イスラエルボイコットについてーー前回と前々回エントリーの補足
まず、「「差別・排外主義に反対する連絡会」の諸君へーーあさま山荘をもう一度やろう!」について。このなかで、「『インパクション』の編集者も、ぜんぜん動じてなんかいない。ふだんから会うたびに言い合ってることだ」と書いた。このうち、「ぜんぜん動じてなんかいない」というのは僕の事実誤認であった。実際には、動じているとのことである。編集者なのだから、公的な場ではしつこく問題提起していきたいが、私的な交遊の時間でまで同じことを繰り返していたことについては反省している。これからも『インパクション』のボイコットを可能な範囲で呼びかけていくつもりだし、関係者がいる場ではなおさら問題点を指摘していきたいが、私的な場でのいやがらせは控えたい。編集委員や経営者など、より責任が重く、特権的な立場にある者に対する対応はもちろん別である。
そのほかについては、リアクションも含めて検討したが、とくに訂正が必要となる箇所はない。
ついでに言っておくと、ここ1年程度の、ネットにはまっているわけではないリアルサヨクとの交流を通して、「<佐藤優現象>批判」や金光翔(きむ・がんさん)への人権侵害について(もともと超少数派のうちではあるが)少なくない数の人が認識しており、問題だと考えていることがわかった。知らないとしても選択的無知である可能性があると思うが、知っていてなおスルーしているとしたら一層責任は重い。というわけで、まずは近しい関係にある者に対してたとえば『インパクション』ボイコットといったことをしつこく訴えていきたい。
なお、上記エントリーや集会での発言をめぐってささやかなもめごとがあった。感想。よく、「ノンセクトというセクト」という表現がある。しかし、「ノンセクトという(学校や会社にあるような)人間関係」といったほうがしっくりくる。
さて、そのような茶番はともかくとして、さらに前のエントリーである「岡真理コピーロボットは実在した!?」に対して、金光翔より批判を受けている。「http://watashinim.exblog.jp/11745282/」において、金はまず吉沢樹(よしざわ・?(ごめんなさい読み方わかりません)よしざわ・いつき)が「media debugger - 「STOP!!無印良品キャンペーン」への賛同と若干の疑問について」のなかで、日本とイスラエルの類似性を指摘するために日本にもアパルトヘイトという用語を適用していることなどを問題視している。さらにぼくについては、イスラエルボイコットを呼びかけている日本人がイスラエルの大学教授を招聘したことを皮肉っていることに疑問が投げかけられている。
金による批判からすでに一月以上が経過しているが、ぼくは最近、「ボイコット政治」についての考えを修正している過程にある。かつては冷笑的な態度を取っていたが、数年前に実際にボイコット運動に取り組んでいる人々と出会って以来、ある程度は真剣に考えるようになった。また同時に、イスラエルボイコットやボイコット一般をめぐって、新たな疑問も生まれてきた。ようやく自分なりの暫定的な整理ができてきたので、それに目途がつきしだい、応答するつもりなので、人民は注目していてほしい。おぼろげながら予告しておくと、経済制裁には反対、投資引き上げについては資本家ではないのでボイコットで圧力をかけるべき、ボイコットについては、いくつかの条件(イスラエル人に日本ボイコットを呼びかける、マクドナルド・ボイコットを貧乏人にも呼びかける場合、代替店を利用するに際しての差額を補填する基金を設立する、など)つきで積極的に支持し、街頭行動などにも余裕があれば参加したい、といったかんじである。
一点だけ誤解があるかもしれないので、今のうちに確認しておきたいことがある。ぼくは、シュロモー・サンドという人物に問題があるかどうか(問題があると考えている)について触れることなしに、イスラエルボイコットを呼びかけている岡真理(おか・まり)が同席したことを矛盾として指摘した。これは、国際的になされているイスラエルの大学・文化機関ボイコットの呼びかけを留保なく受け入れるのであれば、当然の態度である。強調しなければならないのは、ユダヤ系イスラエル人をボイコットせよなどという呼びかけは、ぼくの知る限り誰も行っていないということだ。イスラエルの大学は、イスラエル国家の装置である。侵略戦争や植民地支配に本質的な抵抗をしている大学人は少数派だ。アカデミックボイコットはそのような大学全体のあり方を容認せず、むしろパレスチナの大学・文化機関と積極的に交流しようというものである。もし「良心的」なイスラエルの大学人なら招聘してよいということなら、それはただの選別であって、もはやボイコットではない。
ところで、自分に対する批判への応答は保留にしておいてなんなのだが、アパルトヘイトという用語で日本のあり方を説明することについて、意見を述べておく。アパルトヘイトというのは、おそらく第一義的にはかつての南アフリカでの人種隔離政策を指す言葉であろう。当時の南アフリカには固有性がある。しかし、社会批判においては、しばしば比較・対照が有効である。その際に、たとえばアパルトヘイトのような固有性から出発した概念を、別の固有性をもった問題に適用することがある。イスラエルにしたって、かつての南アフリカと同質性を有しつつも、相違点もある。イスラエルにこの用語を適用することは、その定義の更新をともなう。日本は、かつての南アフリカとも、イスラエルとも異なる。とくに、物理的な暴力の行使が相対的に小規模であるということは言えるだろう。そのために差別や暴力が見えにくい状態かもしれないが、差別や暴力があることは事実である。それを浮かび上がらせるために、アパルトヘイトという言葉を用いることには、一定の意義がある。だから、この用語が適切でないと主張するためには、いくつかの相違点を指摘するだけでは不十分であり、より本質的な違いが示されなければならない。
最近、「継続する植民地主義」という言葉を知った。ポストコロニアリズムやネオコロニアリズムよりも、現代日本の東アジア諸国や在日外国人との関係について考えるうえでしっくりくるような気がする。しかし、1945以前の植民地支配と現代では、継続性と共に変質もある。けれども、共通している本質を理解し、批判するために、有効な語彙(ごい)であると思う。
追記
なんか、上記「条件」の例示について、まるで自分がボイコット運動のボスであるかのように指示しているように読めちゃうかもしれないが、あくまでも初心者が運動に関わるに際しての個人的な条件、ってことです。まあ、ボイコットの達人くらいに昇格したら、他人に説教するようになるかもしれないけど。