貴戸理恵、原住民の人類学者?
先日、上野千鶴子さんが主宰されている「ジェンダー・コロキアム」で貴戸理恵さんの研究についてコメントする機会がありました。以下は、その時話したこと/話したかったことです。
riekido.comに発表された貴戸さんのコメントでは、今回の調査について、適切な手続きをへていることが述べられています。しかし僕は、この弁明は不十分なものであると思います。というのは、正当化の文脈は一つではないと思うからです。『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』は社会学的調査であると同時に、貴戸さんという一当事者の政治的実践でもあります。とくに後者の側面について、今日は貴戸さんにうかがいたいと思います。
『ことばは届くか―韓日フェミニスト往復書簡』という本の中で、韓国の人類学者の趙韓惠浄さんが、「原住民・自国の人類学者(native anthropologist)」という言葉を使っています。旧来の人類学は、イギリス人なりフランス人なりの学者がアフリカやアジアに入って調査をしたわけですが、趙韓さんは、韓国という旧植民地から、アメリカに留学して人類学者としてのトレーニングを受けた上で、韓国の済州島でフィールドワークを行いました。彼女はその結果を博士論文にまとめ、学位を取り、韓国に戻って大学教授になりました。
さて、僕の見たところ、貴戸さんもまた「原住民の人類学者」であると思います。従来の不登校研究は、学校エリートによって担われてきました。不登校研究自体が学校中心主義的イデオロギーの構成要素であったと言えるでしょう。これに対して貴戸さんは、不登校経験を経た上で、大学に入り、社会学者としてのトレーニングを受けて不登校経験者たちへの調査を行いました。『不登校は終わらない』は、社会学的な調査です。一方でまたそれは、当事者による政治的実践でもあります。
この両義性を踏まえたうえでないと、東京シューレや二人の被調査者と貴戸さんの対立を正しく理解することはできないと思います。岸政彦さんは、このように書いています:
いやだからといって開き直って人様がよかれと暮らしてるところに土足で入っていって調査させろコラというわけにもいかん。やはり現場で頑張っておられる活動家の方々はもっとも重要な存在である。われわれ調査者は、結局はどんな問題にも直接の役に立たない寄生者なのだし、これは当事者出身の研究者もとうぜん含まれると思う。まず守るべきは現場の「仁義」である。
しかし貴戸さんが問題化したのは、まさにそのような「現場の『仁義』」なのではないでしょうか? 『不登校は終わらない』は、広い意味での当事者圏という「現場」の一員からの、「現場」のあり方への異議申し立てだったのではないでしょうか?
今回の調査には、少なくとも二つの正当化の文脈があると思います。まず社会学という学問の文脈。そして不登校というマイノリティー集団の文脈。riekido.comのコメントは前者を意識したもののように感じましたが、貴戸さんは、どちらに軸足を置いていくのでしょうか? 『不登校は終わらない』では、やや素朴なまでの当事者としての気負いがあったと思います。また一方で、当事者同士であっても調査者と被調査者の間に生じる権力の非対称性にも貴戸さんは自覚的でした。それに対して、今日の参考文献になっている今年になって書かれた二本の論文*1では、貴戸さん自身の姿が見えないように感じました。これは単に短い論文ではそこまで表現できないということなのか、それともなんらかの方向転換があってのことなのか? 『不登校は終わらない』の中で、貴戸さんはこう書いていました。「本書は、<当事者>が主体となって不登校を考察する『<当事者>学』の試みのひとつである」*2。これに対して貴戸さんは、新しい論文でこう書いています。「専門家にとって必要なのは、こうした実践を適切に表現しうる言葉を『居場所』に供給していくことではないだろうか」*3。これは、「専門家」という位置を引き受けようという宣言でしょうか?
先日、北田暁大さんと仲正昌樹さんのトークを聞きに行ったのですが、そこで『マンガ嫌韓流』のことが取り上げられていました。うろ覚えなのですが、北田さんによればこのマンガの主張は社会構築主義やポストモダニズムを取り入れたところがあるそうです。たとえば『嫌韓流』は、ハングルが世界に誇る文化だという韓国の常識について、ハングルの歴史的起源や日本の植民地政策との緊張関係を振り返りながら相対化していきます。北田さんは、このような歴史化はこれまで日本の研究者が日本語に対して行ってきたものであり、また、もしこれが韓国人の手によって行われたのであれば面白い研究になるかもしれないと言います。しかし日本人が韓国に対してやるのはおかしいだろうと北田さんは主張します。僕もたしかにそうだと思ったのですが、なぜそう感じるかというと、それはある研究はそれを行った研究者と切り離して評価することはできない、と思うからです*4。
貴戸さんの研究は、これまでの当事者言説を相対化し、文脈化するものです。そこで貴戸さんにうかがいたいのですが、それを、どのような位置から行おうとされているのでしょうか? 社会学という学校中心主義的なイデオロギー装置の側から、不登校というマイノリティー文化を眺めているのでしょうか? それともあくまでも自分の当事者としての欲望から、社会学を道具として飼いならしつつ当事者としての政治的実践を行おうとされているのでしょうか? 客観的にどこに位置するのかということと、貴戸さん自身がどのように自分の位置をコントロールするおつもりなのかということをうかがいたいと思います。