(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

「差別・排外主義に反対する連絡会」の諸君へーーあさま山荘をもう一度やろう!

同志たちよ、あるいは敵たちよ。


ぼくが集会で主張したのは、在特会を外的な悪魔化し(「彼ら」)、在特会が嫌いである(「我々」)というだけでなかよくしてはいけないということだ。集会で一貫して繰り返されていた「継続する植民地主義」という言葉を深刻に受け止めるならば、論理的必然だろう。うまくしゃべれなくてそれをわかってもらえたか心配だったが、このたび諸君がぼくをきらいになり、鵜飼哲(うかい・さとし)にペコペコ謝り、反排外主義の現場に今後ぼくがあらわれたらどう対処するかといったことについて大いにもりあがり、話し合いの結果あれは「なかったこと」にしようという結論にいたったと聞きおよび、安心した。


そうなのだ。敵対性を外部化してはならない。日本人は外国人を抑圧し、異性愛者はセクマイを抑圧し、中産階級は野宿者を抑圧し、男性は女性や性別におさまりきらないものを抑圧し、健常者は障害者を抑圧し、高学歴者は低学歴者を抑圧し、識字者は非識字者を抑圧している。連帯? 防衛? 統一戦線? 在日は、日本と日本国民からの弾圧と主体的にたたかってきた。在日の解放は在日自身の手によって勝ち取られるのだし、抑圧者がどのような攻撃をしようとも、たおしたと思っても、被抑圧者を殲滅することは不可能だ。それは古代ギリシャからの伝統である。抑圧者は「防衛」に酔いしれるまえに、まず、踏んづけてる相手から足をどかす努力をすべきだ。被抑圧者は、「良心的」抑圧者に利用価値があれば利用すればよいが、「良心的」抑圧者もまた抑圧の構造において一定の機能を果たしているのだということを忘れてはならない。「我々」はさまざまな文脈において敵対しあっている。「彼ら」をいいわけにして翼賛してはならない。「彼ら」が在特会のようなものである場合は、とくにそうだ。若い諸君は知らないかもしれないが、1945以前の軍国主義もそうやって民間右翼や軍部や官僚や社会主義者自由主義者が役割分担しながら進行していったんだよ。


え、わかってるって? じゃあ、何の問題もないじゃないか。同志だ。共にたたかおう。鵜飼さんは、酒が入るとヘルメットをかぶっていたころの自慢話を始めるようなキャラだ。あれくらいなんとも思ってないだろうし、げんに本人がそう言っている。『インパクション』の編集者も、ぜんぜん動じてなんかいないイスラエルボイコットについてーー前回と前々回エントリーの補足 - 催涙レシピでの訂正を確認してください)。ふだんから会うたびに言い合ってることだ。


しかしね。それでもぼくが嫌いならぼくに直接言ってくれ。とるにたらない批判だと判断するなら、無視してくれ。
ぼくは最初に言ったはずだ。「ヘイトスピーチに反対する会」にわりふられた時間枠で話しますが、この会に代表者はいませんし、党派的な拘束力もありません。代弁ではなく、ぼく個人の意見として聞いてくださいと。なんで「ヘイトスピーチに反対する会」を排除するということを、ぼく一人の発言からだけで決めちゃうんだ? 『インパクション』に公開質問状を送ろうかどうしようかとか、イミフな展開になるんだ? しかしまあ、「ヘイトスピーチに反対する会」は、排除されてもダメージにはならないだろうから、べつに、いいよ。


だが、そういうメンタリティを持っているとしたら、心配なことがあるので、明言しておく。金光翔(きむ・がんさん)による「<佐藤優現象>批判」*1、その後の「「<佐藤優現象>批判」スルー現象」、人権侵害について発言で触れたが、ぼくは彼の代弁者ではない。会ったこともない。何の依頼も受けていない。ぼくは、彼の論文を読み、ブログを読み、ぼくの責任でぼくの意見を語ったのだ。だから、ぼくが気にくわないのなら、ぼくを攻撃してくれ。以前、ユニオンWANへの弾圧についてWAN理事である上野千鶴子(うえの・ちずこ)に抗議したら、他ならぬユニオンWANに迷惑をかけてしまったという経験がある。*2また、夜の街でDV的なものを目撃したので110番したら、被害者を一番困らせてしまったこともある。残念な社会だ。だから、教訓をふまえて、あるていど慎重になった。「差別・排外主義に反対する連絡会」という名称や、アナキストも関与しているということから、最初にぼく個人の意見だと一言入れれば大丈夫だろうと思った。けど、甘かったのかもね。いい? 「「ヘイトスピーチに反対する会」に割り振った枠の発言者が予定調和の儀式で少数意見を述べた→「ヘイトスピーチに反対する会」を排除しよう」くらいは、まあ、許す。「ヘイトスピーチに反対する会」にはいろんな人がいるが、そういう短絡による排除は歓迎する傾向がありそうだ。マオも言ってるもんな。敵に批判されるのはいいことだ。批判されなかったら反省が必要だって。論理的にはなんかヘンだけど、チャーミングだ。しかし、それ以外の人や団体についての評価を行う際に、ぼくをいいわけにするのは勘弁してくれ。繰り返す。ぼくが嫌いなら、ぼくに言ってくれ。


しかし、敵じゃなくて同志なのかもしれない。マオは、梨の味が知りたかったら、かじってみなければならない、ということも言っている。このエントリーも、そういうものとして受けとってもらいたい。批判には、建設的批判と妨害的批判がある。よきものには建設的批判が、わるいものには妨害的批判がなされなければならない。組み合わせは4つだ。建設的批判として発表した「東京シューレの戦争協力に反対するOB・OG・OQ・支援者有志共同声明 - 催涙レシピ」は、内部に深刻に受け止めてくれた人がいると知って、希望を持った。このエントリーも建設的批判として意図しているが、4つのうちどれにするかの決定権は今や諸君の掌中にある。


「<佐藤優現象>批判」発表以後の金に対する人権侵害は、「ドレフュス事件」のようなリトマス試験紙のチャンスである。知らないことは、いいわけにならない。親や教師や知識人やメディアのせいにしてはならない。人間は、自らの無知に責任を負っている。知らないのなら、知りたまえ。知っているのなら、公けの場で態度表明したまえ。もちろんそれは各人の階級や職業、そのほかもろもろの事情によって、さまざまな形をとるだろう。国立大学教授の地位にあり、「行動する知識人」ということになっているものには、署名以上のことが求められる。そして生徒が教師に対して責任を持つように、大衆は同時代の特権的知識人に対して責任を負っている。大衆と知識人の境界をぶっこわすまではそうだ。1945以前だって、侵略戦争に反対する知識人はたくさんいた。証拠として日記が残っている。しかし、彼ら彼女らが歴史の法廷に立つときには、内面によってではなく、公けの言動によって裁かれる。「良心的知識人」の「良心」に白紙委任状を与えることなかれ。造反有理。預言するが、鵜飼は土曜日にアルタ前で「<佐藤優現象>批判」に言及するであろう。あるいはそうでなかったら、大衆による確認・糾弾が行われるだろう。


ジュディス・バトラーが侵略国家日本のネオリベ予算で招聘されたとき、彼女はお茶の水女子大の大講堂で、既に出版されていた本の一章を棒読みして帰った。数年前のことだ。同じ彼女が、先月ベルリンでこんなことをやってのけた。


今日私がこのような賞をお受けするという事がどういう意味を持つのかと考えますと、現在の政治的状況のもとでただ単にこの賞をお受けするとしたら、私は実は勇気を失う事になるのではないか、と考えます...


例えば、主催者の中にははっきりと人種主義的な発言をする人達がいましたし、またそのような意見とかかわりを断とうとしない人達がいました。主催者団体は、反人種主義の政治が自分達の活動において欠かせないものだという理解を拒否しています。ですから、私は、人種主義とのこのような共犯関係から、距離をおかなくてはなりません。ここでの人種主義には、反イスラム的人種主義も含まれています。


私たちの誰もが気がついてきた事ですが、ゲイ、バイセクシュアル、レズビアン、そしてトランスやクィアの人々が、戦争をしたがっている人たち、無理にこじつけたイスラム嫌悪を用いた移民に対する文化戦争や、イラクアフガニスタンに対する軍事戦争を遂行したがる人たちによって、利用されてしまう事がありえるのです。今の時代、こういう手段で、私たちはナショナリズムや軍事主義へと動員されています。現在、ヨーロッパの多くの政府は、ゲイ、レズビアンクィアの権利は守られるべきものだ、と主張しており、私たちは、移民に向けられるこの新しい憎悪は、私たち自身を守るためには必要なものなのだ、と信じ込まされています。だからこそ私たちはそんな取り引きには「ノー」と言わなくてはなりません。こういう状況にあって「ノー」と言えること、それを私は勇気と呼びます。でも、誰が「ノー」と言っているのでしょう?そして、誰がこの人種主義を経験しているのでしょう?こういう人種主義の政治と本当に闘っているクィアは、誰なのでしょう?


もし私が勇気に対しての賞を受け取るとすれば、本当に勇気を示している人たちに、その賞を譲り渡さなくてはならないでしょう。もしそれが出来るのであれば、私は今、ここで、以下の勇敢な人々に、この賞を譲り渡したいと思います。


GLADT:Gays and Lesbians from Turkey(トルコ出身のゲイとレズビアン) 。クィア移民の団体です。この団体は複合差別の領域、ホモフォビア、トランスフォビア、性差別、そして人種差別の領域で活動し、成功をおさめています。


LesMigraS: Lesbian Migrants and Black Lesbians (レズビアン移民とブラック・レズビアン) 。この団体は、Lesbenberatung Berlinの反暴力、反差別部門で、10年にわたって活動を続けて成功しています。複合差別、セルフ・エンパワメント、そして反人種主義的労働にたずさわっています。


SUSPECT:反暴力運動をつくりだしたクィアの小さい団体で、人種主義に反対して闘うことなくホモフォビアに反対して闘うことは不可能だ、と主張しています。


ReachOutは、ベルリンにおける暴力の被害者、極右的、人種主義的、反ユダヤ主義的、同性愛嫌悪的、そしてトランス嫌悪的な暴力の被害者のためのカウンセリング・センターであり、構造的な暴力や政府による暴力を批判しています。


そう、そしてこれらの団体は、Transgeniale CSD [注:ベルリンのオルタナティブ・パレード]を形成しそこで活動している団体です。Transgeniale CSDは、同性愛嫌悪、トランス嫌悪、性差別、人種主義、そして軍事主義とたたかっているパレードであり、商業的なCSDがサッカーのワールドカップのためにイベントの日程をずらしたのに対して、日程の変更をしなかったパレードなのです。


私はこれらの団体の勇気をたたえたいと思います。そして、残念ながら、このような状況においては、この賞をお受けすることはできないと、申し上げなくてはなりません。


ホモナショナリズム批判について、あるいは、ジュディス・バトラーによるベルリン・パレードからのプライズ受賞拒否関連メモ - FemTumYum


彼女が変わったのか? そんなことはない。バトラーは、デビュー以来一貫してこのような思想を持ってきた。時の違いではなく、場所の違い、大衆の違いだ。


ああ、そうそう。「連絡会」の二次会や集約・総括で話されたことについてのぼくの知識は、伝聞である。彼は、すべてをぐちった上で、オフレコを強く要求した。ぼくがこの茶番の出演者となっているのだから、拒絶する権利があるだろう。ぼくは彼を人として嫌いだし、「金王朝の人権侵害がどうたらこうたら」という発言を聞いて以来、敵として認識している。しかし、彼には過去において別の茶番での義理がある。その義理を裏切る選択をしたのはぼくであり、ぼくの責任だ。いいか? 彼はオフレコを強く求めた。もしこのエントリーに腹が立ったからといって、彼を攻撃したら、許さないからね。


なーんてな。そんなことするような諸君じゃないよな? このエントリーも含めて、実は予定調和なんだよな? 酔っぱらってついつい口がすべっただけで、鵜飼っち同様、ぼくのことなんかそんなに問題だと思ってないんだろ? 集会で少数意見が出るくらい普通だと思うよね普通。
よし!
さまざまな敵対性を顕在化させつつ、日本中心主義を打倒するために分裂しまくって共にガンバロー!


p.s. 「防衛」って言葉、悪気はないんだろうけど、主体的に行動している人々に対してウルトラ失礼だからもうやめようぜ。外国人学校を外から守るんじゃなくて、入って関わればいいじゃん。マナーは守ってな。デモや集会や展示会も、共感するんだったら、ふつうに参加すればいいんだよ。「在特会と対峙する」ための出会い系的に利用するのはよくない。