(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

調査する者とされる者の終わらない関係 第2回 調査する人とされる人の弁証法





Formations of Class and Gender: Becoming Respectable (Theory, Culture & Society)

Formations of Class and Gender: Becoming Respectable (Theory, Culture & Society)

スケッグスは、自分のアイデンティティーを認めるだけではありません。彼女は自分と調査対象の女性たちとの違いを認識します。「調査者と被調査者は異なる言説的資源をもつのであり、異なる形態の言説を紡ぐ」*1とスケッグスは言います。彼女も調査対象の女性たちも労働者階級出身ですが、彼女はその位置から脱出しました。調査が行われていた当時、スケッグスは博士課程の学生であり、彼女たちの教師でもありました。彼女は現在では大学教授になっています。彼女は、調査に協力した女性たちにはなかった経済的、文化的、社会的、象徴的資本をもっていました。彼女によれば、女性たちもまたこの違いに気づいていました。女性たちの一人はこう言っています:


あんたなら結婚しなくてもいいよね。自分でモノを買うこともできる。あんたはすごいカネ稼いでるじゃん。自分のアパートもあるし、服もあんなに持ってる。私たちにはありえないことだよ。あんたほどの稼ぎのいい仕事が見つかるわけないよ。……本当にラッキーだったら保育士かな。でも保育士の給料が安いことは誰でも知ってるよ。……生活できる給料じゃないね。……あんたは自分がどれだけラッキーかわかってない。……あんたは汚い仕打ちにも黙ってない(you don't take no shit)。それはね、そうできるからだよ。私たちにはできないね。私たちがあんたみたいな気性だったら、どうなっちゃうか。誰からも声かけられないって。……売れ残るよ。*2


Researching Women's Lives from a Feminist Perspective (Gender & Society Feminist Perspectives)

Researching Women's Lives from a Feminist Perspective (Gender & Society Feminist Perspectives)

もしこのような差異があるのだとすれば、存在のあり方と知ることのあり方の関係は、複雑なものになります。そこにはさまざまな違いや矛盾があります。スケッグスは、自分と女性たちとの関係を弁証法的なものとみなすことによって、そのような矛盾に敏感であろうとしました。

調査を開始したころ、彼女は自然主義の立場に立っていました。ハマースリーとアトキンソンによれば、自然主義とは「可能なかぎり、社会的世界は研究者によって介入されていない『自然』状態で研究されるべきだ」という考えだそうです*3。スケッグスは当初、「私がこの若い女性たちの『自然な』状況に入っていけば彼女たちの『リアルな』……経験を発見し報告できるだろうと信じて」*4いました。しかし、その正反対が正しかったと彼女は言います。「彼女たちと過ごす時間が増えるほど、私はますます混乱していった」*5のだそうです。

やがてスケッグスは自然主義を棄てました。調査対象の女性たちは自分にとっての「弁証法的他者」*6となったと彼女は書いています。スケッグスは、女性たちの「自然」状態を発見しようとすることをあきらめ、自分と彼女たちがお互いに影響し合っていることを自覚するようになりました。彼女は、「調査に価値観を持ち込んだ」*7ことを認めます。このことは、彼女の存在が女性たちの状態に変化をもたらしたかもしれない、ということを意味します。しかし彼女は自分の価値観が「調査を『汚染する』」*8ことを恐れませんでした。スケッグスいわく:


3年間をフルタイムで共に過ごしたのに、もし私が意見や価値観や評価、よく考えていることを示さなかったとしたら、[調査対象の]女性たちは私のことをヘンに思っていたことだろう。「自文化での」(at home)エスノグラフィーは対話を通して生産される。当時の/現在の私の位置から私が応答できないなどということは絶対にありえなかった。そうしていなければごまかしやいつわりをすることになっていただろう。私の調査の多くは信頼に基づいていたから、私は友人に接するときと同じようにオープンで率直だった。結局のところ、私たちは友人になったのだ。*9

このような「対話」は、明らかに自然主義的な原則から逸脱するものです。スケッグスが現われることによって、女性たちは変化したかもしれません。これは一種の歪曲(わいきょく)でしょうか?

ミース*10であれば、スケッグスを擁護することでしょう。「梨の味を知りたければ、実際に食べて梨の形を変えなければならない」という毛沢東の言葉を真似て、彼女はこう言いました:「あるものについて知りたければ、それを変えなければならない」*11。人は必ずしも「真の意識」*12をもっていないので、実際の社会関係は当事者からも不可視のものかもしれません。それゆえ、ときには被調査者の意識を変革することが必要になります。「現状の変革が科学的な探求の出発点になる」*13とミースは主張します。この立場からは、調査者の被調査者への影響は積極的に評価されるでしょう。



Social Research: Philosophy, Politics, and Practice

Social Research: Philosophy, Politics, and Practice

調査者が被調査者に影響を与えただけではなく、後者もまた前者に影響を与えました。スケッグスは、「女性たちとの弁証法的な関係の中で、私は絶えず理論を修正していた」*14と言います。「私は自分の考えや解釈を彼女たちと話し合った。彼女たちはそれに挑戦したり、矛盾することを言ったり、裏づけたりした」*15と彼女は書いています。女性たちの反応はスケッグスに、当初使っていた理論の一部を捨て去り、新しい理論を採用することを強いました。このように、この調査では、調査者だけが調査結果を決めたわけでも、被調査者だけが決めたわけでもありませんでした。

そうだとすれば、「解釈」の過程が問題として現われます。もし調査者と被調査者の意見が食い違う場合、誰がどちらの見方がより正しいのかを決める力をもっているのでしょうか? この点について、スケッグスはこう書いています:


調査対象の女性たちの分析に合わせて私の分析を変えるのではなく、……対話を通して得られた、しかし私が最終的な責任を負う解釈を使う権利を私は主張したい。*16

この問題は、彼女の本の階級に関する章(Chapter 5)に顕著に見ることができます。スケッグスは、女性たちが「労働者階級に見られないように」努力していたという事実にも関わらず(あるいは、下ですぐに見るように、それゆえにこそ)、「階級は[調査対象の]若い女性たちの主体性の中心にあった」*17と主張します。実際、女性たちの多くは常に労働者階級に貼られたネガティヴなイメージを自分から切り離そうとしていました。たとえば、女性たちの一人の言葉にはこうあります:


本当の労働者階級っていうのは失業手当をもらおうとしてウロウロしてるような奴らだよ。すごくうす汚くてみすぼらしくて、仕事もないんだ。でもあいつらも働いてるのかもね。労働者階級なんだからね。働いてるのかもね。労働者階級なら働いてるはずだから、ひどいとこで働いてるんだろうね。*18

このイメージは、「(まとも(respectable)で人を見定めるような中産階級の表象に基づく)指定された『他者』(the designated "other")」*19を背景として構築されたものでした。労働者階級から距離をとることによって、女性たちは中産階級の幻想に沿って自らのアイデンティティーを作り上げていました。その際に働いていた中心的なメカニズムが、「まともであること」(respectability)という概念でした。さきほどとは別の女性はこう言っています:


私はいつも[まわりの者とは]違っていたいと思ってきたよ。あいつら皆同じような服着てるじゃない。私の服は私が違ってるって言ってるの。私の服は私がまとも(respectable)だって言ってると思うよ。*20

しかしながら、女性たちがまともであることに気を配っていることは、彼女たちの生において階級が重要ではないという証拠にはなりません。むしろその逆のことを示しているとスケッグスは主張します。その理由を、彼女はこう説明します:


まともであるかどうかは、通常、そうではないと見なされる者の関心である。もし(黒人と白人の)労働者階級が一貫して危険で、汚らしく、脅威で、革命的で、病的で、敬意に値しない(without respect)と見なされてこなかったならば、まともであるかどうかはここで重要とはならないことだろう。*21

したがって、スケッグスの見解では、女性たちがまともであろうとし、中産階級に見られようとすることは、彼女たちの意図に反して、彼女たちが階級に囚われているということを示すわけです。

この例からもわかるように、「弁証法的」であると謳(うた)われてはいても、調査者と被調査者の関係は不均衡なものです。ある程度はお互いに影響し合うとは言え、究極的には前者がどの解釈を採用するかを決める力をもっているのです。


*1:Skeggs, B. (1994) ‘Situating the Production of Feminist Ethnography’, in Maynard, M. and Purvis, J. (eds.), Researching Women’s Lives from a Feminist Perspective, London: Taylor and Francis, 78.

*2:ibid, 80.

*3:Hammersley, M. and Atkinson, P. (1983) Ethnography: Principles in Practice, London: Tavistock Publications, 6.

*4:Skeggs, B. (1994) ‘Situating the Production of Feminist Ethnography’, in Maynard, M. and Purvis, J. (eds.), Researching Women’s Lives from a Feminist Perspective, London: Taylor and Francis, 75.

*5:ibid.

*6:Skeggs, B. (1997) Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, London: Sage, 168.

*7:ibid, 33.

*8:ibid, 31.

*9:ibid.

*10:Mies, M. (1993) ‘Towards a Methodology for Feminist Research’, in Hammersley, M. (ed.), Social Research: Philosophy, Politics and Practice, London: Sage, pp. 64-82.

*11:ibid, 70.

*12:「真の」とか普通に平気で言うからマルクス主義者はコワイですね。。。

*13:ibid.

*14:Skeggs, B. (1997) Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, London: Sage, 23.

*15:ibid, 30.

*16:ibid.

*17:ibid, 74.

*18:ibid, 75.

*19:ibid, 74.

*20:ibid, 84.

*21:ibid, 1.