「国民」連呼する秘密保護法案反対派をひきずりおろせ!
秘密保護法案をめぐって、コクミンコクミンうるさい。やれ、「国民の知る権利」、やれ、「国民主権」。「国民の声をきけ」。「国民の多数は反対だ」。
反原発運動でもそうだ。2年前、デモでの逮捕に対して出されたある声明にも、「国民」が登場する。
3・11原発事故において、東京電力、経産省、政府は、被害の実情を隠し過小に扱い、近い将来において多数の死者をもたらす恐れのある事態を招きました。これが犯罪的な行為であることは明らかです。さらに、これは日本の憲法に反するものです。《すべて国民(people)は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する》(25条)。しかし、東京電力、経産省、政府はこの事態に対して責任をとるべきなのに、すでに片づいたかのようにふるまっています。
それに抗議し原発の全面的廃炉を要求する声が、国民の中からわき起こっています。そして、その意思がデモとして表現されるのは当然です。デモは「集会と表現の自由」を掲げた憲法21条において保証された民主主義の基本的権利です。
こんな連中と、つるんではならない。
国民とは、排外主義的な概念だ。原発にせよ、秘密保護法案にせよ、全人民の問題である。全人民に、政治参加の権利がある。一部公的権利を国民が特権的に独占しているのは差別だ。反体制運動において、そのことを強化するようなことは許されない。
こんなふうに考えていないだろうか?
秘密保護法(原発)はなんとしてでも阻止しなければならない絶対悪である。そのためには、数が重要だ。「国民」を連呼するようなことは望ましくないが、今最重要なのはそれではない。団結することがたいせつである。
ナンセンスだ。
秘密保護法案を正当化する「非常事態」(例外状態)の論理に通じる。秘密保護法という絶対悪のまえにあっては、レイシズムや日本人中心主義を容認していいのか。「共通の敵」のイメージをいいわけにして、敵対性をうやむやにするなかれ。
秘密保護法や原発に反対する集会で、「国民」を肯定的に連呼する者と連帯してはならない。発言をゆるしてはならない。やじれ! ひきずりおろせ! そいつは敵だ。