(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

フェミニストはいかに「知る」のか 第三回 複数形の「フェミニストの視点」



フェミニストの視点」の理論家たちの政治姿勢は、客観性の科学的な概念をラディカルに問うものです。性差別主義的な偏見を取り除くことによってフェミニスト経験主義者が伝統的な客観性を復活させようとするのに対して、「フェミニストの視点」の理論家はそれを根本的に脱構築しようとします。第一回で見たように、旧来の客観性の概念は研究者に研究活動から自らのアイデンティティーを切り離すことを要求します。これに対して、「フェミニストの視点」の理論家たちは女性としての社会的位置をより優れた「知」の基礎にポジティヴに位置づけます。彼女たちは、現実の社会関係は抽象的で「客観的な」位置からではなく、日常世界の具体的な社会的位置から見渡せるものであると主張します。そうすることによって、彼女たちは同時に社会思想における「人=男(Man)」を脱中心化します。もはや「人=男」は「アルキメデスの点」、つまり、「社会におけるいかなる特定の位置にも属さない点」*1としては受け入れられません。自分たちの経験の特異性をポジティヴに主張することによって、「フェミニストの視点」の理論家は「客観的」であることを装う従来の科学者の抽象的な「中立性」の神話を暴露します。

しかしながら、話はここで終わりません。第二回で見たように、「フェミニストの視点」の理論家たちは男性と女性の差異を強調します。しかし、そうする時に、彼女たちは女性たちの中の差異を軽視してしまいます。実際、ハートソックはこのことに自覚的で、「人種や階級の境界線に渡る女性たちの間の重要な差異を脇に置いて、その代わりに中心的な共通点を探る」*2ことを提案します。これはとても大きな問題を孕んだ言い方です。というのも、そのような「共通点」を求めることは、歴史的に、支配的な白人女性の状況を全ての女性の状況と混同することにつながってきたからです。*3だとしたら、「人=男」を脱中心化するだけでは不十分でしょう。さらにフェミニズムにおける「白人の、経済的に恵まれた、異性愛者の、西洋のフェミニストの関心を脱中心化する」*4ことが必要になります。

この点について、コリンズの論考は示唆的です。彼女は、黒人女性の周縁的な社会的位置が、逆説的に「自己や家族、社会に対する特別な視点」*5をもたらすと主張します。コリンズは白人家庭の使用人としての黒人女性の位置に注目します。彼女たちは白人世界の「内部に」おり、白人の現実を見ることができました。一方で、黒人女性はアウトサイダーでもありました。というのも、「彼女たちは決して白人の『家族』に属してはいなかった」*6からです。このように、彼女たちはユニークな位置にありました。コリンズはこれを「内側のアウトサイダー*7と名付けます。



Beyond Methodology: Feminist Scholarship As Lived Research (A Midland Book)

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コリンズは、今日の黒人女性の社会学者もまた、伝統的に白人男性によって支配されてきた学問の世界における「内側のアウトサイダー」であると言えると主張します。彼女たちは、「よそもの(strangers)」であるために、支配的な人種や性に属する者よりもより容易に「社会学の『いつもの発想』」*8に含まれる問題に気づくことができます。第一に、彼女たちは社会学の理論において黒人女性が白人の男性にも白人のフェミニストにも見落とされてきたことを指摘できます。*9第二に、彼女たちは黒人女性のイメージが社会学者によってわい曲されてきたことを指摘できます。このように、「内側のアウトサイダー」としての黒人女性社会学者の視点からは、「インサイダー」には見えないことが見えるわけです。

黒人女性の「内側のアウトサイダー」の視点の特異性を見落としたり、それを「フェミニストの視点」一般に包摂してしまうのは致命的な過ちでしょう。白人女性と黒人女性は異なる経験を持っており、したがって異なる視点を獲得します。だとしたら、「フェミニストの視点」を単数形で語ることはできないでしょう。そうではなくて、複数形のフェミニストの視点」が存在するのです。*10

この連載では、男性中心主義的な「知」に対抗するフェミニストの様々な戦略を見ました。フェミニスト経験主義者は、性差別主義的な偏見を取り除くことによって、旧来の科学者よりも「客観的」であろうとしました。一方で、「フェミニストの視点」の理論家たちは抽象的な「客観性」の様式を退け、フェミニストの「知」の基礎を日常世界における女性の具体的な経験に置こうとしました。とすれば、単数形の「フェミニストの視点」を複数形の「フェミニストの視点」に置き換えることは、彼女たちの思想の論理的な延長でしょう。というのも、「知」が日常的な経験に基礎づけられるべきなのだとしたら、そして女性たちが異なる経験をするのだとしたら、彼女たちは当然異なる「知」の視点を獲得するはずだからです。私たちはもはや、世界を見る単一の視点に頼ることはできません。私たちは、私たちの複数の経験に基づく複数の視点を求めるべきです。人種差別的家父長主義資本制の下で複合的な抑圧を受ける女性にとって、複数形の「フェミニストの視点」は、重要な武器となることでしょう。


*1:Smith, D. (1987) The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, (Milton Keynes: Open University Press), p. 71.

*2:Hartsock, N. C. M. (1997) ‘The Feminist Standpoint: Developing the Ground for a Specifically Feminist Historical Materialism’, in Nicholson, L. ,ed., The Second Wave: A Reader in Feminist Theory, (London: Harvard University Press), p. 222.

*3:Spelman, E. (1990) Inessential Woman: Problems of Exclusion in Feminist Thought, (London: Women’s Press), p. 3.


Inessential Woman: Problems of Exclusion in Feminist Thought

Inessential Woman: Problems of Exclusion in Feminist Thought

この点については(元)登校拒否児のためのブラック・フェミニズム入門講座 第1回 唯白論(ゆいはくろん)でも取り上げました。

*4:Harding, S. (1991) Whose Science? Whose Knowledge? Thinking from Women's Lives, (Milton Keynes: Open University Press), p. 13.

*5:Collins, P. H. (1991) 'Learning from the Outsider Within: The Sociological Significance of Black Feminist Thought' in Fonow, M. M., and Cook, J. A. eds., Beyond Methodology: Feminist Scholarship as Lived Research, (Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press), p. 35.

*6:ibid.

*7:ibid., p. 36.

*8:ibid., p. 50.

*9:たとえば、一部の白人フェミニストは家族を女性の抑圧の主要な源として定義しました。しかしながら、そうすることによって、彼女たちは黒人女性の経験を無視します。カービーはこれに対して、黒人女性にとっては家族は抑圧の源としてだけではなく「[人種差別的な]抑圧への主要な抵抗の源」としても機能してきたと主張します。Carby, H. V. (1982) ‘White Woman Listen! Black Feminism and the Boundaries of Sisterhood’, in Centre for Contemporary Cultural Studies, University of Birmingham, ed., The Empire Strikes Back: Race and Racism in 70s Britain, (London: Hutchinson), p. 214.

*10:「黒人フェミニストの視点」や「白人フェミニストの視点」を単数形で語ることにも問題があります。というのも、黒人女性と白人女性の間に違いがあるように、黒人女性同士、また白人女性同士の間にも差異があるからです。たとえば、黒人女性の秘書は黒人女性の教授とは異なる経験をし、異なる視点に立つかもしれません。