手塚プロダクションの歴史主義とアウトソーシングされた差別
手塚治虫の『きりひと讃歌』(小学館文庫)をブックオフで買ってきて読みました。たいへんに面白かったのですが、奥付の前ページに「読者のみなさまへ」という文章がありました。手塚プロダクションと小学館の連名によるものです。
手塚治虫氏の作品の中には、いろいろな国の人物が登場しますが、最近、その一部について、いかにも野蛮で未開人という印象を与えたり、過去の偏見にもとづいたステレオタイプで描かれており、人種差別につながる表現だとの指摘がなされております。
この作品が発表された当時、作者にはもちろん、読者にも差別意識はなかったと思いますが、今日、こうした描写を差別と感じる人がいる以上、その声には真剣に耳を傾けねばなりません。
私たちは著作者の原作を尊重し、そのまま紹介いたしますが、読者のみなさまには、ともすれば私たちが見落としがちな人種差別について、いっそうのご理解を深めていただくようお願いするしだいです。
この文章の問題点の一つは、その無責任文体です。まず、手塚作品が差別的であるのかどうかの判断を放棄しています。いわく、「人種差別につながる表現だとの指摘がなされております」、「こうした描写を差別と感じる人がいる」・・・。「その声には真剣に耳を傾けねばなりません」という言葉に反して、ここにはこのような問題提起に真剣に応答しようという態度はありません。むしろ、ガタガタ騒ぐ奴もいるから、話を聞いたことにしようとでも言わんばかりです。
そうやって判断を避けておいて、最後には「読者のみなさま」に差別についての「いっそうのご理解を深め」るよう呼びかけています。ここにきて、個別的具体的な作品の差別性は、抽象的な差別問題一般への問題意識へとすり替えられ、けっきょく何の話だったのかわからなくなってしまいます。
で、ここから僕のこの文章も一般論になっちゃうんですが、一般に、差別とはこういうものです。たとえば、岡林信康の「手紙」を思い出してください。
これは、「みつるさん」が「私」を「ヤリ逃げ」するという物語です。重要なのは、直接の当事者である「みつるさん」は差別主義者ではないことになっている点です。ここには、差別のアウトソーシングを見ることができます。差別をするのは自分ではなくて、「おじさん」なのです。「お前が部落だから結婚するのは嫌だ」というのではなくて、「お前が部落だからダメだとおじさんが言ってるからしょうがないでしょ。俺は気にしないんだけどね、そんなこと」というわけです。*1
「手紙」が差別を告発する重い歌でありながら、癒し系ソングにもなってしまってる理由はここにあります。社会問題について批判意識をもつことは、必然的に自己批判を求めます。たとえば、我々は原発が労働者に日々どのような影響を与えているかということを、なんとなくであれば知っています。このようなことと、パソコンを使って大して必要があるとも思えないような記事をブログに書くということを両立させるのは一見、困難に見ます。
けれども、心配はいりません。「おじさん」がついてます。悪いおじさんたちが誤った電力政策を行っているのが悪いんです。僕は、原発で殺される労働者に言うでしょう。「僕は原発なんてよくないと思ってるんだよ。ところがどうだい、あのおじさん。困ったねー」。
上記の手塚プロダクションによる弁明は、この差別の無責任構造を、表現規制において再生産しつつ、責任の所在を曖昧にするものです。手塚プロダクションは、当該の『きりひと讃歌』を差別的なものだと自らの責任において判断することはしません。しかし同時に、それを「差別と感じる人」を想定してこの弁明文を書いているのです。結果として、どう転ぼうとも手塚プロダクションには責任はないことになります。
ただし、この弁明文にも一度だけ例外的な断定が登場します。「この作品が発表された当時、作者にはもちろん、読者にも差別意識はなかった」。これはどういうことでしょうか? 現在では差別であると「感じ」られかねないものが、過去においては差別ではなかったということです。
しかし、同じ作品は過去においても存在したのです。「著作者の原作を尊重し、そのまま紹介」するという言葉を信じれば、現在ある『きりひと讃歌』は過去においてもそのままあったに違いありません。それが一方の時代においては差別の疑いがあるが、一方の時代においては差別ではないと断定できる、というのはどういうことでしょうか?
我々はここにおいても、「責任のアウトソーシング」を見ることができます。さっきの「みつるさん」が同時代人のおじさんに差別意識を託していたのに対して、これは「時をかけるアウトソーシング」です。過去には、過去なりの正義があり、道徳があり、差別についての判断基準があった。それを現代の我々の基準によって裁くことはできない。
このような歴史主義が蔓延しているのが現代です。たとえば少し前に歴史修正主義者たちが『ワシントンポスト』に出した意見広告では、戦前においては公娼制度が一般的であったということが強調されていました。なお、この広告については「「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット」において別の角度からネタにしてます。
けれども、現在は過去からやってきたものです。現時点において同じものが問題とされているのだとすれば、過去にもそれを問題化する契機が含まれていたに違いありません。
このような過去自体にある亀裂や敵対性を消し去り、当時の勝者の利害と結託しようとする態度のことを歴史主義と言います。そしてそれは、他ならぬ現在の勝者の支配を固定しようとするものです。ベンヤミンいわく、
・・・歴史主義の歴史家は誰に感情移入しているのか。反駁の余地なく、答えは勝者である。しかしながら現在の支配者はかつて勝者であったことのある全ての者の相続者だ。こうして勝者への感情移入はいつも現在の支配者の有利に働くことになる。・・・今日の支配者が足下に倒された者たちを踏みつける勝利の行進には、この日まで勝者として登場してきたあらゆる者たちが参加している。これまでいつもそうであったように、強奪品は勝利の行進において運び継がれている。この強奪品は文化遺産として知られている。それは史的唯物論者の一歩引いた視線を免れることはない。なぜならば、史的唯物論者が文化遺産として調査するものは、彼が恐怖なしには考えることができないような系図の不可分の構成要素をなすからだ。それはそれを創造した偉大な天才の努力だけではなく、その同時代人の名も与えられない単純労働に存在を負っている。未だかつて、文化の記録であって同時に野蛮の記録でなかったものはない。*2
太田昌国もまた言っています。
「時代精神」なるものや「自己を拡大し拡張するのは当然であるという感覚」は、いつからいつまでの時代に、世界のどの地域に、いかなる原理によって、通用した者なのか・・・。その「時代精神」や「当然の感覚」の犠牲にされた者はいなかったのか・・・。その犠牲者がいた場合、その人びとの中では、君たちがあからさまに肯定してやまない「時代精神」や「当然の感覚」はどんな位置を占めるのか・・・。
もし世界の一部地域にそれを謳歌する者がいて、その反対の極には、その一部地域の者たちが謳歌した「時代精神」や「当然であるという感覚」の犠牲にさらされた者がいた場合に、後世における歴史の総括はいかになされるべきなのか。松本[健一]たちは、歴史をさかのぼって総括だ、謝罪だと、というのでは、世界は収拾のつかない混乱に陥ってしまう、と悲鳴をあげている。しかし、植民地化された地域の民衆は、その時点で「収拾のつかない」自体に見舞われたのではなかったか。時に土地を奪われ、殺され、家族・友人と散りぢりにされる「連行」や「徴用」を強いられたのではなかったか。北朝鮮の場合は、そのような仕打ちを行った側は、その支配に終止符が打たれてから実に五七年ものあいだ、賠償や補償を行うどころか、国交正常化の努力をすら惜しんできたのではなかったか。他者の存在を意識さえすれば、即座に崩れ落ちるしかない自己中心的な論理を、この連中は恥じらいもなく弄んでいるのである。*3
なお、「いかにも野蛮で未開人という印象を与え」ることが「人種差別につながる表現」であるというのは、それ自体が人種差別です。これについては 「反差別主義者は差別主義者に反論してはならない」で書きましたので、ここでは繰り返しません。ただしこれはすばらしい名文です。まだの方はぜひどうぞ。
*1:ちなみにこのような差別の構造を描いた最近の作品として『パッチギ!LOVE&PEACE スタンダード・エディション [DVD]』があります。良い映画です。
*2:http://www.efn.org/~dredmond/Theses_on_History.PDF
*3:pp. 102-103.