フェミニストはいかに「知る」のか 第二回 「フェミニストの視点」の理論
「フェミニストの視点(feminist standpoint)」の理論家たちは、単に従来の研究の「エラー」を指摘するだけではなく、社会的な「知」の枠組み自体に関心をもつ人々です。その一人スミスは、社会学の問題構制それ自体が、支配階級の白人の男たちの社会的位置に深い根を張っていると主張します。スミスいわく:
社会学はこのイデオロギーの構造に属する。社会学のテーマや何がそれに関連するのかということは、そこで特定の階級的役割を演じ、関係のネットワークに参加している者としての男性の遠近法(視点)によって組織されており、またそれを表現する。その関係のネットワークとは、彼らの仕事を社会の他の医療・教育制度の専門家の仕事に結びつけ、ビジネスにおいてであれ、行政においてであれ、その他の分野においてであれ、社会のより直接的な支配の実践と結びつけるものである*1。
The Everyday World As Problematic: A Feminist Sociology (Northeastern Series in Feminist Theory)
- 作者: Dorothy E. Smith
- 出版社/メーカー: Northeastern Univ Pr
- 発売日: 1989/03/02
- メディア: ペーパーバック
ここで、私たちは二つのフェミニスト認識論の違いに気づくことができます。前回見たフェミニスト経験主義者たちは、(社会科学者を含む)科学者が性差別主義的な主張を行ったのは、彼ら自身の原則を十分に厳密に適用しなかったからであると考えました。それに対して、「フェミニストの視点」の理論家たちは、社会学や他の科学の基礎にある原則それ自体を問題にします。
スミスは、「私たちが今女性としている場所から……始めること」*2によって、また「日常世界を問題枠組みとすること」*3によって、社会学にラディカルに挑戦します。この立場からすれば、女性たちの日常のローカルな経験は、社会学(や他の学問)の支配的形式を批判し、オルタナティヴなフェミニスト的な形式を作り上げるための、適切な出発点となるでしょう。
このような発想は、マルクス主義の唯物論を連想させます。マルクスは、考えや精神が歴史の原動力だとする観念論に異議を唱えました。マルクスとエンゲルスいわく:
天国から地上に降りてくるドイツの[観念主義的]哲学とは正反対に、私たちは地上から天国に上る。つまり、私たちは、生身の人間を理解するために、人間が言ったり、想像したり、思ったりすることから出発することも、語られたり、考えられたり、想像されたり、思われたりするものとしての人間から出発することもしない。私たちは、現実の活動的な人間から出発し、彼らの現実の生の過程に基づいてこの生の過程のイデオロギー的な反響やエコーを示す*4。
マルクスはさらに、「人間の意識がその実存を規定するのではなく、彼らの社会的実存がその意識を規定する」*5と主張しました。支配関係の抽象的なイデオロギー装置としての社会学を拒絶して、女性の日常の物質世界を「知」の出発点とする点において、スミスもまた「地上から天国に上る」と言えるでしょう。
しかしながら、ここで問いが発生します:彼女は男性中心主義的な理論家たちの過ちを繰り返しているのではないか? 社会の理解の基礎を女性の経験に置くことによって、彼女もまた、性差別主義的な科学者たちと同様に、偏見に囚われているのではないか? ハーディングが指摘するように、相対主義者ならばこのように言ってスミスに反駁するかもしれません*6。けれども、女性と男性の経験は、社会的な「知」にとって、等しい価値をもつわけではない、というのが「フェミニストの視点」の理論家たちの立場です。彼女たちは、女性の独特の位置からは、社会的関係をよりよく見ることができると主張します。
スミスはこのことを、主人と奴隷の関係についてのヘーゲルの分析と、資本家と労働者についてのマルクスの分析に依拠しながら示そうとします*7。スミスのまとめるところによれば、ヘーゲルの図式においては、主人は、自らの労働を介さずして対象への欲望を満たすことができます。これは、対象が使用人の労働によって生産されるからです。結果として:
その仕組み自体が主人の視点からは見えない。主人の意識内においては、自分と、対象と、手段に過ぎない使用人が存在する。使用人の目からは、主人と、対象を生産する自らの労働が存在し、主人と対象の関係は単純なものに見える。一連の諸関係の全体が見えるのだ。*8
スミスによれば、マルクスも支配階級と労働者階級について同じようなことを言っています。マルクスは、前者の存在条件を生産する後者の視点からは原則として諸関係全体が見えるのだと主張しました。
男性と女性の関係についても、同じことが言えます。奴隷と労働者が主人と資本家の存在条件を生産するように、女性もまた支配的な(男性)社会学者の「支配の抽象化された概念様式」*9を可能にします。前回見たように、支配的な男性社会学者は客観性を確保しようとしますが、身体的な必要性を逃れることはできません。そのような必要性は、たいていは女性の家事労働によって満たされます。スミスは、「女性は男性のために、行為の概念様式とそれが実際に拠って立つ具体的な形式の仲介をする」*10と主張します。だとしたら、ちょうど使用人や労働者が主人や資本家よりも優れた視点をもつのと同じように、女性も男性よりも優れた視点をもつと言えるでしょう。
ハートソック*11は、女性の位置の特殊性に関心をもつもう一人の理論家です。スミスと同じように、彼女は女性の経験をより優れた社会認識の源であると見なします。ハートソックいわく:
マルクス派の理論がプロレタリアの生について示したように、女性の生は、男性至上主義への特定の有利な視点を用意する。その視点からは、男根主義的な諸制度や、家父長制の資本主義的形態を構成するイデオロギーを力強く批判することが可能になる。*12
The Second Wave: A Reader in Feminist Theory
- 作者: Linda Nicholson
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 1997/02
- メディア: ペーパーバック
ここでは、またしてもマルクス主義とのアナロジーを見ることができます。しかし、ハートソックの試みはマルクス主義から批判のための道具を借りるだけではなく、一歩先に進むことによってそれを乗り越えようとするものです。事実、彼女は言います:「フェミニストの視点」は(男性)プロレタリアの視点よりも「より深い」*13ものであると。
ハートソックによれば、これは一つには性的な労働分業によるものです。彼女はそのような分業が「社会的労働の構成の中心にある」*14と見なします。男性労働者とは異なり、女性は「資本主義での生存に二重の貢献」*15をします。有償労働を通して男性労働者と女性労働者の両方が物質世界とつながっている一方で、男性は家に帰ると自然から切り離されます。彼らの身体的な必要性は女性によって世話されるからです。それに対して、女性は仕事場でも家庭でも自然とつながっています。それゆえ、女性の「世界への参加は……[男性よりも]完全なもの」*16であり、その結果として「プロレタリアの視力は[前者]にとっては強化され改良され、[後者]にとっては弱体化される」*17のです。
このように、女性の性別労働分業における独特の経験は社会に対するより優れた視点を提供します。このように考えることで、「フェミニストの視点」の理論家たちは相対主義者からの異論を退けます。彼女たちによれば、女性の経験は男性の経験と等価ではありません。女性の経験の特異性はより優れた社会認識の基礎となります。ハートソックいわく:
女性の活動を社会システム全体に一般化すれば、人類史において初めて、完全に人間的なコミュニティーが可能になるかもしれない。それは、分離と対立ではなく結びつきによって構造化されたコミュニティーである。……女性の生の活動は、実際に特にフェミニスト的な唯物論の基礎を形成する。……そのような唯物論は、男根主義的なイデオロギーや諸制度を批判し、それらに抵抗する出発点を提供できる。*18
もちろん、女性は全てのものを無条件に把握できるなどという素朴なことをハートソックは言おうとしているのではありません。女性もまた女性嫌悪的な考えを抱くことがあるわけですから、そのように考えることは馬鹿げています。女性は男性支配の中に生きており、家父長主義的なイデオロギーに浸かっています。したがって、「フェミニストの視点」は、初めからあるものではありません。それはむしろ、「特定の歴史空間における分析と政治的な闘争によって達成されるもの」*19として理解されるべきです。フェミニストにとって、「知」とは家父長主義的な現実との実際の関わりを通して初めて獲得されるものであり、それは政治的な戦いと切り離せないものなのです。
*1:Smith, D. (1987) The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, (Milton Keynes: Open University Press), p. 56.
*2:ibid, p. 64.
*3:ibid, p. 99.
*4:Marx, K. and Engels, F. (1965) The German Ideology (London: Lawrence and Wishart), p. 37.
*5:Marx, K. (1963) ‘The Preface to a Contribution to the Critique of Political Economy’, in his Early Writings (London: Penguin Books), p. 425.
*6:Harding, S. (1987) ‘Introduction: Is There a Feminist Method?’ and ‘Conclusion: Epistemological Questions’, in her, ed., Feminism and Methodology: Social Science Issues, (Milton Keynes: Open University Press), pp. 185-186.
*7:Smith, D. (1987) The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, (Milton Keynes: Open University Press
*8:ibid, p. 79.
*9:ibid, p. 81.
*10:ibid, p. 83.
*11:Hartsock, N. C. M. (1997) ‘The Feminist Standpoint: Developing the Ground for a Specifically Feminist Historical Materialism’, in Nicholson, L. (ed.), The Second Wave: A Reader in Feminist Theory, (London: Harvard University Press), pp. 216-240.
*12:ibid, p. 217.
*13:ibid, p. 222.
*14:ibid, p. 221.
*15:ibid, p. 223.
*16:ibid, p. 224.
*17:ibid, p. 225.
*18:ibid, p. 234.
*19:ibid, p. 232.