(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

登校拒否解放の(不)可能性 中編



前編の最後を僕はこう結びました。


登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。

これに対して、toyoさんはこう書きました


なぜこんな事をくどくど言うのかというと、僕は「登校拒否児」が差別される理由と「引きこもり」が差別される理由、また「登校拒否は病気じゃない」と言う事の意味が、ゲイの例ではなく僕のたとえ話の方の関係にあるんじゃないかと考えるからです。言い換えると「引きこもり」は「登校拒否児」のサブグループではなく、それ自身(重なり合う所は有るにせよ)別個の問題ではなかろうかと。

 「登校拒否は社会に対する不適応だ」と言われるのに対して「登校拒否は高々学校に対する不適応だ。その事を責め立てると、またその事で就職などで差別をするのなら、本当に社会に適応できなくなってしまう」と言うのはAの人が「我々はヤクザではない」と言うのと同じ事でない?

ここがまさに問題の急所であると思います。toyoさんは、オカマなどの「変態」がゲイのサブグループであるのに対して*1、ひきこもりは登校拒否児とは別個の独立したカテゴリーであると言います。そうだとすればたしかに、「登校拒否=ひきこもり=病気」などの連想ゲームに当事者や支援者が反発したとしても、それは無理からぬことかもしれません。

しかし僕は、そこを出発点にするのではなく、では、私たちがそのように感じるとすれば、それはなぜなのか、ということを問題にしたいのです。登校拒否とひきこもりは別問題と感じるとすれば、それはなぜ、いつからそうなったのか?

両者の間にある境界線が決して自然なものではなく、むしろ人工的なものであるということは、歴史を振り返ってみると明らかです。80年代に奥地圭子さんが登場するまで、登校拒否・不登校は、ありとあらゆるネガティブなイメージの貯蔵庫のようなものでした。「病気」、「家庭内暴力」、「非行」、「怠け」、20代・30代にも尾を引く「ひきこもり」*2といった、時には相矛盾するようなイメージが、混沌と同居していました。

そうした中で登校拒否児になってしまうことは、とてもつらいことでした。そして、そんな我々がリベラル路線においてやってきたのが、ネガティブなものたちを、登校拒否の「本質」から一つ一つ引き剥がしていくことでした。たしかに多くの登校拒否児が病的であったり暴力的であったり怠けているように見えるのは事実かもしれないが、それは差別や偏見によって追いつめられた結果であって、登校拒否自体に固有の性質ではない。追いつめるのをやめて、存在を受け入れてあげれば、自然とそういった「症状」はおさまっていくはずだ……。

このようにして、我々「明るい登校拒否児」たちは、混沌としていた領域に、新たな境界線を引いていきました。プレ奥地圭子時代には学校に行く普通の人と登校拒否児との間の境界線しかなくて、後者にはこの社会で望ましくないとされているもの全てが乱暴に一緒くたにされていたわけですが、その排除された領域に、さらなる境界線が引かれていったのです。

こうすることによってはじめて、「登校拒否」と「病気」や「ひきこもり」を、それぞれ独立した別個のものとして意識することが可能になりました。現在では当たり前のように感じられる分類かもしれませんが、実はこれは、奥地さんや僕ら「明るい登校拒否児」の政治的な努力の成果なのです。ありとあらゆるネガティブなものがすし詰めにされていた登校拒否というバスの中から、私たちがひきこもりや病気や暴力を追い出していきました。

ひきこもりも病気も暴力も、かつて確実に私たち登校拒否児自身の身体の一部でした。それは登校拒否になった私たちが独立した問題であるひきこもりなどを「たまたま」併発した、ということでは決してなかったと思います。そういうふうに感じられるとしてもそれは今から振り返って見るからであって、プレ奥地時代に学校に行けなくなった当初の私たちには、「登校拒否児」という恐ろしい怪物(モンスター)になってしまった、という恐怖と不安しかなかったはずです。

今になって、斉藤環さんらのプロパガンダもあり、一度は追い出した問題が戻ってきました。登校拒否出身者の相当数が現在もひきこもっていたり犯罪を犯していたり経済的な問題に直面したりしています。もはや「明るい登校拒否」のフィクションは通用しません。

また、「明るい登校拒否」は、社会からの一定の認知を勝ち取ったわけですが、はたしてそれは、当の「明るい(元)登校拒否児」自身にとって、本当に歓迎すべきことだったのでしょうか。今の社会で望ましくないとされているものを自分から削ぎ落として認めてもらったとしても、それは喜ぶべきことなのでしょうか。

たとえば、「色白ですね」と言われて黒人は嬉しいでしょうか? 大宮には新幹線も停まる。埼玉でも、意外と都会ですね。文字を覚えるサル。かしこい! 英語の発音がきれいなインド人。日本人離れしたスタイル。高い能力をもつ障害者。元気な病人。安全な統合失調症患者。心の美しいブス。。。


*1:「オカマ表現問題」参照。http://www.pot.co.jp/okmhg/

*2:当時は「ひきこもり」という言葉ではなかったかもしれませんが。