登校拒否解放の(不)可能性 toyoさんの問いに応えて
toyoさん(=ぼよさん)からトラックバックが送信されました。「登校拒否解放の(不)可能性」に対するコメントがつけられています。ぜひ↓をご覧ください。
http://volvox.seesaa.net/article/1384204.html
toyoさんいわく、
「登校拒否は『病気』ではない(『家庭内暴力』『非行』『怠け』『ひきこもり』とは本質的に無関係である)。故に、登校拒否は肯定的にとらえても良い。」(i)
んで、常野の実感としては、登校拒否は上記のネガティブな「症状」と密接不可分であると。うん。仮にそうだと認めるとしよう。だとすると普通に出てくる結論としては
「登校拒否は『病気』だ。故に、登校拒否は否定されるべきだ。」(ii)
なんじゃなかろうか?にも関わらず常野が出した結論が
「登校拒否は『病気』だ。故に『病気』を肯定すべきだ。」(iii)
になるのは何故なんだろう?
思うに、常野は(i)の結論部分を前提としているんじゃないだろうか。
「登校拒否は『病気』だ。故に(登校拒否を肯定するならば)『病気』を肯定すべきだ。」(iii')
でも(i)の結論部分は「登校拒否は『病気』じゃない」という前提部分で成り立っているんであって、その前提部分を認めないんであれば、そもそもなぜ登校拒否(そして密接不可分である『病気』の諸症状)は肯定され得るのかを示すべきなんじゃないの?
これは非常に重要なポイントだと思います。奥地圭子さんが「登校拒否は病気じゃない」と主張することで登校拒否を肯定しようとしていることを僕は批判しました。では、「登校拒否は病気じゃない」と言うべきではないのだとすれば、何を根拠にして登校拒否を肯定するのか?
僕の答えは、「根拠はない!」というものです。何がしかの根拠を出発点にして登校拒否の肯定という結論にいたるのではなく、登校拒否の肯定のほうを出発点にしたいのです。
根拠を求めると、「登校拒否でも問題ない」ということを示すことが必要になります。その必要性から、登校拒否の本質からひきこもり・暴力・病気などの望ましくないとされる要素を切り離した「明るい登校拒否」の物語というフィクションが生まれました。しかしこれでは、救済されるのは一部の「エリート」だけだということが今日では明らかです。
登校拒否の肯定を出発点にする。これは、病気としての、ひきこもりとしての、暴力としての、犯罪としての登校拒否を、ありのままにまず肯定するということです。その上で、その他の問題に対する立場を決めていくべきであると思います。
「なぜ学校に行かなくてもよいと言うのか」、この問いに答えてはいけません。必要なのは、理解してもらうことではなく、学校に行かせる勢力を打倒することです。
toyoさんはまた、以下のように問います。
それに
登校拒否の肯定は、(不)可能です。私たちは、「登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ」と言い続けるべきです。
と言う時の「私たち」ってのは誰なんだろう?登校拒否をしてる当の本人達、その親達、それらに関わる活動をしている人達、元登校拒否児だった僕達…?んで「私たち」はどのような御利益があるから、そのようなものとして登校拒否を肯定するのだろうか?
「私たち」とは、登校拒否の解放を願う人々です。女性に対するフェミニストを想定していただくといいかもしれません。
以上の長ーいたとえ話を踏まえた上で常野に質問。
・今の社会で不登校に「吐き気」をもよおさない事は不可能だろうか?学校に行くのも行かないのも「選択」の問題に引き下げる事は「明るい登校拒否児」が「ひきこもり」に対してもよおす「吐き気」の解消と関係あるのだろうか?
・「ひきこもり」というのは「解消されるべき問題」だろうか?それともそこから何かしらの価値を引き出し得る、社会の中で一種の生き方となっていくべきものだろうか?
これについては、後編の結論で答えていると思うのですがどうでしょう?