(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について−−米粒が立ち上がった日



 3月に大阪と東京で行われた別の集会において、二人のテレビタレントがとっさのリアクションを迫られるハプニングがあった。

 大阪では、府の若手職員を集めた「朝礼」が行われた。橋下徹知事が自説を語り続けていると、大ホール後方の職員が立ち上がった。




彼女は府職員がサービス残業を強いられていることを指摘した上で、知事が民間労働者と公務員を分断しようとしていると糾弾した。

 これに対して橋下は「大人の態度」で対応することに成功した。彼女に対しては「それは非常にありがたい意見」と応じ、「朝礼」後のインタビューで次のように語った。


記者:初朝礼の感触はどうだったですか?


知事:いやあ、良かったんじゃないですか。ああやって意見も出たし。ええ、ちゃんとこう直接言えるような。まあ皆やっぱりまだ知事からこうしゃべられるからということで……。本当は意見交換したかったですけど時間がなかったんでね。徐々に徐々にちょっと意見交換していきたいなと思いますけどね。現場がああやって活気づかないとダメでしょ。


記者:かなり勇気を持って彼女[=職員]は発言したんじゃないですか?


知事:いやあそうだと思いますよ。立派だと思います。だからやっぱり現場でああやって議論して、上がくみ取って、どんどんトップに上げてくるってのはこれは良いことなので。これはちょっと彼女は粋に感じましたね[スマイル]。ええ。ああいう人が増えてくれば組織も変わってくるんじゃないですか。


橋下徹のこの「余裕」のリアクションは、一部サヨクまでも感心させた。日頃から左派的な意見を書いているid:Arisanさんをも「大したもんだ」と言わしめたほどだ。Arisanさんいわく、


 話は変わるが、先日橋下大阪府知事との対話で、知事に食ってかかった女性職員の態度は、まったく立派なものだったと思う。

 そして、その態度を「彼女は偉いと思う」と率直に認めた府知事も、やはり「見どころのある人」なのである。

 そういう勇気ある個人と個人との出会いと対決が、もっと社会のなかに露呈していくようでなければいけない。

 そして何より、自分の考えや思いを勇気を出して表明していく人たちの態度そのものへの尊敬と支持を、その発言内容への賛否や反応などに優先させるような、人として当たり前の態度を、われわれは謙虚に持つべきなのである。


http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080326/p1


 しかし問題は、橋下は若手職員の問題提起を完全にスルーしているということだ。彼女は橋下を正面から撃った。だが橋下は平然としている。そのことをリベラルは「ちょっといい話」として処理しようとしている。いったいこの空気は何なのだろうか?

 この問いについて考える前に、最近のもう一つの出来事を思い出しておこう。いわゆる「姜尚中トラメガ事件」である。

 日本のブルジョア団体である国際文化会館が、イタリアの共産主義者アントニオ・ネグリを招待していた。ネオリベ改革の進行で、人文系知識人は割を食っている。だがたまにはこういう「おいしい」事業もあって、サヨク大学人や出版業界を潤すことになっていた(って言うとなんか嫌みっぽいけど、僕もあわよくば甘い汁を吸いたいと思ってる一人なので悪く思わないでね。よろしくお願いします。まあ、「思想弾圧」とかいうレベルとは別にそういう事情もあるということです。ちなみにこれは「教科書問題」なんかも同じだよ。いわゆる「利権」です)。

 ところが事情によりネグリは来日できないことになった。このことに悲嘆にくれる知識人たちの姿は滑稽だ。しかし同時に彼らはラッキーだったのかもしれない。彼らは、「日本政府による思想弾圧」の被害者として自ら思考する責任から逃れる口実を得たからだ。これからは「もしネグリが来てたらスゴイ思想体験ができたのに〜」という思いと共に生きていくことができるだろう。

 ネグリの講演が予定されていた東京大学安田講堂では、主役なしでイベントが開催されることになった。「姜尚中トラメガ事件」は、その場で発生した。松平耕一さんによるレポートを読んでみよう。


事態が突如として緊迫したのは、石田英敬ネグリマルチチュードについて語り始めてのこと

早稲田大学の花咲[政之輔]さんと、そのお友達が、石田にアジを飛ばし始めたのだ


内容はよく分からなかったけれども、「駒場寮」という言葉が聞き取れた

駒場寮」は、東大に昔あった、有名な自治寮だ

関東圏では、東大駒場寮、早稲田学生会館、法政学生会館が、順次、前世紀末から今世紀初めにかけて、強制解体させられていっている

学生による自治区の解体

それは、「帝国」が自治空間を、生権力により蹂躙・変革し、環境管理をすすめていく過程であった

そこらへんの因縁がもとになって、石田が糾弾されたのだとわかった


その瞬間、もっとも迷いなく迅速に動いたのは姜尚中だった

君たちやめなさい

終わってからにしなさい

やめないなら出て行きなさい

大きな声で威圧しつつ、花咲さんたちに詰め寄っていった


それが、マルチチュ−ドについて語る態度ですか

ヤジを認めないのはおかしい

というヤジでもって反駁する花咲さんたち


姜尚中は、花咲さんの足元においていったトラメガを持ち上げ、地面に叩きつけた

トラメガと床が、ごっちんこする音が構内に響いた

暴力反対! という声があがった


そのとき、安田講堂マグニチュード1ぐらいで震えた

40年前は、マグニチュード7くらいはあったのでしょうか


マグニチュード

マルチチュード


http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html


上野千鶴子ネグリの暴力肯定に疑問を投げかけたあとだっただけに*1姜尚中のこの行動は際だっていた。

 かどうかは僕は見に行かなかったので定かではない。ただ、この事件について話題にしたブログ(↑以外)をいくつか読んで印象に残ったのは、この青年たちの状況に対する介入への揶揄(やゆ)や迷惑感情の発露である。サヨク的なイベントに来ておいて青年たちへの反感を表明している人々は、ネグリや壇上の知識人から何ごとか重要なことを注入してもらいたかったのだろうか? その権利を侵害されて憤慨しているのだろうか? このイベントの秩序を乱した青年たちへの聴衆の反感は、与えられるべきものを手に入れられなかった消費者のクレームを思わせる(皮肉なのは、当のネグリ自身の思想が、そのような態度を真っ向から批判するものであるということだ)。「古くさい運動家にうんざり」などと書いている人は、子どもの頃から慣れ親しんできた教室空間にはうんざりしないのだろうか? 

 さて、橋下府知事が「大人」の度量を見せたのに対して、姜尚中は暴力的な抑圧者として振る舞った。このどちらが悪質だろうか?

 両方だ。けれども、大阪ではかろうじて守られたものが、東京ではほころびを見せている。それは何か?

 ズバリ、「ニワトリの無知」です。ジジェクいわく、



[1:10以降]


私の夢なのですが、ここが[19]36-37年のモスクワの中央委員会で、そう、私がスターリンであるとしましょう。私が演説をします。そして皆さんの内の一人が立ち上がって、私を批判し、攻撃したとしましょう。誰にでもわかることですが、次の日には、その人を最後に見たのは誰かということが問われるでしょう[その人は粛正されるってこと]。いいですね。しかしさらに別の人が立ち上がり、私つまりスターリンを攻撃した最初の人物を攻撃して、こう言ったとしたらどうでしょう。「お前は気が狂っているのか? ソ連では同志スターリンを攻撃したりしないんだぞ。お前はなんでこんなことをしているんだ」と。私は、この第二の男が最初の男よりもさらに速く姿を消すだろうと思います。つまり、スターリンを批判することが禁止されていただけではない。この禁止を公に語ることはさらに強く禁止されていたのです。*2


 壇上の権力者に従うというのはモスクワでも大阪でも東京でも共通のルールである。けれども、よくできた支配空間においては、まるで誰もが平等に自由に発言できるかのような「外観」が保たれている。誰もがスターリンに賛成する。自由闊達な議論が保証されていて、「たまたま」スターリンと意見が一致するのだ。「空気」を読むというのはそういうことである。

 東京でも大阪でも、その「空気」を読まない者が突如として出現した。姜尚中はマジギレすることによって、暗黙の掟を明示してしまった。したがって東大のイベントでは姜尚中こそが最大の反逆者であり、秩序の破壊者である。暴力は露わになった。SF映画の前半では、UFOにいくらミサイルを撃ってもダメージを与えることができない。その「シールド」がはげ落ちたのだ。*3

 一方大阪では、橋下知事のスマイルがかろうじて「空気」を防衛した。


 ……のだろうか?

 起立して知事に異議を唱えた若手職員の主張は、真っ向から現体制に敵対するものだ。橋下徹がバカであるという説を僕は信じない。彼はバカなのではなく、悪いのだ。橋下の主張や政策は、若干の不規則性を伴いつつも、概ねブルジョアジーを代表するものである。それに対して職員の介入は、プロレタリアートの立場からのものであった(彼女と僕とは党派的に相違があるかもしれないが、ここではそれは関係ない)。

 これは階級対立である。「自分の考えや思いを勇気を出して表明していく人たちの態度そのものへの尊敬と支持を、その発言内容への賛否や反応などに優先させるような、人として当たり前の態度を、われわれは謙虚に持つべき」などという「中立」な立場はありえない。問題は、自由闊達な議論や多種多様な意見表明の外観ではない。ブルジョアジーとプロレタリアートは共存共栄することはない。そしてブルジョアジーの「考えや思い」を粉砕することがプロレタリアートの歴史的使命なのだ。

 しかし彼女はあの大きなホールで一人であった。報道があったあとも、ゼネストが始まる気配はない。

 じゃあ、彼女は「空気の読めない痛い女」なのか?

 

 ここからは、一昨日のエントリーのコピペです。

 ジジェクという哲学者が年末の一発芸人のような頻度でリサイクルし続けている小話に、「ニワトリの無知」というのがある。

 あるところに、自分が米粒だと信じ込んでいる男がいる。彼は今にもニワトリに食べられてしまうのではないかという恐怖に怯えている。精神科医の治療により、彼は完全に治癒し、退院する。ところが男はすぐに医者の所に逃げ帰ってくる。「ニワトリに襲われる」と叫んでいる。

 医者いわく、「あなたはもう完治したじゃないですか。あなたは自分が米粒じゃなくて人間だということはわかっているでしょ」。

 男が答えて、「もちろん俺は人間だ。俺はわかっているよ。だがニワトリはそれをわかっているだろうか?」。←オチ

 ジジェクは東欧出身である。彼によれば、旧東側の全体主義社会もこの小話のように維持されていたのだそうだ。多くの人は、共産党なんか信じていなかった。本当に信頼できる身内同士では、独裁者の悪口ばっか言い合っていた。ところが一たび公の場に出ると、誰もがまるで共産党のことを信じている「かのように」振舞っていた。そうしないと制裁を受けるからだ。秩序はそうして維持されていた。むしろ本気で独裁者を信奉しているような人がパージされやすかった。そういう人は融通がきかないので、オモテとウラを使い分ける共産党支配にとってはむしろ扱いにくいからだ。

 そして東欧の民主化は、まさに『裸の王様』のラストシーンのように進行した。

 独裁者チャウシェシュクが最後の演説に立った時、広場に集まった群衆の中に彼を支持する者はほとんどいなかった。チャウシェシュク自身、もちろんそれはわかっていた。なのに彼がなぜのうのうと群集の前に自ら登場するような選択をしたのかというと、それまでもずっとそうだったからだ。これまでと同じように、誰も信じないような演説が行われ、誰も信じていないのに誰もが信じている「かのように」拍手喝采が行われるはずだった。

 ところがどこからともなくブーイングが始まる。あっという間に広がっていく。気がつくと隣に立っている奴までもがやっている。もう誰も止めることはできない。独裁者は演説の中断を余儀なくされる。

 人々は、この時はじめて「王様は裸だ」と気づいたのではない。そんなことは何十年も前からわかっていた。ブーイングが広がった瞬間は、真実が暴露された瞬間ではなく、裸の王様が裸であることを知らないかのように振舞うことを人がしなくなった瞬間である。

 チャウシェシュクの最後の演説を阻止する声を最初に挙げた人は、まさに巨大なニワトリの足元にいた。最初の一人だけではない。集会をひっくり返したくらいでは革命が成功するとは限らないし、一国を転覆しても独裁者のボスみたいなのがやってきて元の木阿弥になってしまうこともあるから、チャウシェシュクの礼賛集会を糾弾集会にした人々には、いつニワトリに飲み込まれないという保証はなかったはずだ。

 現に東欧ではそれまでに何度も民主化運動が鎮圧されてきたのだ。「プラハの春」は一過性のものでしかなかったが、89年革命は革命たるべき条件が整っていたと言えるかもしれない。しかしそれは今になってから言えることであって、もし条件が整備されているという確信が持てるまで待ってたら、きっといまだに待っているのである。

 チャウシェシュクを打倒した人々は、米粒ではなくて人間であった。ニワトリはいなかった。彼らは米粒から人間にジョブチェンジしたわけではなく、最初から人間だった。しかしニワトリは元々いなかったと言えるのは、彼らがあたかもニワトリがいないかのように行動したからだ。従って人間の自由とは、人間が本来の姿を取り戻すことではなく、米粒があたかも人間であるかのように振舞うことである。


 実を言うと、僕はルーマニア革命のことをよくは知らない。昔ニュースステーションで見ただけだ。けど僕はこの話が好きだ。そして同時に怖い。


シリーズ:自由と強制と(無)責任の政治学

『「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット』(前編後編

『「民主主義よ、お前はもう、死んでいる」——グアンタナモ化した政治と敵対性の外部化について』

『テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」』

『反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する――はてなとmixiと秋葉原グアンタナモ天国の比較自由論』

『和光大学YASUKUNIプリンスホテル、コケコッコーの政治と不正義のアウトソーシングについて』


*1http://d.hatena.ne.jp/Z99/20080329/1206808858

*2:"Imagine, a dream for me, we are in Moscow 36-37, central committee, OK, I’m Stalin. I give a speech. Then one of you stands up and criticizes me, attacks me. OK, everyone knows next day the question would be who saw that guy the last. OK. But then imagine that another guy stand up and attack the first guy who attacked me, Stalin, and would say “Are you crazy? We don’t attack Comrade Stalin in Soviet Union. Why are you doing this?” I claim that this second guy would disappear even faster than the first guy. That is to say, it wasn’t only prohibited to criticize Stalin; it was even more prohibited to publicly announce this prohibition."

*3:ただしトラメガを取り上げて落とすくらいはかわいいもので、もっと派手にやるとこうなります→ http://d.hatena.ne.jp/toled/20071101/1193937727