(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

後出しで悪いんだけど、交換条件な




1. 今週号の『週刊金曜日』、絶対に買うな。

2. 今月、『生存学』という雑誌が出る。絶対に買うな。


これ、お願いじゃなくて命令ね。

もちろん命令に従うかどうか、ということに関してまで命令しないけど。


あのね。

ハルキにはハルキの事情があるんだよ。


自分だったらエルサレム賞を拒否するだろうと思うでしょう。

あるいは、それをネタにしてなにごとかをやってやろうと思うでしょう。

そらそうだよ。

そうするのが人道というものだよ。

僕だってそうするさ。


けどね。

ハルキにはハルキの文脈というものがある。


たとえ話をしよう。

日本語には、助詞というものがる。

て・に・を・は、とかな。が、とかな。

そいつらがウルトラがんばってる。

それが日本語。

だから語順はフレキシブル。

並び替えても、ほぼ意味は変わらない。

それが日本語。


それに相当するものが、英語にはない。

だから語順が大事。

語順のルールがあるおかげで、言いたいことが伝わる。

逆にそのルールに反抗したいのであれば、それなりの条件を満たす必要がある。

それが英語。


というわけで、英語学習においては、まず日本語から出発し、それに対応する英語とは何だろうか、っていうようなことは、絶対にやってはダメ。翻訳家になりたいならそういうトレーニングも必要だけど、それはまず完璧に英語をマスターしてからやるべきこと。


それが、文脈というものです。

たとえば、英語が日本語に対して、おい、助詞なんかやめろ! ボイコットせいや! とか言ったらどうだ? あるいはその逆でもいいよ。


では、話を戻す。


まず、『週刊金曜日』というものが、日本社会において果たしている役割について、君は知ってるだろ。知らないのか? じゃあ知れ。


先端研というものが、ネオリベ改革において果たしている役割について、君は知ってるだろ。知らないのか? じゃあ知れ。


知ってなおわからないのか?

じゃあ聞くが、エルサレム賞の何がどう悪いのだ?

それが説明できるか?

できるんなだな。

よし!

じゃあ君にはさっきの問いについて思考する能力がある。

というわけで考えろ。

上記1と2すら実践しないような者が、村上春樹、彼の持っているもの、失うかもしれないもの、それに思いをいたしつつ、エルサレムがどうしたとかガタガタぬかす資格があるのか?

まだわからないと言うなら、それは君の選択だ。革命後、それを前提として対処させてもらう。


というわけで、命令どおり行動してくれ。


ただし、ネット上で何を表明しても伝わらないので、ハガキで相手に行動したという事実、その理由、これを簡潔に伝えること。


やってくれるか?


ありがとう。

じゃあ、お礼として僕は、YouTubeでハルキ問題についての動画をやってやろう。英語で。タダで。


じゃあな。

インフルエンザに気をつけろよ!


p.s.

先端研については、例のあの件だけじゃないぞ。マクドナルドや吉野家でも守ってる労働法規を蹂躙してるぞ。僕はそれを知って泣いたからな。そういう奴らに「先端」を名乗らせることが、この社会、この文脈においてどういう意味を持つんだろう? え? 証拠がないって? じゃあ立岩に電話して聞いてくれ。少なくとも、事実関係については速攻で認めるだろう。「生存学研究センターでの労働問題についてお尋ねしたいのですが…」で会話を切り出したら、すべて教えてくれるよ。で、「それがあって、なお、」みたいな言い訳が始まる。日本語的に理解できない。しかし詩的な価値がありそう。そういう展開になるよ、きっと。でもそれを認めちゃったら、ま、認めるのは自由だけど、じゃあ御手洗をdisるのもやめろ。実践レベルにおいて何も違いはないじゃないか。弁解が詩になっているかどうかという差しか残らないよー。