早稲田大学文学部でのビラ撒き不当逮捕を許せないなら許せないことは他にもイパーイある
リベラルな思想を標榜する人が、現実には極めて非リベラルな行動をとるの見て面食らうことはしばしばあることです。一方で、ラジカルなサヨクが突然リベラルなタテマエをペラペラと喋りだし、当惑させられることがあります。
去年の年末、学外者の青年が早稲田大学の構内でビラをまいていて逮捕されるという事件がありました。井土紀州さんたちが呼びかけ人になって、抗議文が出されています。
12月20日昼ごろ、早稲田大学文学部キャンパス内において、早大再編について考え、反対する行動告知のビラをまいていた一人の人間が、突然7,8名の文学部教職員に取り囲まれて、そのまま警備員詰所に軟禁され、その後、その教員らが呼び入れた牛込警察署員によって「建造物不法侵入」の容疑で逮捕されてしまいました。
この事件について、わたしたちはたんに一大学にとどまる問題ではなく、大学総体のあり方、ひいては現在のこの社会のあり方総体にかかわる問題として、みずから深刻に受け止めるべきであると考えます。この出来事は、「言論表現の自由」を最後まで守るべき大学が、それをみずからあからさまに放棄したものであるがゆえに、わたしたちが譲ることのできない一線を、この社会が否定しつつあることを示唆しているのではないでしょうか。 大学のキャンパス内でビラをまくという言論活動を行っていた人間が突然逮捕されるという、前代未聞のこの到底許しがたい処置に対して、わたしたちは抗議の声をあげるとともに、早大当局の謝罪を求めるものです。
この抗議文には、マイケル・ハートなどのサヨクのスーパースターを含む多くの賛同人が集まっているようです。
抗議文は、リベラリズムのイデオロギーを根拠にして、大学当局を批判しています。しかし、私たちサヨクが知っているはずのことは、そのようなイデオロギーは資本主義を補完するものに他ならないということです。
学校制度とは、ズバリ、イデオロギー国家装置です。大学を頂点とする教育制度は、資本主義が必要とする多様な労働者を養成し、資本主義の支配を正当化する機能を果たしています。
いや、大学では批判精神を教えているぞ、という反論もあるかもしれません。しかしそれに対して私たちサヨクは「相対的自律性」と答えます。大学は資本に直接支配されているわけではなくて、一定程度、資本の論理からは独立して存在します。もし大学で資本主義の偉大さばかりが教えられるようになったら、いかにも胡散臭くて、大学の権威が失墜します。だから、資本の側は、直接自分たちの都合のいいようにコントロールするよりは、一定の枠を設けてあとは学者たちを「泳がせ」ておくのです。
結果として、英・米の人文系研究学科は、極左の巣窟となりました。たとえば、一流大学の比較文学科のホームページを見たら、教員のほぼ全員がサヨクであることがわかります。これが資本主義の懐の深さです。
さて、サヨクの哲学研究が、日本よりもアメリカではるかに進んでいることは疑いがないでしょう。しかしでは、アメリカが日本よりもサヨク的に公正な社会と言えるか、というとそんなことはありません。たとえば、国民健康保険制度があるだけでも、日本の方がずっとマシではないでしょうか? この現実と、資本の側の極左教授に対する「寛容」の精神の関係は、興味深いものです。
ところで、以前、麻原彰晃さんの次女が和光大学に入学を拒否されるという事件が起きました。もちろん、これが許されない暴挙であることは明らかです。しかし、これと同等の「許されない暴挙」は、全国のほぼ全ての大学で、毎年平穏に行われています。入学試験です。選別の結果、多くの受験生が入学を拒否されています。学力や学習意欲は出身階級に比例しますから、学力テストによる選別は間接的な階級差別ですが、そもそも、人間を選別するということ自体がサヨク的には不正義です。東大教官の北田暁大さんは、和光事件について、こうコメントしました:
Toleranceといえば、和光大学が麻原の娘さんの合格を取り消ししたらしいですね。(一部の)気持ちはわかるし、私立大学である以上、ある種の「入学者審査」の権利があることは認めますが、「リベラル」「ラディカル」を自認する和光としてはちょっと?な対応ですね。上野俊哉さんとかがどのように動いていくのか、注目していきたいと思います。傍観者的な語りで申し訳ないのですが、やっぱり、森達也『A』『A1』以降、左右を問わず僕たちは「オウム」へのまなざしを変えずにいることはできないはずだ。
これが和光でなくてフツーの私大であれば僕は「リベラル」として放っておくだろう。でも(一応大学人の端くれとして)和光だからこそ気になって仕方がないのです。冷静に再考されることを和光大学当局には望みます。
北田さんは、和光大学当局におせっかいを焼く前に、まず足元の東大が日本の大学で最も激しい差別を行い続けていることについて思いをはせてみてもいいかもしれません。と、いうのもおせっかいですが。
サヨクにとっての課題は、大学の「公共圏」だの学問の自由だのを守ることではありません。それはリベラルの課題です。サヨクの課題は、人間を選別するシステムを解体すること、大学制度を廃絶することです。
その意味で、今回の不当逮捕事件は、革命的な可能性を秘めていると思います。というのも、逮捕された件の青年が、学外者であったからです。ビラまきにとどまらず、大学への不法侵入をエスカレートさせていくことによって、抗議文に賛同を示した大学教員のサヨク度が試されることになります。たとえば、研究室に居座って、生活空間にしてしまうこと。あるいは、これは学外者ではないですが、非常勤講師が専任教員の授業を「ワークシェアリング」としてジャックし、給料もシェアすることを要求すること。このような運動が発展していけば、今回の抗議文の執筆者が「ウソも方便」としてリベラルなレトリックを使ったのか、それともサヨクの仮面をかぶったリベラルだったのか、ということも明らかとなるでしょう。