(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

「民主主義よ、お前はもう、死んでいる」――グアンタナモ化した政治と敵対性の外部化について



キューバグアンタナモ米軍基地には、アルカイダとの関わりを疑われた数百人の人々が収容されています。彼らの多くは、裁判にかけられる予定もなく「無期限に収容」されています。また拷問が行われているという報告もあります。このようなことは、通常の法の枠内では正当化することが困難です。というわけで、アメリカではこのような収容が行われていいのかということが論争になっています。

ジジェクによれば、ある討論番組で、次のような収容擁護論があったそうです*1。いわく、「彼ら(囚人)は爆弾が当たらなかった者たちである」。つまり、彼らは米軍の正当な軍事活動の対象であったにもかかわらず偶然に生きのびたのだから、彼らを収容することに問題はない。どんな状態であるにせよ、死ぬよりはマシなはずだ。彼らは死ぬはずの者たちであったのだから、彼らには何をしても許される、というわけです。

日本の民主主義にも、グアンタナモの囚人たちのように「お前はもう、死んでいる」という通告が与えられました。山口二郎いわく、


浅野史郎宮城県知事が東京都知事選挙出馬の意向を固めた。これでようやく石原慎太郎を追い落とす機会が訪れたと安堵し、期待している人は、東京のみならず全国にいるに違いない。……石原のような人間失格の独裁者が都知事の座に君臨することは東京の恥のみならず、日本の恥である。これから一か月の間、石原を引きずりおろすために心ある市民はあらゆる行動を取るべきである。……何が何でも勝たなければならない。その際問題となるのは、反石原陣営の分裂である。……選挙の最大目的が石原を引きずりおろすことにある以上、民主主義を愛し、人間の尊厳を貴ぶ市民は反石原の一点で結集、協力すべきである。その際にはより幅広く市民の支持を得られる候補にまとまることが必要となる。

 共産党のポスターに、「日本には確かな野党が必要です」と書いてある。しかし、共産党が独自候補の擁立にこだわって、反自民、反石原の票を分散させるという行動を続けるならば、共産党が、その意図とは別に、自民党や石原の増長をもたらすという結果になる。そうなると、安倍晋三や石原は、「自民党・石原には確かな野党が必要です」とほくそ笑むことだろう。逆に、都知事選挙において反石原の広範な協力が実現できれば、そこから自公連立政権の悪政に終止符を打つ可能性も広がるに違いない。残された時間は短いが、心ある市民と共産党との対話の可能性をぎりぎりまで追求したい。

http://www.yamaguchijiro.com/?eid=565

今回の都知事選に関して、ネットにはこのような浅野支持者の言葉が溢れています。このような人々に特徴的なのは、石原を悪魔的な存在として徹底的に外部化する一方で、共産党に対して奇妙な身内意識をもっていることです。彼らは、決して石原に「対話」を求めることはないでしょう。それに対して共産党やその支持者は、反石原という正しい主張を持っていながら、それを実現するための最善の方法(浅野への一本化)が理解できないかわいそうな人々なわけです。山口は「心ある市民と共産党との対話の可能性をぎりぎりまで追求したい」と書いていますが、彼の語り口は対等な対話者というよりは、未熟な生徒を指導・教育する教師のものです。

上の文章から、山口にとって石原慎太郎は「人間失格」の絶対悪であることがわかります。石原が当選してしまうことは絶対に避けなければならない。反石原陣営は「何が何でも勝たなければならない」。だから石原に反対する者はとにかく結集しなければならない。それは具体的には浅野史郎を支持することである。浅野以外の候補を擁立することは、たとえ反石原を意図したものであっても、反石原票の分散を招く利敵行為である……。ブッシュが言ったように、「私たちの側にいない者は、奴らの側にいる」のです。

もはや、民主主義の防衛(=反石原)が民主主義の唯一のテーマとなってしまったわけです。それ以外の点で分裂する者は、当人の意図にかかわらず、結果的に石原を利するという意味で民主主義の敵であるも同様とみなされます。グアンタナモの囚人に対する超法規的な監禁や拷問が「死」よりはましであるのと同じように、イシハラという絶対悪を前にしては、ほとんど全てのものが「よりまし」であるはずです。とすれば、石原以外の候補の政策や資質などを比較することにはもはや意味がありません。重要なのは当選可能性だけです。だから、共産党のような泡沫政党が独自に候補を擁立することは許されないことになります。

極右の台頭を前にして、民主主義は「もう、死んでいる」わけです。「死んでいる」というのが大げさであるとしても、民主主義が「例外状態」に突入したことは確かでしょう。民主主義を愛するものは全員一致しなければならないのですから。しかしこの「例外状態」はいつ終わるのでしょうか? どのような条件が満たされれば、多様な意見を認める古き良き民主主義が復活するのでしょうか?

仮に、全ての民主主義者が山口先生の指導に従い、イシハラ打倒に成功したとしましょう。しかし、またいつ極右勢力が盛り返さないとは限りません。というよりも、山口先生はイシハラがいなくなったらまた新たなイシハラを発明して反対者を恫喝することでしょう。かくして、「例外状態」は無期限に延長され、民主主義は防衛され続けることでしょう。民主主義を禁止することによって。イシハラは別に民主主義を破壊することを意図しているわけではないと思いますが、もしそうだとしたら、彼は既に成功しています。民主主義の先生が民主主義者に民主的に振舞ってはならないと説教し始めたのですから。

山口二郎は、別の文章で、左派、市民派護憲派が「現実主義」を欠いていることを嘆いています*2。そして、政治の世界では意図ではなく「結果がすべて」であるという論理で、ある地方自治体選挙で独自候補を擁立して現職候補に「漁夫の利」を与えることになった共産党を非難します。スターリンによる大粛清裁判の語彙を使うとすれば、共産党はその主観的な善意に関係なく「客観的に有罪」であると言えるかもしれません。

しかし、「現実」とは何でしょうか? 「現実主義」とはなんでしょうか? きっと山口にとっての現実は、報道ステーションでの福岡政行の政局解説のことなのでしょう*3。福岡さんが各党や派閥の議席数を反映した模型を様々に組み合わせながら見せてくれるあのエンターテインメントを見て、きっと山口先生は「共産党は単独で勝利することは絶対にない」と確信し、「でも、自公以外の勢力を全部足し算すれば、勝利できる可能性があるかもな〜」と思ったのでしょう。そしてその瞬間に、歴史が終焉しました。各党の勢力が大きく変動することはもうない。あとは、時間が止まった世界で数合わせの戯れが続くことになります。

今や世論調査は、世論を知るためのものではなく、世論を規定するものとなりました。私たちが心理テストに職業を決めてもらうように、選挙民は世論調査の結果を見て、自分の投票行動を決めなくてはならないのです。自分の素朴な判断で誰に投票するかを決めるのは危険です。うっかり、「意図」に反して敵を利するという「結果」を招いてしまうかもしれないのですから。専門家の適切なアドバイスが必要です。山口先生に決めてもらいましょう。もし、多くの選挙民が先生の善良な生徒となれば、「泡沫候補」は実際に泡沫候補並みの票しか獲得しないことでしょう。かくして、「現実主義」が「現実」を支配します。

しかし、数合わせは単純な足し算ゲームではありえません。共産党吉田万三を引っ込めて浅野支持を表明すれば、そのぶん票が増えるかもしれません。しかし共産党は、誰もが知っているようにたいへんな嫌われ者です。「良心的」保守の人々は、未だにこんな名前の政党が存在していることが信じられないし、この党の融通のきかない憲法解釈にはうんざりしています。非共産党系の市民運動に関係している人々の多くは、共産党に悪い思い出を持っています。山口先生にとってイシハラが外部にあるように、「とにかく共産党だけは嫌だ」という人がいるのです。もし共産党が浅野支持に回ったりしたら、相当数の票が逃げていく可能性があるのではないでしょうか? 

実際、共産党は各地の選挙で他の野党から共闘の申し入れを断られています。かつて右翼団体から「ほめ殺し」を受けた竹下登円形脱毛症になりました*4。それは「日本一金儲けのうまい竹下氏を総理に」というほめ言葉とは言えないものでしたが、共産党が「民主主義を守るために浅野さん投票しましょう」と呼びかけても、「ほめ殺し」になってしまいかねません。しかし先生にとっては「意図」ではなく「結果がすべて」ですから、「本当に浅野さんを応援したかったんだ」と弁解しても許してはくれないでしょう。

「現実」なるものそれ自体が、既に「現実主義」を織り込んでいます。また「現実主義」は、現実を固定化したり、意図せざる結果をもたらしたりします。とすれば、現実主義的であるためには、「現実主義」それ自体を分析対象にしなければなりません。「現実主義」は、どのような利害に関わり、どのような党派性を持っているでしょうか? 「現実主義」によって何が見えるようになり、何が見えなくなるのでしょうか?

1960年代のフランスで、ドフェールという社会党の政治家が、左翼・中道の大同団結を呼びかけました。


今度こそ砂漠から出ていくのだ。もう政権奪取を夢想するのではなく、その準備をするのだ。多数を制するのに十分な票数を――共産党か少なくとも共産党支持の有権者の大多数がわれわれを支持せざるをえないと推測されるので――取ることができ、国家機構を手中に収める具体的なチャンスがあるのだ。そうなってから、われわれの政策綱領、つまり左翼の政策綱領を実行に移すことになろう。われわれのこの方法だけが唯一<実効的>なのだ。<連合>を拒否すること、それは永久に少数派の、つまりは永久に無力な、反対陣営にとどまらざるをえないということだ*5

当時のフランスには、ド・ゴールという私たちのイシハラに相当するような支配者がいました。っていうのはよく知らないんですが、このエントリーにとって事実がどうであったかということはどうでもいいことです。そうではなくて、注目したいのは「実効的」というキーワードです。今回の都知事選でも、浅野史郎をベストとは考えないが支持するという人々の主張でも、「実効性」とか「プラグマティズム」という言葉が使われているからです。たとえばid:johanneさんはこう言います。


ネオ・プラグマティストは敗北の美学にも革新統一幻想にも興味なし。たまには、勝つつもりで一票入れたい。

現在の僕が抱える利害基準から観て、石原慎太郎より幾分かの対話の余地がある浅野氏が東京都知事になる可能性に期待する。

竹花豊前田雅英ら石原の腰巾着によるエロマンガ規制策動に痛撃を与える点にも期待したい。

プラグマティズム功利主義)が足りないんですよ。要は。

本当に真剣に戦ってる現実的な左派はこの国にはいないのですか?

ナチズムに対抗するためにドゴールと組む覚悟もないのなら、

一生負け組でやけ酒あおってろ。クズサヨは去れ。

http://d.hatena.ne.jp/johanne/20070303

ドフェールの呼びかけはナチスに抵抗するためにド・ゴールと組むことではなく、ド・ゴールを打倒するために左翼が団結することだったわけですが、問題にしたいのは実現可能性と関係なく理想を求めることに対する嘲笑と、「勝つ」ことに対する強いこだわりです。

サルトルは、ドフェールの呼びかけに対して、「恫喝を拒否しよう」と応じました。


そういう[ドフェールのような]連中は、ド・ゴール派に典型的な恫喝を行っているのです。今までわれわれが聞かされていたことはこうだ。「ド・ゴールに投票せよ。なぜなら、彼に代る人物がいないのだから」。今や左翼陣営内部で同様の恫喝が行われている、「ドフェールに投票せよ。なぜならそれが唯一<実効的>な投票のしかただから」。

サルトルはこれに対して、「何をするために実効的なのか?」と問います。それて彼は、「実効性」を根拠にした恫喝を支える現実主義に対して分析を加えます。


これ[現実主義]は全く古くさい詭弁です。事実は、根っからの悲観主義に現実主義という名を与えているのです。そして、今度は装置を――どのような装置であれ、哲学という装置であれ――動かそうというということになると、無意味な楽観主義で覆ってしまう。

……[ドフェール派は]次のような絶対的悲観主義から出発するのです。


現実的であろう。左翼は破産したのだ。だから右派へと写ろう。とにかく何かしなければならないのだから。それが何であってもかまわない。だから大きな党派を形成しよう。そこに本質的な統一がなくても、その党派は何かの形で統一をでっちあげようとするだろう。この党派は中道的なものになろう(つまり右派になる。というのは、中道は政権を取ろうとすれば、右派に連盟勢力を求めなければならないから)。そしてこの党派は<ダイナミック>ものとなるだろう。そしてこの組織が動くために、楽観主義を再導入する必要がある。左翼は死んだが、われわれは階級なき社会を実現するのだ。優れた人間たちが、その階級の如何を問わず、すべて集まって、お互いの間でインフレなき経済発展の進歩を決定するのだ。そこでは闘争はなくなるだろう。これはすべての人間にとっての利益ではないか?

まるでトニー・ブレアの演説を聞いているような気分になりますが、これに対してサルトルは反駁します。


困ることは、闘争はあるということです。それを言葉で隠蔽することはできても、それを抹殺することはできない。そして左翼がその特徴とするところは、まさしく左翼は、一国内に永続的な階級闘争によってのみ説明されうる利害対立が存在していることを認識しているという点です。

サルトルは、何も統一戦線一般を否定しているわけではありません。そうではなくて、資本主義社会を存続させることを前提としているドフェールに左翼が統合されることは、フランス社会の根底にある階級対立をめぐる闘争をあきらめることになる、と言っているわけです。

別のインタビューで、サルトルはこう言っています。


真の敗北主義者は――ドフェールのように――われわれに左翼を回復させるという口実で、左翼の息の音をとめようと提案する人びとのことだ。……左翼とは知識人の《高邁な観念》ではない。搾取社会は、左翼の思想と運動を征服するために狂奔するだろうし、時にはそれらを無力なものにしてしまうだろう。しかし、この社会はそれらを殺すことは決してできない。なぜなら、それらを生み出しているのはこの社会なのだから。*6

つまり、サルトルにとって、ドフェール的な「現実主義」は左翼に階級闘争を諦めさせる恫喝に他ならないわけです。しかし現実に階級対立がある以上、階級闘争が終わることは決してない。だから恫喝は拒否しなければならない、とサルトルは主張します。

こんな昔のインタビューを持ち出して階級闘争を云々するのは、現代の日本とは関係ない。階級対立の時代は終わったのだから、と思われるかもしれません。現に今回の都知事選でも、階級対立を前面に押し出している候補者は(たぶん)いません。しかしだとしたら、私たちがサルトルの頃よりも「現実主義」の恫喝により深く支配されているのだと僕は思います。

と、いうのは、もちろんマルクス主義者にしか賛成してもらえないでしょう。しかし仮に階級対立についてはひとまず置いておくにしても、サルトルのドフェール派への批判は今日も十分に有効であると思います。

それは、敵対性をめぐる問題です。浅野支持者にも共産党支持者にも共通するのが、イシハラを悪魔化する現状認識です。何年か前、あるテレビ番組で姜尚中が、イシハラは欧米だったら極右としてキワモノ扱いされるはずなのに、日本のマスコミは彼をまともな政治家として扱っている。そのこと自体が現在の日本の状況をよく表している、という意味のことを言っていました*7。これに対して、イシハラに反対している人のブログなどを見ると、彼はもう極悪非道で、とにかく排除しなければならない害虫のような存在になっています。山口二郎は最初に引用した文章で石原は「人間失格」だと言っています。

しかし、イシハラが「人間失格」なのだとすれば、前回の選挙で彼に圧倒的な支持を表明した東京都の有権者は一体何なのでしょう? またイシハラを支えてきた民主党を含む都議会与党は? 東京は怪物の街になってしまったのでしょうか?

たしかにイシハラはかなりスゴイことを言っています。しかし調査をしたわけではありませんが、彼の言動は「巷の人々」の言っていることとそう大きなズレがあるわけではないと思います。だとしたら、ただイシハラというウイルスを駆除して終わり、ということにはなりません。そしてだとしたら、ただ「反石原」だけを錦の御旗とする連合が、ただ「反石原」であるというだけの理由でイシハラ的でないものを生み出すという保証はないことになります。

たとえば「不法滞在の三国人」云々、という問題発言はもちろん問題であるし、批判しなければなりません。しかし、問題発言があろうがなかろうが、現在の日本社会で外国人、とくに「不法」滞在の外国人が抑圧されていることに変わりはありません。問題発言が問題なのは、「三国人」という言葉が政治的に正しくないからでも外国人に対して失礼にあたるからでもなく、それが私たちの社会が行っている外国人差別を表しているものであるからです。

私たちは、「外国人」を「日本人」同様の対等な権利を持つ存在として認める準備があるでしょうか? 私たちは、大量の難民を歓迎する準備ができているでしょうか? 私たちは移民労働者にも、東南アジアの日本企業の工場労働者にも、「日本人」同様の「健康で文化的な生活」を保障する用意があるでしょうか?

このような問いに対する答えがNoなのだとすれば、イシハラが果たして外部にある敵であるのか疑問です。イシハラは、(選挙権のある)私たちのまぎれもない代表者です。

イシハラを絶対悪にすることによって、私たちは敵対性を外部化します。しかしイシハラは、宇宙から降ってきたわけでも地獄から這い上がってきたのでもありません。彼は、外部から侵入したウイルスではなく、私たちのシステムそれ自体に問題があることを示す症状です。だとしたら、反石原というだけで団結することは、私たち自身の中にある敵対性を隠蔽することになりはしないでしょうか? 私たちは、イシハラを私たちにとっての「三国人」にしてはならないのではないでしょうか?

よくは知りませんが、姜尚中の指摘するように、ル・ペンやハイダーなどは欧米ではキワモノ扱いだと思います。これについて、ジジェクは次のように言っています。


実際、明らかなのは、ポピュリスト右派が自由民主主義の現在のヘゲモニーを正当化することに果たしている構造的役割である。というのも、この右翼勢力――ブキャナン、ル・ペン、ハイダー――が提供しているのは、体制的な政治的スペクトラム全体の否定的な共通項であるからだ。彼らは排除された者たちで、まさにこの排除(彼が公職に就くことの「ありえなさ」)を通して、彼らの存在は公的なシステムが善きものであることの証拠となる。彼らの存在は政治的闘争の焦点……を右傾化の危険を前にしての「民主的」勢力全体の「連帯」に置き換える。「新中道」は右派への恐怖を操作して「民主的」領域においてヘゲモニーを獲得しようとする。つまり、場を定義してその真の敵対者、つまりラディカル左翼を規制しようとする。ここに、「第三の道」の究極的な存在理由がある。それはすなわち、反資本主義と階級闘争のかすかな記憶さえもかき消してしまうような、最低限の撹乱的なトゲも抜かれてしまった社会民主主義である。

http://newleftreview.org/?view=2228

つまり、極右を絶対悪に仕立て上げることが、私たちのシステムに対するアリバイとなってしまうわけです。そしてジジェクは、そのような「民主的」勢力からの階級闘争の忘却こそが、極右が支持を集める余地を作っているのだと言います。


[第三の道ヘゲモニーの]結果は予想できるものだ。ポピュリスト右派が、未だに反資本主義的なレトリックを用いる唯一の「真剣な」政治勢力として、左翼が放棄した位置を占めるようになる。――それは(国際企業が我が国民のまともな働く人々を「裏切っている」といったような)民族主義的・人種主義的・宗教的な厚い化粧版を被ったものであるとはいえ。

イシハラの場合は「化粧版」しかなくて、反資本主義的ではないわけですが、「三国人」発言にあるように、彼が外部化された敵対性のレトリックをうまく利用していることは確かです。

「現実主義」は、私たちにささやきます。反石原で統一することが、イシハラを打倒する唯一の実効的な策であると。しかし、敵対性を外部化し、主流左翼が階級闘争を放棄してしまうようになったこと自体が、イシハラの台頭を招いたのではないでしょうか? 私たちのシステム自体を根本的に規定する敵対性が忘却されているために、「三国人」のようなニセの「敵」を攻撃するイシハラに人々は溜飲を下げるのではないでしょうか?

佐々木賢は、現代社会の階層を大きく3つに分類します。*8佐々木によれば4人家族で年収300万円以下のC層が多数派で、全体の3分の2を占めているそうです。年収800万から1000万円程度のB層は、全体の4分の1から3分の1くらい。で、一握りの超金持ちを佐々木はA層と名付けます。佐々木いわく、


さて日本のA・B・Cの三層だが、A層がいるから、C層が貧困になった。この事実があるのにA層の姿が見えないから、C層は自分の怨みを、身近によく見るB層に向ける。ポピュリストのブッシュや小泉や石原はC層の怨みのエネルギーを利用して政権を取り、A層がさらに栄える政策をしている。こういう構図が浮かびあがる。

佐々木は、このような認識を前提にして、ある反石原集会についての感想を述べています。そこでは、「民主主義の否定」「文化の軽視」「抑圧と暴挙」といった言葉がキーワードとなっていたそうです。しかしそのような批判はC層からの共感を得ることは難しいと佐々木は言います。「C層の羨望と恨みの心情には根拠があるから」です。佐々木いわく、


前述の[2004年]二月二八日に日比谷公会堂に集まって「東京都の教育改革で、今起こっていること」について論じた人々の多くは、おそらくB層以上の経済階層に属しているものと思われる。だからC層の怨みの心情を理解せずに、B層の人が「民主主義や文化や教育」の大切さを説いても通用しないのではないか。おそらくC層の人々は「あんたらめぐまれてて、これまでいい目を見てきた。立場が悪くなったって、まだ、オレたちよりいい」というに違いない。もっと怨みが強い人は「ざまあみろ」というかもしれない。

C層は特に教育に怨みをもっている。文化人や学者や報道関係者や教師などを「能力ある人」と、最初は羨望の眼差しで見ていた。だが今は、この人たちを恨む気持ちが強くなっている。なぜなら文化人や学者は、概ね教育資格の恩恵にあずかった人たちだからだ。C層の人は努力して中等教育や高等教育を受けても、正社員になれる確率は低く、もしなれてもフリーター同然の扱いを受け、教育資格の恩恵を受けられなくなっているのだ。

……C層は思想や論理は無意味だと感じる。グローバル化以降、組合運動や社会運動がないので、この恨めしい社会にいつどこでどのように異議を申し立てたらいいか分からない。敵が分からず、不満もいえないとき、誰かが敵を示してくれると嬉しくなる。「国の弱腰外交がよくない、敵は北朝鮮と国際テロ団だ」などといわれると「そうかなあ」と思ってしまう。「国内の敵は日教組だ」といわれると、元々教師嫌いのC層の人にはぴったりくる。日教組は力がなくなっているのに。

佐々木は長く定時制高校の教員を務めた人です。日々C層と対峙していたB層と言えるでしょう。

教育が長期化し、職業資格が激増する中で、学歴・資格はインフレをおこしています。我慢して学校を卒業しても、C層は安定した職にありつくことができません。教育が制度的な詐欺であることが明らかになりつつあるのに、のん気なB層のインテリは「教育を守れ」と訴えます。しかしそれはC層には通用しないと佐々木は言います。


B層はC層に現実を伝えねばならない。だが単に論理や事実の提示だけで伝わるわけではない。立場を共有するか、あるいは互いの立場への共感がなくてはならない。先に述べたように今は、教育の恩恵を受けた者と教育に裏切られた者という立場の違いが歴然としてきた。その両者のコミュニケーションが成り立ちにくい。

……C層とB層が連携してA層に立ち向かうのは容易なことではない。そこにポピュリストのつけこむ余地があった。

佐々木の認識では、真の敵はA層です。ところがB層とC層の相互理解が難しいために、B層はC層にそのことをうまく伝えることができないのだと言います。

しかし僕は、A層という敵を前にしてかくも隔たりのあるB層とC層が安易に団結してしまうとしたら、それこそポピュリズムであると思います。C層を痛めつける教育制度から利益を得ているのがB層です。このような階級対立があるのに、A層を打倒するためにC層とB層が「立場を共有」したり「共感」するとしたら、それもまた敵対性の外部化でしょう。

問題は、A層が真の敵であることをC層が理解できないことではありません。A層はもちろん敵ですが、決して外部からの「侵入者」ではなく、階級社会が生み出したものです。したがって課題はC層とB層の相互理解ではなく、C層がB層ともA層とも対立していることを明らかにすることです。

「現実主義」は説きます。イシハラは全ての民主主義者の敵であり、したがって全ての民主主義者が反イシハラで団結することが唯一「実効的」な道であると。しかし、そのような絶対悪をアリバイにした敵対性の抹殺こそが、「三国人」やら「生活保護受給者」やら「障害者」やら「ババア」やら「日教組」やらに対する倒錯した敵意につながるのではないでしょうか? 

敵を外部や「侵入者」に求めてはいけません。私たちは、私たちのシステム自体の内部にある敵対性について語らねばなりません。ファシズムの到来を阻止するために、あるいは既に存在するファシズムに対抗するために必要なことは、反ファシストがただ反ファシストであるということだけを否定的な共通項として団結することではありません。必要なのは、団結ではなくて対立です。より正確に言うと対立しているのに対立していないかのように振舞うのをやめることです。「北朝鮮」のようなニセの敵を提示するファシストに対して、私たちは言わねばなりません。敵は外からやって来るのではない。この社会自体の内部に敵対性があるのだと。私たちは、ジェンダーについて、障害について、階級について、学歴について、国籍について、語らねばなりません。

「現実」は決して不変のものではないし、歴史は止まっていません。「現実主義」が必死になって止めようとしているだけです。私たちは、極右が多数派であるとか、それに対抗するためにはそれ以外の全ての勢力を足し算しなければならない、といったことを出発点にしてはいけません。そのような「前提」それ自体に対して介入しなければならない。内部にある敵対性を顕在化させ、ファシスト以外の勢力がガチンコで対立するようになれば、まやかしの敵対性を振りまくファシストが登場する余地はなくなり、「前提」自体が消えるだろうと僕は思います。たぶん。なんとなく。わからないけど、福岡さんの情勢分析の檻の中で足し算ゲームをやったり「カレー味のウンコとウンコ味のカレーとどっちがマシか」と思案したりするよりは、よっぽどその方が現実的な希望があるような気がします。

では内部にある敵対性とは何か? それはどのようにして見えるようになるのか? そんなものにこだわって「よりまし」な選択肢を追求しなかったら、一番苦しい思いをしている弱者を切り捨てることになるんじゃないか? だからそれは所詮、現状のままでも生きていける者だけが言えるきれいごとではないのか? それについては次に書きます。

(追記)

誤解によって変な迷惑がかかるといけないので一応明記しておきますが、佐々木賢さんは浅野候補を支持されているようです。

http://asano46.exblog.jp/i2

あと、上記で言いたかったのは、浅野がダメだとか、共産党がいいということではありません。共産党は嫌いだし、浅野のことはよく知りません。言いたかったのは、イシハラを絶対悪として外部化し、それ以外の者はとにかく「勝つ」ために連帯しよう、みたいなのはイヤだし、そんなんじゃたぶん勝てないし、変な勝ち方をするとかえってヤバイ、ということです。

関係ないけど、ピンボケした森サンです↓。

f:id:toled:20060527171331j:image


*1http://www.lacan.com/zizartforum1205.htm

*2:「選挙は結果がすべて――『よりまし』で手を結ぶことをしなければ権力には勝てない」『週刊金曜日』11.3.2006, pp. 22-23.

*3:見てないのでまだやってるのかは知りませんが。

*4http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E6%B0%91%E5%85%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

*5:「恫喝を拒否しよう」『サルトル全集〈第36巻〉シチュアシオン (1974年)』。これはドフェール自身の言葉ではなく、サルトルに対するインタビュアーによる要約であるかもしれません。

*6:「左翼の終焉か、回復か」同上

*7:うろ覚えですので正確ではありません。

*8:「労働と教育」『現代思想 2004年4月号 特集 教育の危機』(佐々木は最近の講演ではD層を加えた4層を提示しています。「教育私企業化の意味」『社会臨床雑誌』3.2007)