの一部の教育研究者は、「イエス」と答えます。「学校効果」論者は、学校教育が階層格差是正に一定の「効果」をもっていると考え、「効果的」な学校の設計を目指します。「学校効果」研究者の一人、モルティモアは「効果的な学校(effective schools)は……一定程度……社会[の不平等]の埋め合わせをする」*2ことができると宣言しました。ルターたちも、「貧しい地域においてさえも、学校は公正のための力となりうる」*3と主張しました。彼らは教育をより平等主義的な社会を実現するための手段であると見なします。この連載では、この「学校効果」研究を批判的に紹介します。




Education: Culture, Economy, and Society

Education: Culture, Economy, and Society




Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children

Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children


先ほど引いたモルティモアの言葉は、一文で二つのことを言っています。つまり、(A)一部の学校は他の学校よりも「効果的」であるということ、そして(B)そのような学校は不平等を縮小するのに役立つということ、です。この二つのテーゼのうち、(B)は(A)を前提としています。したがって(A)が誤りであることが示されれば自動的に(B)も退けられるはずです。しかし、僕はそれだけではなくて、たとえ(A)が正しくても(B)は否定されるべきであると主張するつもりです。

この連載では、まず、学校はほとんど違いをもたらさないという異論を手短かに紹介した上で、「学校効果」モデルの基本的な枠組みを説明します。次にこの研究の方法論的な欠点を指摘します。そして最後に、「効果的な学校」は、もし仮に存在するとしても、はたして社会的平等に結びつきうるのかを問います。


ではまず、「学校効果」論に対立する研究を簡単に見ておきましょう。1970年代、アメリカの社会学者であるジェンクスは、膨大な統計的データを分析しましたが、学校の特徴と生徒の成績との間に極めて弱い結びつきしか発見できませんでした。*4それまでは黒人や貧困層の教育水準が低いことは彼らの通う学校が劣っているためであるという見方が強かったのですが、ジェンクスは、学校の設備の違いは生徒の教育的達成レベルには影響を与えないということを示しました。実際、高校の効果は生徒の教育結果のバリエーションのたったの2パーセントしか説明しないそうです。ジェンクスいわく:


学校のアウトプット[=生徒の成績]の性格は主に一つのインプットによって決まる。つまり、入学する子どもたちの特徴である。他の全てのこと――学校の予算、方針、教師の特徴――は二次的であるか完全に無関係である。*5


Inequality: A Reassessment of the Effect of Family and Schooling in America

Inequality: A Reassessment of the Effect of Family and Schooling in America

要するに、裕福な子どもが入学する学校は優秀な卒業者を生み出し、貧しい子どもが入学する学校は低い教育結果を生み出す――教育結果の決定要因は「誰が入学するか」ということであって、学校自体の特徴は重要ではない、ということです。それゆえ彼は、教育は「取るに足らない制度」(marginal institution)*6であり、教育を改革しても経済的不平等を是正することはできないと主張します。彼によれば、必要なのは教育を通した間接的な社会改良ではなく、「経済制度に対する[直接の]政治的コントロール*7、つまり、社会主義です。

ジェンクスのこの研究は1970年代にはかなりの影響力をもっていたそうです。結果として、教育をいじってもしょうがないというペシミズム(悲観論)が教育社会学を支配するようになりました(ってよく知らないんですが知ったかぶりですみません)。イギリスの「学校効果」論者たちは、そのような流れに対抗し、再び教育の重要性を訴えました。ではここからは、彼らの「学校効果」研究のモデルに目を移してみましょう。


モルティモア*8はルターたちの研究*9をこのフィールドでの「先駆的な調査」であると言います。ルターたちは、ロンドンの中等学校*10の約2,000人の生徒について調査しました。彼らについての次の5つの測定値が集計されました。「a) 学校での生徒の品行、b) 出席日数、c) 試験成績、d) 就業、e) 非行」*11。ルターたちは、これらの測定値について、「中等学校の間に、大きくて統計的に有意な差異」*12を発見しました。このような発見自体は新しいものではありません。「学校効果」パラダイムの独自性は、そのような差異の原因をどう説明するか、というところにあります。さっきのジェンクスが「教育的達成の最も重要な決定要因は家庭的背景である」*13と主張したのに対して、ルターたちは学校もまた重要な役割を果たすと考えます。

しかし、生徒のできばえが学校間で異なることを示すだけでは、生徒のパフォーマンスに学校が一定の影響を与えていることを証明するには十分ではありません。というのも、そのような差異は、学校以外のファクターから影響を受けているからです。ルターたちもこの点はわきまえています。だから彼らは、学校が受け入れた生徒のバックグラウンドについて、「各学校を統計的に[補正]」*14しようとします。このために、彼らは入学した生徒のバックグラウンドのバリエーションをコントロールします。彼らが集計した、学校が受け入れた生徒の測定値には以下のようなものがありました。「a) 生徒の10歳時の言語推論能力のスコア、b) 親の職業、c) 教師によって記入された品行調査のスコア」*15。「子どもの親がイギリスへの移民かどうか」*16も考慮されました。

こうした生徒についての測定値が統計的にコントロールされたあとでも、学校は生徒のできばえにおいて有意な差を示す、というのがルターたちの主張です。ルターたちいわく:


入学者の特徴の学校間の違いは、[学校間の教育結果の]差異を説明しなかった。というのも、もっとも恵まれた生徒を受け入れている学校が、必ずしも最高の教育結果を出す学校ではなかったからである。さらに、入学した生徒[の特徴]がとても似ている学校が、時に大きく異なる調査結果を示していた。*17

たとえば、ルターたちは「かなり似た品行的に問題のある少年を受け入れた二つの学校AとB」*18を比較します。14歳時に集計された追跡調査によれば、「B校」の少年たちは「A校」の生徒たちよりも5倍の確率で「品行的問題」を示したとのことです。

ルターたちはそのような差異の原因を個々の学校に求めます。学校が受け入れた生徒のバリエーションは既にコントロールされている(とされている)ので、残る差異は学校によって引き起こされているというわけです。このことから、ルターたちは各学校はそれぞれ異なる「効果性」をもっているという主張を導きます。彼らは言います:


子どもたちは、通う学校によって異なる品行と学業成績を示した。このことの含意は、中等学校在学中の経験が子どもたちの進歩に影響を与えているのかもしれない、ということである。*19

このようにして、学校が生徒のできばえに違いをもたらすのだという議論は組み立てられていきます。

では、どのような類の学校が、より「効果的」であるとされるのでしょうか? 何が学校を「効果的」にするのでしょうか? ルターたちは、校舎や設備といった物理的な特徴が違いをもたらすのではないということについてはジェンクスに同意します。実際、そのような点に問題があるにもかかわらずうまくいっている学校もありました。学校間の教育結果の違いは、むしろ「社会的機関としての特徴」*20によって引き起こされると彼らは言います。その特徴とは、「学業が強調される度合い、授業での教師の行動、インセンティヴ(動機付け)や報奨があるかどうか、生徒にとっての好ましい条件、子どもたちが責任を任されている度合い」*21といったものであり、それら全ては「外的な制約によって固定されておらず、職員による修正の余地がある」*22ものでした。これらのファクターは互いに組み合わさって、ルターたちが「エートス(ethos)」と呼ぶものを形成します。それは「学校全体の特徴となる一連の価値、態度、行動」*23のことです。

これが、「学校効果」研究のアウトラインです。では次回以降は、この研究を検証してみることにしましょう。


*1:っていうのはエンターテインメントとして取ってくださいね♪

*2:Mortimore, P. (1997) ‘Can Effective Schools Compensate for Society?’ in Halsey, A. H. et al. (eds.) Education: Culture, Economy and Society, (Oxford: Oxford University Press), 483.

*3:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 205.

*4:Jencks, C. (1972) Inequality: A Reassessment of the Effect of Family and Schooling in America, (Middlesex: Penguin Books).

*5:ibid, 256.

*6:ibid, 265.

*7:ibid.

*8:Mortimore, P. (1997) ‘Can Effective Schools Compensate for Society?’ in Halsey, A. H. et al. (eds.) Education: Culture, Economy and Society, (Oxford: Oxford University Press), pp.476-487.

*9:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books).

*10:日本で言う中学・高校のことです。たぶん。。。

*11:ibid, 48.

*12:ibid, 92.

*13:Jencks, C. (1972) Inequality: A Reassessment of the Effect of Family and Schooling in America, (Middlesex: Penguin Books), 158-159.

*14:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 26.

*15:ibid, 44.

*16:ibid.

*17:ibid, 27.

*18:ibid.

*19:ibid, 178.

*20:ibid, 178.

*21:ibid.

*22:ibid.

*23:ibid.