「永遠の嘘をついてくれ」——「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 後編
(前編からの続きです。)
サルトルは、アルジェリア革命の闘士フランツ・ファノンによる『地に呪われたる者』への序文で、フランス本国人の植民地支配に対する責任について語っている。当時のアルジェリアは、フランスの植民地だった。アルジェリアでの、「コロン」と呼ばれるヨーロッパ人入植者の暴虐非道ぶりは、フランス本国でも既に知られていた。サルトルは、フランス人読者に告げた。
……「だが、おれたちは<本国>[=フランス]にいるんだ、[アルジェリアでの]行き過ぎを非難しているんだ」。そのとおりだ。君たちはコロンではない。だが似たり寄ったりだ。彼らは君の先駆者[パイオニア]なのだ。君たちはコロンを海外に送り出し、コロンは君たちを金持にした。もっとも君たちは彼らに予め警告していた。「あんまり血を流すと、お前らを否認せざるをえなくなるぞ」。これと同様に、国家はどんな国家であれ-外国に煽動者・挑発者・スパイどもをかかえており、その連中がつかまると彼らを否認してしまう。かくも自由主義的で人間的な君たち、文化への愛を気取りにまで押し進めている君たちは、ご自分が植民地を持っており、そこでは君たちの名で虐殺の行なわれていることを忘れた振りをしている。ところがファノンはその同志たちに——なかんずく少々西欧化されすぎている連中に——《本国人》と植民地にいるその手先の連帯を暴いて見せる。*1
ここで言う「コロン」とは、アブグレイブにおける「例外的」米兵であり、日本軍国主義にとっての「無法者」や「民間業者」であり、学校における暴力教師のようなものだろう。我々は、こういった者を解き放ちながら、「永遠の嘘をついてくれ」と彼らに暗黙のうちに告げる。そして彼らを野放しにしておいて、「事件」が起こると彼らとの関わりを否認するのだ。
そもそも慰安婦に対する強制はなかったのだと言って、「無法者」の存在自体を否認するかもしれない。慰安所は存在したが軍は関与していなかったと言って「無法者」との関わりを否認するかもしれない。軍が関与したケースもあったが、関係者は処罰したと言って「トカゲの尻尾きり」をするかもしれない。残虐行為は確かに存在したが、戦争は国家が起こしたのであって一般の国民はむしろ「被害者」だと言って否認するかもしれない。
しかしサルトルが告発するのは、「かくも自由主義的で人間的な」我々と「コロン」たちとの「連帯」である(こうことを現代のサヨクが迂闊に口にすると、「それは内ゲバにつながる論理だ」という内ゲバに遭うことがありますのでご注意ください。せいぜい、「構造的暴力」だとか「権力は下からやってくる」だとかなんとか言ってお茶を濁しておくのが身のためでしょう。サルトルがサヨクからさえも見捨てられてしまったのも、 「先入観」というよりは、そういう自主規制コードと関係がある気がします。逆に暴力肯定・反資本主義・反民主主義・反アイデンティティ政治・反寛容主義のジジェクが極左からリベラルな優等生、果ては大企業にまで幅広く愛されるのは、コード違反をネタにする芸風が板についてるからでしょう)。
学校はどんな学校であれ、体罰教師を抱えており、細井敏彦を必要としている。かくも自由主義的で人間的な我々は、この社会には学校があり、長田塾があり、戸塚ヨットスクールがあり、そこでは我々の名において虐殺の行われていることを知っていながら、忘れたふりをしている。我々は、事件が起きるたびに、驚いたふりをして、憤ってみせる。何? 校門の門扉に挟まれて生徒が死んだって? 何? ひきこもりが監禁されてたって? それは犯罪じゃないか! 何、登校拒否児がコンテナに閉じ込められて真夏の熱で死んだって?(「風の子学園」事件) それは行きすぎだ! 何、戸塚宏がまた人を殺したって? 目的の正当性は認められるが、手段の相当性は認められない!(戸塚らに対する1992年の一審「実質無罪」判決) なんてことを言うんだ。あんなものは教育じゃない!(1997年の二審判決)
リベラルは、戸塚宏や長田百合子や細井敏彦を糾弾する。「無法者」の暴虐に驚愕する。しかし問題は、そのような否定は、体罰教師や「無法者」にとっては「織り込み済み」であり、むしろ彼らの存在意義でさえあるということだ。彼らは自分たちが「ダーティ」な仕事を担っているということは十分に自覚しているのだし、だからこそ彼らは英雄たりうるのだ。
(↓最後に『ミスティックリバー』のネタバレがあります。)
「情緒障害児」二人が懲罰のために貨物用コンテナに監禁されて熱射病で亡くなった「風の子学園事件」(1991年)*2 について、太田泉生はかつてこう書いた。
ここで殺された二人は、貨物用のコンテナに監禁されたのではなく、学園長のS氏によって監禁されたのではなく、狂った社会によって「風の子学園」という檻に監禁されたのであろう。俺達は「登校拒否症」という名の病をおった人間で、そんな人間は摂氏40度以上にもなる、檻の中で矯正されなければならない存在なのか。もちろん、実際に手を下したS氏は批判されなければならないし、彼が絶対に許されてはいけない行為をしたことは事実である。
しかし、このような「施設」の存在を容認し、歓迎さえもしてきたのは、この日本社会ではないか。
殺された二人だって教育委員会の紹介で[「学園」に]きたのだ。一旦、施設の存在を歓迎しておきながら、事件が起こった今、彼だけを批判できるのか。責任は日本の社会にあるのだ。*3
サルトルもまた言う。
今やヒューマニズムは素っ裸だ。おまけにちっとも美しくない。それは欺購のイデオロギー、まことに見事な強奪の正当化に他ならなかった。ヒューマニズムがふりまく愛情と気取りとが、われわれの侵略を保証していたのだ。非暴力主義者たちは、つやつやした顔色をしている。犠牲者でなければ死刑執行人でもないというのだ。とんでもない。かりに犠牲者ではないとしよう。その場合、君たちが人民投票で支持した政府、君たちの年若い兄弟が兵役に服している軍隊、それらがためらいもせず、また悔いもせずに《集団虐殺》[ジェノサイド]を企てた以上、君たちは疑いもなく死刑執行人なのだ。またもし逆に犠牲者となることを選び、あえて一日か二日の禁鋼をくらう危険を冒したにしても、それはただ窮地をうまくきり抜けようとしているだけなのだ。そうは問屋がおろさない。きり抜けられはしないのである。要するに次のことを理解してくれたまえ。もし暴力が今夜初めて開始されたもので、かつて地上には搾取も圧制も存在しなかったというのならば、あるいは非暴力の看板をかかげて紛争を鎮めることができるかもしれない。ところがもし体制全体が、そして君たちの非暴力思想までが、一千年にわたる圧制によって規定されているならば、受身の態度は君らを圧迫者の側につけるだけなのである。
我々は、オモテでは平和主義を唱えながら、ウラでは「無法者」たちが「ダーティワーク」を担ってくれていることを知っている。日本国憲法を、ダチョウ倶楽部の口調で朗読している。*4僕はローソンのコロッケを愛し、ナイキの運動靴を買い、一日中パソコンをつけっぱなしにして2ちゃんねるを見たりこうやってブログを書いたりする。そしてコロッケに牛肉が入っていなかったことにビックリして、ナイキ工場での奴隷労働に涙し、ユニクロとかの場合はどうなのかな〜と思案し、原発の安全管理体制を糾弾する。我々は、新聞紙を丸めてゴキブリを叩き潰すような残虐なマネはしない。バルサンを焚いて外出し、虫も殺さない「つやつやした顔色」をして歩いている。それで帰宅時に薬臭が残っていると、ライオンにクレームの電話をかけたりするのだ。
(↓「つやつやした顔色」)
銀行があって、消費者金融があって、闇金がある。リベラルなエリート校があり、軍隊的な底辺校があり、フリースクールがあり、戸塚ヨットスクールがある。天皇がいて、臣民がいて、軍幹部がいて、「無法者」がいて、「民間業者」がある。人間には「本能」があり「理性」があり「欲望」があり「良心」がある。組織には「無法者」がおり管理部門があり「良心的」構成員がいる。御用学者がいて、左翼知識人がいて、ネット右翼がいて、僕はブログを書いてストレス発散している。「永遠の嘘」は、これらの「全体」が、バラバラの互いに独立した「部分」に分かれているかのように演出する。で、何かあると適当な「無法者」を「トカゲの尻尾きり」して、システムは全体として存続していく。
時には、「尻尾」どころか「頭」に「無法者」が居座っているのではないかと思えてくることもある。ブッシュはアブグレイブを「例外的事件」として切り捨てた。だが、「テロとの戦争」が長期化する中で、ブッシュ自身が「例外的」大統領となろうとしている。昨年9月のインタビューで、アメリカが世界各地に秘密収容所を設けてテロリストの疑いがある者を尋問することの重要性を、マット・ラウアー記者にブッシュは次のように力説してみせた。
(前略)
マット:あなたは「法の範囲内で」と言いました。ところがあなたは[国外に]CIAの秘密施設があることを認めています。
ブッシュ:だから何だって言うんだ? それがどうして法の範囲内ではないんだ?
マット:アムネスティ・インターナショナルは秘密施設は国際法に違反していると言っています。
ブッシュ:だったら、我々は彼らとは意見が違うと言うしかないな。それに、私の仕事はあなたがたを守ることだ。9.11の首謀者を捕まえたと私が言ったら、多くのアメリカ国民は、「奴らから拷問することなく情報を引き出せるかやってみたらどうだ」と言うだろう。そして我々はその通りのことをしたのだ。
マット:あなた自身は直々に……
ブッシュ:私の仕事はこの国を守ることなのだよ、マット。そして私はそうするつもりだ。法の範囲内でね。このことについては合衆国に住んではいない人々によってとやかく言われている。だが、思い出してくれ。(彼らにとって)9月11日はただの嫌な日だった。我々にとっては、姿勢を変えることになった日だったんだ。
マット:テロリスト容疑者から情報を引き出す際の「代替的方法」についてあなたは話しました。たとえばカリード・シェーク・モハメドに対して用いられたようなテクニックについて、あなたに直接報告がなされていたのですか? そして、あなたはそうした全てのテクニックを承認したのですか?
ブッシュ:私、私は部下に拷問することなく情報を入手するように指示したし、我々は拷問をしていないのだということは司法省から確認を得ている。
マット:カリード・シェーク・モハメドについては、いわゆる「ウォーターボーディング」を受けたという報道があります。
「ウォーターボーディング」とは、尋問テクニックの一種である。容疑者を身動きできないようにして、上から顔に水を流し続け、溺れているかのような状態をシミュレートする。*5
(↓「ウォーターボーディング」のイメージ)
ここで、ブッシュはお決まりの「無知への逃避」を決め込んでいるかのようだ。彼は「拷問することなく情報を入手するように」と指示したと、悪びれずに語っている。だが、しつこく食い下がる記者に対して、ブッシュの話は不気味に変化していく。
ブッシュ:私は人を相手に使うテクニックについては話すつもりはない。一つには、敵を順応させたくないからだ。アメリカ国民が知る必要があるのは、我々は、彼らを守るために、法の範囲内のテクニックを使っているということだ。君は言った。こう言ったじゃないか。アメリカ国民を守るためにしなければならない全てのことを我々がやっているのだということをどうしたら確信できるだろうかと。そして私は君にこう言ってるんだ。我々はアルカイダがこの国にかけてくる電話を聴いているが、その業務をやめさせたいと考える人もいる。我々は、刑事捜査官と情報部員が協議することを妨げる「壁」となっている法律を廃止した。最後まで言わせてくれ。アメリカ国民を守る前線にある者たちによれば、最良の情報源の一つは、戦場で捕らえた者たちなんだ。法の範囲内で彼らを尋問して、情報を得るのが一番なんだ……。
マット:けれども、私はこの「法の範囲内で」という問題を見過ごしたくないのです。というのは、実際にカリード・シェーク・モハメドに対してウォーターボーディングが用いられたのだとしたら——視聴者のために説明すると、ウォーターボーディングというのは人を板に縛り付けて、溺死するかのように思わせることです。水を浴びせるのです——それが合法的で「法の範囲内」であったのならば、なぜグアンタナモで同じことをすることができないのですか。なぜ世界各地の秘密施設で行わなければならないのですか?
ブッシュ:私はテクニックの話はしない。敵に対して我々がやっていることを説明するつもりはない。私が言っているのはこれだけだ。君は我々がアメリカ国民を守るために動いているかどうかと尋ねるが、国民には我々はそうしていると知ってもらいたいということだよ。
マット:大統領、このテクニック、この代替テクニックは、いずれかは……。
ブッシュ:私は[それについては]話すつもりはない……。
マット:具体的にお尋ねすることはしません。
ブッシュ:いいだろう。
「具体的にお尋ねすることはしません」と言いながら、記者は質問を続ける。ちなみにこれは、マイケル・ムーアのようなサヨクによるアポ無し突撃取材ではなくて、NBCというアメリカの三大ネットワークの一社によるインタビューである。
マット:しかしもしウォーターボーディングが用いられているのだとしたら、たとえ成果を得ることができても、いずれかは我々と我々が戦っている相手とを分かつ境界線が曖昧なものになってしまうということについて、少しもご懸念はないのですか?
ブッシュ:マット、私はこう言っているだけだよ。この政府[=アメリカ]がやってきたことは、君や君の家族を守るために対策をとるということだよ。君は家族のことを私に尋ねた——君は他にもたくさんの人を代表している。そして、最良の情報は戦場で捕らえた者たちから引き出したものなんだ。だから、陰謀が実行される前に阻止するために、我々はその情報に基づいて行動するんだ。そして、我々がやってきたことはどんなことであれ、合法的なのだよ。私の言っている「法の範囲内で」というのはそういうことだ。弁護士たちが検討して、「大統領、これは適法です」と言ったんだ。私が言えるのはそれだけだ。私は、何がなされているのかを具体的に君に教えるつもりはない。なぜならば、敵を順応させたくないからだ。これはね、我々は、戦争中なんだ。これは、君や君の家族を殺しに来ようとしている者たちがいるということだよ。あなたがたを守る最良の方法は情報を得ることだ。だから、アメリカ国民は我々がなぜそうしたのかを理解しているということに私は自信を持っている。わかるかい、我々は、彼らから得た情報に基づいて行動して、攻撃を防いだのだ。そしてこの攻撃はリアルなものだ。これは空想じゃない。再びアメリカ国民を傷つけようとする攻撃が計画されていたんだ。
(同じ動画の予備リンク)
http://www.youtube.com/watch?v=rG5FgWmtreA
http://www.youtube.com/watch?v=6-sHxr-995o
http://www.youtube.com/watch?v=a1w34Z7vEzQ
このブッシュは、アブグレイブ事件に対する責任から「無知」に逃避したブッシュとは、少し様子が違う。彼は、「テクニックについて話すつもりはない」と言いながら、ウォーターボーディングの使用を否定しない。彼は、アメリカ国民を守るために必要なことをやっているのだということを繰り返し強調する。彼は脅威に対処するためなら「法の範囲内」で何でもやってみせる。逆に言えば、彼が何をやろうともそれは「法の範囲内」なのだ。
ブッシュは、尋問テクニックを明らかにしない理由として、敵が順応してしまうのではないかという懸念を挙げている。だが、彼が守ろうとしているのは、アメリカ国民の「無知」である。このインタビューで、ブッシュは国民に対して二重のメッセージを送っている。まず、テロの脅威と戦うために必要なあらゆることを実行しているということ。そしてしかし同時に、あなたがたはそれを知る必要はないのだということ。必要なことは私が泥をかぶって引き受けるので、皆さんは安心して目をつむっていてくれ——これがブッシュがこの意味不明瞭なインタビューで語ろうとしていることであり、そしておそらくそれはちゃんと相手に伝わっているのだ。
ブッシュは、最前線の情報部員や兵士との関係では、「永遠の嘘」によって保護された「無知」の位置にいる。そして彼はアブグレイブの実行犯の一部を「トカゲの尻尾きり」した。だがその彼も、アメリカ一般国民との関係では、彼らを「無知」によって責任から保護するために「ダーティワーク」に手を染める「無法者」となっている。しかしアメリカというトカゲにとって、ブッシュという「頭」が重荷になりつつあるようだ。「つやつやした顔」が汚れてしまっている。
「俺はあいつに投票しなかったが、奴は俺の大統領だし、いい仕事をしてくれるといいと思ってるぜ」(ジョン・ウェイン)というのが、アメリカの平時の民主主義の精神である。だがそろそろ、リベラルたちの寛容も限界に近づいている。彼らは、ブッシュやラムズフェルドを「裏切り者」と呼び始めた。リベラルなニュースショーのホストの中には、公然とブッシュの辞任や弾劾を求める者もある。*6今や大統領に反逆することこそが、合衆国憲法に対する忠誠である。だが、国家元首を弾劾するとはどういうことだろうか?
議会制民主主義とは、尻尾だけではなく、頭を切り落としても歩き続けるトカゲだ。そして投票行動とは、各人が「一票」になることで集団的に「全体」への責任から逃走するための儀式である。*7だからリベラルなアメリカ人は、民主主義の創設の影には奴隷制度があったことも、ベトナム戦争が正義の戦争でなかったことも、自由の名の下に拷問が行われていることも、全て躊躇なく直視しつつ、同時に自由民主主義を信仰し続けることができる。いくらでも首をすげ替えることができるからだ。ブッシュは弾劾されないとしても、汚点として歴史に名を残すことだろう。そして彼は、汚点となることを厭わないからこそアメリカの英雄なのである。彼は、ひ弱なリベラルにはなしえないことをやってまで、自由民主主義体制を防衛しているのだ——自由や民主主義を蹂躙してまで。
これに対して我々の「美しい国」では、戦後何十年経っても天皇という「頭」をありがたく頂戴していて、民主主義が未成熟だ。そう簡単に「頭」をすげ替えるわけにはいかない。っていうか、一体どこの誰が「頭」をやっているのか、雲の上にあるのでよくわからない。そのかわり、「ホンネ」どころか「タテマエ」としても歴史修正主義が横行している。おかげで我々は、首のスペアが無限にあるトカゲにはなれないにしても、カメレオン並みのサバイバルスキルは持っているのかもしれない。
しかしいざとなったら、戦争犯罪を全部まるごと認めちゃうことも可能だろう。実際、「河野談話」*8を出す前に宮沢内閣はPKO協力法を成立させて自衛隊をカンボジアに派兵していたのだし、保守系の細川護煕が首相就任直後に「[先の戦争は]侵略戦争であった」と発言した時にサヨクは一瞬リアクションに困ったものである。その後すぐに「侵略戦争」が「侵略行為」にトーンダウンしたことにとりあえずツッコむしかなかった。*9その後も、90年代以降の内閣は「侵略」という言葉で反省するのが慣例となってるけれど*10、反省しながら自衛隊はどんどん海外に出すわ、「軍靴の足音が聞こえる」ようなヤバイ法案を次々に成立させるわ、ここ十数年というもの、我々はひたすら軍国化を推進してきたのである(宮沢喜一の追悼記事に「護憲派」とか「ハト派」とかいうフレーズが並んでいたのは、安倍ちゃんやイシハラがあまりにもアレであるために生じる認知的ゆがみの症状です)。いくら「反省」しようとも、同時に戦争を準備し続けるのであれば、それもまた「尻尾きり」の一種だろう。*11
我々は、体罰に憤ったり、虐殺や拷問を非難したり、慰安婦制度を告発することに満足してはならない。そういったことが「ダーティ」であることは、「無法者」にとっても既に前提なのだ。そうではなくて、問われるべきなのは、「より良い学校」という幻想であり、自由民主主義体制であり、平和主義であり、ヒューマニズムであり、非暴力主義である。「永遠の嘘」によって維持される暴力と平和主義の分業体制である。バラバラに分割された「部分」ではなく、「部分」が関係し合う「全体」である。人はあらかじめ割り振られた「役割」についてではなく、「全体」について責任を負っている。*12
だから、「無知な大衆が情報操作されて石原慎太郎に投票している」というような社会批判は馬鹿げている。そんなふうに言うことは、「大衆」を「被害者」にしてしまう。だが彼らは、「永遠の嘘」の茶番において「無知」という役割を演じているのであり、これは高度な知性とリテラシーを深いレベルで持っていなければできないことだ。
岸政彦さんは、「宥める左翼」という記事で、右翼やスピリチュアルカウンセラーらを批判した上で、こう書いている。
俺の狭い経験だけで言うのだが、スピリチュアルや似非心理学やネット右翼に簡単に騙される人々は、概して自己評価が低いだけの、真面目な連中だ。
いわゆる左翼とやらの肩を持つ気もないし、そこらの既成政党や労組みたいな大組織には正直ウンザリしている俺だが、カウンターパートしての「批判的な人々」に何かまだできることがあるとすれば、いま必要なのは人々の前衛に立って無知蒙昧な大衆を指導し闘い続ける戦闘集団でもなく、声高に社会の腐敗や矛盾を糾弾する妥協なきインテリでもない。
いまお前らが食ってるものはこの世界で手に入るもっとも安くて良質のものなんだ、いまお前らが住んでいるのは歴史上まれにみるほど安全で安心できる社会なんだ、急激に増加するニューカマーの外国人やコンビニの駐車場でたむろする若者をむやみに恐がるのはよくないんだ、女性にとって働きやすい社会を作ることは家族の崩壊とは何の関係もないんだ……。
必要なのは「闘う左翼」ではなく、冷静で科学的で客観的な態度で淡々とデータを提示して、根拠のない神経症的な不安と恐怖を取り去る、「宥める左翼」だ。
この文章自体が強烈な「スピリチュアル」臭を発しているように僕には感じられるんだけど、それはともかくとして、「宥める左翼」の問題は、それが右翼やスピリチュアルに「騙される」かわいそうな「被害者」にしか通用しないということだ。「宥める左翼」は、ネット右翼を見て憐れむ。ああ、やつらはこんな低レベルの嘘にも引っかかってしまうのだな。どれ、私が冷静に「科学的で客観的な態度で淡々とデータ」を授けてあげよう……(コロッと「騙される」ような人が「データ」なるものを与えられて理解できるというのもスゴイ強引だけど、もちろん、岸さんの意図はこのような傲慢な左翼を皮肉ることにあるのであって、この文章は一種のキャラクター芸(友近とかがやってるやつ)として鑑賞されるべきだと僕は思う*13)。
だが、ネット右翼や「水からの伝言」の信者にいくら「データ」を示しても、恋する乙女の前でバレンタインデーの構築主義的研究を発表するようなものである。恋する乙女は、バレンタインデーがなかったとしたら「バレンタインデー」を発明することだろう。それが「サラダ記念日」だ。同様に、青少年が凶悪化していないことを示すデータを「宥める左翼」が宣伝してもムダである。もし仮に青少年一般への偏見が解消されたとしても、「良い青少年」「悪い青少年」という線引きが行われるか、もしくは新たな「青少年」が創造されるだけだ。
歴史修正主義者たちが『ワシントンポスト』に出した慰安婦制度への国家的関与を否定する意見広告も、そのようなレベルにおいて理解すべきだ。問題は、彼らの羅列する「事実」が嘘八百であるということだけではない。広告の署名者が自覚しているかどうかはともかくとして、彼らの「事実」は、まさに嘘であることにこそ意義がある。歴史修正主義者は、「永遠の嘘」の歌をリクエストに応えて歌っているのだ。彼らも彼らの支持者も、決して無知なわけでも、合理的思考ができないわけでもない。政治家が「失言」をして弁解する時の常套句は「真意が伝わらなかった」というものである。この言葉を借りて言えば、「事実」が嘘であることにこそ、彼らの真意がある。そしてたぶん、その真意は十分に伝わっている。だから彼らは「国辱」でもなんでもない。彼らは、同一の意見広告内でさえメチャクチャな論理破綻を犯して世界に恥をさらすことも厭わない、紛れもない「美しい国」の英雄である。
「騙される者」の「永遠の嘘」への積極的関与を描いているのが、『ミスティック・リバー』だ。[ネタバレ→]ジミー(ショーン・ペン)は、殺された長女・ケイティの復讐に燃えている。一方、ジミーの幼馴染であるデイヴ(ティム・ロビンス)の妻セレステは、ある偶然から夫が犯人ではないかと疑い、不安に襲われてジミーにそのことを話してしまう。映画の終盤において、ジミーは潔白を主張するデイヴを惨殺する。その翌朝、彼は真犯人が逮捕されたことを知らされる——娘を殺したのはデイヴではなかったのだ。以下は、そのジミーが妻のアナベスに罪を告白するシーンである。つい「やりきれない事実」を語ってしまったジミーを、アナベスは「シー」と言って宥め、制止する。そして歌いだす——「永遠の嘘をついてくれ」と。
ジミー:……俺は[無実の男を]殺してしまった。それが俺のやったことだ。そしてもう取り返しがつかないんだ。
アナベス:シーッ[黙って]。ジミー。シーッ。あなたのハート(心臓)[の鼓動]を感じさせて。ゆうべ、娘たち[=次女と三女]を寝かしつけながら、あなたのハートがどんなに大きいか話してあげたのよ。あなたがケイティをどれだけ愛していたかということを話したの。
ジミー:アナベス。
アナベス:あなたが彼女をつくったのだから。あなたの彼女への愛は本当に大きくて、あなたのハートが爆発するんじゃないかと思えることもあったって。
ジミー:やめてくれ。
アナベス:ダディ[=ジミー]はあなたたちのこともそれくらい愛しているのよって話したわ。ダディには四つのハートがあって、それはどれも愛に満ち、疼いているから、私たちは心配することはないのよって。そして、ダディは愛する者のためなら、やらなければならないことはどんなことでもしてくれるのよって。それで、それは決して間違っていないし、ダディがどんなことをしなくてはならないとしても、それは間違ったことではありえないのよって。そうして、あの子たちは安らかに眠りについたわ。
ジミー:「ゆうべ」だって? [昨晩ジミーがデイヴを殺害しようとしていたことを]知っていたのか?
アナベス:セレステが電話してきたの。あなたを探して。何かが起こるかもしれないって心配していたわ。セレステは、デイヴのことや、彼女があなたに言ったこと[デイヴがケイティ殺害に関係があるかもしれないということ]を話したわ。いったい、自分の夫についてあんなことを言うなんて、なんて女なの? それに彼女はなんであなたのところに垂れ込んだりしたのかしら。
ジミー:なんで[俺に]電話しなかったんだ?
アナベス:娘たちに言い聞かせた通りだからよ。ダディは王なの。王はすべきことを知っていて、実際にそれを実行するの。困難なことでもね。そしてダディは愛する者のためならやらなければならないことは何だってやるのよ。そして大切なのはそのことだけ。なぜかって言うと、みんな弱い者ばかりだからよ、ジミー。私たちの他はみんなね。私たちは決して弱くはならないわ。そして、あなた、あなたはこの街を支配できるわ。
まるでブッシュ大統領が女装してアナベスを演じているような錯覚を覚えるが、もちろん映画の公開の方が先である。アナベスは、ジミーによって庇護される対象である。平時において彼女は、「永遠の嘘」の中で「無知」の役割を与えられている。だが、自分がやってしまったことの重さに耐えかねて「永遠の嘘」を放棄しようとするジミーを前にして、彼女は「無知」を娘たちに転移させることによってほころびを取り繕う。我々は、『メメント』の主人公のような便利な「コンディション」を持っていないかもしれない。だが、自ら「無知」でいることができなくなっても、こうして「無知」を他の誰かにアウトソーシングすることで「永遠の嘘」の危機を乗り切ることができる。*14
彼女が歌い終わると、二人はまぐわう。このまぐわいにこそ、「永遠の嘘」の真実がある。歴史修正主義者がケロッと妄言を吐き、大衆がコロッと「騙される」時、深いレベルにおいてこの会話とまぐわいが行われているのだ。コミュニケーションがこのようなレベルで成立していることを見ないで、「簡単に騙される人々」を憐れんでいるオメデタイ「宥める左翼」にこそ、リテラシー教育が必要である。
では、何が「永遠の嘘」の真実を撃つことができるだろうか?
我々が「無法者」や「ダーティワーク」を手放せないのは、恫喝に怯えているからだ。拷問や礼状なき逮捕・拘留という手段も用いなければ、我々の自由は防衛できない。民族の独立を守るためには、あるいは経済の閉塞を打破するためには、侵略戦争が避けられない。慰安所がなければレイプが横行する。体罰教師がいないと、学校は成立しない。暴力も用いないと、本当に重症の登校拒否児やひきこもりは矯正できない。学校に行かないと、将来がない。働かないと、生きていくことができない。原発がないと、ブログもできない。強制収容所がないと、裏切り者が革命を台無しにしてしまう。核武装しないと、テポドンに対抗できない。「良心的」保守の下に全ての民主主義者が結集しなければ、ファシストが当選してしまう。
要するにこうした恫喝は、「ウンコ味のカレー」と「カレー味のウンコ」というよりは、「ウンコ味のカレー」と「ウンコ味のウンコ」の選択を迫っている。これは最初から答の決まっている選択だ。誰が「ウンコ味のウンコ」を求めるだろうか? それに比べたら、何だって「よりマシ」である。合理的に考えれば、選ぶべきものは決まっているじゃないか。
だが人間は自由である。何でも選ぶことができるし、何もまだ決まってはいない。決まっていること、決めたことについてだって、常に決めなおさなければならない。本当に決まっていて変えられないのは、ただ人間が自由であるということだけである。サルトルはそれが「モノ」と人間の違いだと言っている。だから人間の歴史は、「ウンコ味のウンコ」を食らう歴史である。今日もどこかで、誰かが「ウンコ味のウンコを持って来い!」と叫んでいる。その瞬間にだけ、「永遠の嘘」を撃つことができる。けどこれは別のトピックなので、また今度考えることにしよう。
(前編はこちら↓です。)
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070726/1185459828
*1:ページ数不明。
*2:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E3%81%AE%E5%AD%90%E5%AD%A6%E5%9C%92%E8%99%90%E5%BE%85%E6%AD%BB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
*3:太田泉生, 「「風の子」事件に絡んで」, 石川憲彦ほか編, 『子どもたちが語る登校拒否』, 1993, pp. 461-462.
*4:ダグラス・ラミスも指摘しているように、安保体制には守ってもらいたい、「九条」は世界遺産にしたい、なんていう人まで「護憲派」を名乗ってたりするから紛らわしくて困ったことだ。 http://www.magazine9.jp/interv/lummis/lummis1.php
*5:http://en.wikipedia.org/wiki/Waterboarding
*6:たとえば→ http://www.youtube.com/watch?v=NN-eGOtBGbg http://www.youtube.com/watch?v=IRzLJxaOBRU
*7:参考→ http://www.geocities.jp/sartla/ronbun/gohosei.html
*8:http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html
*9:もちろんそのツッコミはすごく重要である。
*10:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E7%99%BA%E8%A8%80%E4%B8%80%E8%A6%A7
*11:こういうふうに書くとなんかこのエントリー自体が「ヤカンの小咄」みたいに見えてしまうかもしれないが、責任からの逃走は色んな形態を取りうるということが言いたいのです。
*12:言うまでもなく、これはいわゆる「一億総懺悔」というのとは違う。僕はここで、たとえばハラナタカマサさんの「戦争犯罪のグラデーションの両端が同質だと断罪されるのは、まずい」という指摘を否定しようとしているのではない。http://tactac.blog.drecom.jp/archive/1871 これについてもまた別の機会に考えたい。
*13:岸さん自身ちゃんと後で 「ネタですから」と書いている。
*14:この映画については、アメリカの独善性を肯定しているのではないかという批判が一部にあった。これについて、殺されたデイヴを演じたティム・ロビンスはDVDの特典コメントでこう反論している。「ロビンス:これ[=アナベスの話]は歪んだ論理だね。だけど、これに関して本当に奇妙なのは、この映画は何を言おうとしてるんだ、と言う人たちがいることだ。ほら、[ジミー]は罰を免れるっていうような見方だよ。で、思うに、そういう人たちは、同時にこうも言うんだ。……「[アナベス]はまるでマクベス夫人みたいだ。そして彼らは罰を免れるんだ」って。だけどさ、[『マクベス』]では、彼らはみじめだったじゃないか。劇の中では、マクベスとマクベス夫人は、破滅を運命付けられていただろ。彼らが自分たちの状況を受け入れたせいで。で、こういう[『ミスティック・リバー』と『マクベス』の]連想をしておいて、[ジミーとアナベス]は罰を免れるだとかっていうのは、馬鹿げたことだよ。だって、彼らが本当にマクベスに喩えられるんだとたら、……暴力はずっとずっとずっとずっと続いていって、[ジミーの]家族や彼が愛する人々のもとに戻ってくることになるじゃないか。っていうのは、彼はすっかり復讐心に満たされたギャングの世界に復帰しようとしているわけで、それは実のところ、悲劇を構成しているんだよ。もし彼が実際に罰を免れるとしたら、彼にとってはたぶんいっそう悲惨だろう。終わりがないことになるから。暴力が終わらないだろう。このシーンを見て、「……この映画は彼がやったことには問題がないと言ってるんだ」と思う人がいたのは本当に不思議だし、俺はこの映画からそんなメッセージは決して受け取らなかった。//ケビン・ベーコン:うん、俺もそんなふうには思わなかった。//ロビンス:[むしろ]俺は[ジミーとアナベス]はここで窮地に陥っているんだと思う。このささやかなまぐわいは、たくさんの苦しみにつながっていくだろうよ」。