(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

「対案についての思考」を禁止します



 腹減ったなー。よし、一杯やるか。お! 白木屋があるじゃん。ここに入ろうぜ。と、誘ってるのに、「白木屋はイヤだ。白木屋以外がいい」という返事が返ってきたら、ムカつきますよね? 白木屋がダメなんだったら、じゃあどこがいいっていうんだ。他にもっといいところがあるのか。具体的な対案もないのに「白木屋以外がいい」って何事? 10秒以内に別のより良い候補を挙げなかったら白木屋に入っちゃうよ! と言いたくなります。

 これに対して、「「対案を出せ」論法について」の前半でmojimojiさんが書かれているのはこういうことです。もちろんどの店にも入らないというわけにはいかない。けど、もし「白木屋はイヤだ」という批判を真摯に受け止めるのであれば、白木屋よりもマシな店を見つけるということは、白木屋を提案した側、白木屋に異議を唱える側、双方にとっての課題となるはずだ。なのに、対案を見つけるという責任が白木屋に異議を唱える側にだけあるかのように、対案がないというだけで白木屋がイヤだという意見を否定しようとするのはゴマカシである……。

 しかし、mojimojiさんの批判は、ここに留まりません。返す刀で「「ラディカルな」人たち」をも斬って、喧嘩両成敗の裁きをくだします。mojimojiさんいわく、


 実は、ここに[保守主義者と「ラディカルな」人たちの]奇妙な相似形があるのだ。「対案を出せ」論法が批判そのものを封じ込める恫喝として作用するのに対して、批判が「対案についての思考」を停止させるような形で作用することがあるのだ。つまり、「対案を出せ」論法は、その拒否を通じて、その目論見を達成している。これでは、完全に罠に嵌ってしまっている。だから、ここでもう一度、考えなければならない。「対案を出せ」論法を拒否するとして(するべきだ)、しかし、対案のあるなしに関係なく、私たちは生きてゆかねばならない、ということについて考えなければならない。──先に述べたことからすれば(つまり、「対案を出せ」論法の問題は、「対案」要求にではなく、それを「誰に」要求するか、という点にあるのだとすれば)、私たちは「対案を出せ」論法に抗しつつ、対案を構想する権利(そう、これは権利だ)を手放さない、という行き方になるはずである。

つまり、白木屋に異議を唱える者も、ただイヤだイヤだと駄々をこねているばかりでは、対案がないならだまって白木屋について来いと恫喝する者と同じ穴のムジナなのです。ただ拒絶するだけでは、よりよい店を見つけるという課題を放棄していることになってしまいます。しかし、mojimojiさんは対案は絶対になくてはならないものだと信じています。なぜならば、「ある瞬間を空白にしておくことはできない」からです。

 しかし僕が言っているのは、まさに「対案についての思考」を停止せよ、ということです。

 これまで、教育をめぐって、様々な「対案」たちが争ってきました。白木屋よりも隣に和民があるよ。和民のクーポン券持ってるし。いや、和民も白木屋も似たようなもんだよ。男なら養老の滝だろ。電車で移動してでも行きたいよ。は? 何それ。そこのデニーズでマッタリするのが一番だよ。

 イリイチの『脱学校の社会 (現代社会科学叢書)』は、これに対して、いや、居酒屋なんか行かなくたって、その辺のコンビニでビールと魚肉ソーセージ買って多摩川で飲もうよ。夕日も見れるしさ。くらいのことは提案しました。

 だけれども、本を書きながらイリイチも薄々感じていたのは、それって、飲み食いをしているという点では、居酒屋に入るのと同じじゃんかということです。


私は教育をより良くするために学校を脱制度化することを求めた。そして、そこにこそ自分の過ちがあったのだと私は気づいた。教育を任意の余暇活動の恵み*1ではなく差し迫った必要にしてしまう傾向をひっくり返すことの方が、学校の脱制度化よりもずっと大切であるということに私は気づき始めた。私は、教育教会[=学校]を脱制度化することが、腐敗した、全てを包み込むような教育の様々な形態が熱狂的に復興することにつながって、世界を全体的な教室、グローバルな校舎にしてしまうのではないかと恐れるようになった。より重要な問いは次のようなものになった。「なぜかくも多くの人々が――学校制度の熱心な批判者までもが――ドラッグに対するように教育に中毒になってしまうのだろうか」。

……主には友であり同僚であるボルフガング・サックスを通して、教育機能は既に学校から離脱しつつあり、次第に、別の形態の強制的な学習が現代社会に打ち立てられつつあるということに私は気づくようになった。それは法律によってではなく、人々にテレビからなにごとかを学んでいるかのように信じ込ませたり、現職研修に参加させたり、より良いセックスをする方法や、感受性を高める方法や、自分が必要としているビタミンについてよりよく知る方法や、ゲームをする方法などについて教わるために巨額のお金を支払わせたりといった別のトリックによって強制的なものとなるだろうと思えた。このような「生涯学習」や「学習ニーズ」についての語りは、学校だけでなく社会をも、教育の悪臭で完全に汚染してしまった。*2


Deschooling Our Lives

Deschooling Our Lives

つまり、イリイチはまず学校の支配を解体しようとしたわけです。*3ところが、学校から教育機能が溶け出し、社会全体を覆うようになってしまうというのもまた、不気味な光景でした。だからイリイチは、「教育における代案」ではなく、「教育に対する代案」を目指すようになりました。そして、教育が必要だという信仰についての歴史研究を行っていきます。

 実を言うと、僕はその歴史研究についてはまともには読んでませんし、読んでもその妥当性を判断する能力はたぶんないでしょう。ただ、僕がイリイチを引きつつmojimojiさんに言おうとしていた*4のは、メシなんか食いたくないし、ビールもイヤだ、ということです。白木屋も和民も京都吉兆もみんな同じだ。多摩川に行って缶ビールを飲むのだって一緒だ。これらの間に引かれた線はニセの線だ。ありとあらゆる代案を拒否する。未だ存在していない、「来るべき飲み食い」という代案も含めて。

 つまり、僕は「対案についての思考」を一まとめにして否定しているのです。現に存在する対案だけでなく、将来ありうるかもしれない可能性も含めて、全部ダメだと言っているのです。

 ですから、mojimojiさんは僕への批判として僕が対案の構想を放棄していると指摘しているわけですが、これは僕にとっては賞賛でしかありえません。もし僕の主張に1グラムでも教育を良くするためのヒントのようなものが混じっていたら、僕は厳しい自己批判を迫られることでしょう。

 食いたくない、飲みたくない、と言う人に対して、「白木屋がイヤだからといって、対案をあきらめてはいけない。一緒にもっといい店がないか考えよう」などというリアクションがありうるでしょうか? それは、「白木屋」という現状の選択肢以外の可能性に開かれているようでいて、飲み食いするという前提を固定しようとするものです。飲み食いするという提案に対して飲み食いしないという対案を出してるのに、「じゃあお前がもっといい店を提案しろよ」と恫喝しようが、「白木屋よりもよい店の可能性について皆の問題として考えていこうぜ」と肩を組んでこようが、ウザイものはウザイのです。もし、食いたくない、という人をどこかの食い物屋に連れて行きたいのだったら、飲んだり食ったりすることがすばらしいことであるか、必要なことであるということが示されなければなりません。

 mojimojiさんは「すばらしい」とは言わないけれど、必要であるという立場です。mojimojiさんは、学校(的なもの)は絶対に必要なもので、永遠になくなることはないという信仰を持っています。これに対して、僕はそういう信仰を持っていない。あるいは、全く別系統の信仰をもっているわけです。

 mojimojiさんいわく、


 そこで、常野さんや貴戸さんはここにどんな(異なる)答えを与えるのか、ということを問うているわけだ。学校廃棄論において、僕が述べたこと[=人間の徹底的な受動性]に対応する(形而上学的)前提としてどんなものが与えられているのか、ということを聞いているわけだ。「ない」なら「ない」でいいと思うけれど、いずれにせよ、この問いに答えない限り「学校廃絶」を「究極の理想」として設定することは、まさしく「空理空論」でしかない。──誤解のないように言えば、「教育を廃絶する」という発想がラディカルだから「空理空論」なわけではない。そこに理がない、そこに論がないから「空理空論」なのだ。ラディカルであることと「空理空論」であることは別のことなのだから。

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070921/p1

(僕が言うことじゃないのかもしれないですが、なぜ貴戸理恵さんまでもが「空理空論」の「学校廃棄論」者に分類されてるのか謎です。貴戸さんのこれまでの本にそれっぽいことって出てたでしょうか? 『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』には最後の方にむしろ妙に具体的な対案がわんさか示されてたような気がしますが……。)

 ここで、mojimojiさんは自らが提示した前提に対応する前提が学校を破壊すべきであるという立場にあるのかと問うています。ここで、人間は生まれたときから能動的に選択する能力を持っている、といったような主張を出せば話がかみ合うのかもしれません。「学習ニーズ」についてのイリイチの歴史研究は、ある程度そういうことを言うのに役立つかもしれません。けれどもその前に、mojimojiさんの主張の前提に対応する前提が学校廃棄論には「ない」っていうのは、なんだか日本語に「主語」が「ある」とか「ない」とかという話に似ています。異なる体系は異なる前提をもっています。それだけではなくて、そもそも何について前提を設定するかということも違うのです。だから、前提が「ある」か「ない」かということも、何らかの特定の体系に依拠しながらでないと、判断することはできません。

 僕は、学校的なものが人間にとって必要であるかどうかということについての判断を前提にはしません。そうではなくて、学校をなくすべきであるということが僕の出発点なのです。だから、学校が必要かどうかということは、ささいな問題です。必要ないならそのままなくせばいいし、必要だということになればその必要性をなくせばいい。このような出発点の設定には、ただ僕がそれを選んだという以外には、何の根拠もありません。

 だからあなたも、今この瞬間に、反学校主義者になることができます。そうすることを選びさえすれば。そのうち、学校(的なもの)をなくすためのプランやら代案やらが山のように出てくることでしょう。そしたら、こっちの代案の方がいいとか、あっちの代案の方が実現性が高いとか、誰それの代案はメチャクチャだけどなんか笑えるとか、百家争鳴になるでしょう。そうなってくると、「より良い学校」を模索している人に対して、「あなたは学校にこだわるばかりで、学校をなくすための対案は出していないじゃないか!」などという見当はずれの恫喝も行われることになるかもしれません。あるいは、心温かい人ならば、「まあまあまあまあまあ、学校をなくすための代案を考えることは私たち全員の課題じゃないか。考えていこうよ、一緒にね」と言って、キモがられることになるかもしれません。


*1:原文は"a gift of gratuitous leisure"。ちょっとヘンな訳かもしれないです。

*2:Ivan Illich, "Foreword," in Matt Hern ed., Deschooling Our Lives, 1996, p. viii.

*3:っていうのは○○中学校とか××大学を焼き討ちにするってことではなくて、学校に公的資金を投入しないことや学校に課税すること、学校に行くことで蓄積される特権の剥奪といったようなことです。

*4http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070919/p1#c