(元)登校拒否系

反学校、反教育、反資本主義、反歴史修正主義、その他もろもろ反対

人文系はてなインテリのための、コメント対応力養成ギブス3点セットーー自称「文化人類学者」小田亮さんを事例として



 人文系はてなインテリの皆さん、こんにちは。言うまでもなく、皆さんはサヨクですよね。当然、僕もそうです。


 残念なニュースですが、「はてな」でアイドルになっても社会全体からすれば塵ののような存在に過ぎません。僕はこのブログで左翼のハートを鷲づかみにするようなエントリーを量産していますが、開設以来のあらゆるアクセスを合計しても20万です。


 朝日新聞は、一日で800万部。


 右傾化するマスコミに太刀打ちなんかできっこありません。


 けれども、そのささやかな人文系はてなインテリがキラリと輝く瞬間があります。2ちゃんねらーとシンクロした時です。その瞬間に、あなたのブロガーとしての真価が試されます。


 現在そのチャンスをゲットしているのが、文化人類学者を自称するid:oda-makotoさんです。いかにもインテリなタイトルのエントリーが、良い具合に炎上しています。


正義と倫理のあいだについて (小田亮さん)


http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20080430#1209588193


 本文はなんだか難解で、何回読んだら理解できるのか検討もつきませんが、読む必要はありません。コメント欄だけ見てください。


 小田っち、せっかくのチャンスを台無しにしてるYO!


 というわけで、今回は失敗例です。我々は、この教訓をどう活かすべきでしょうか? あるいは、小田さんにも挽回の可能性はあるでしょうか?


 今回はゴールデンウィーク特典として、3点用意しました。


 まず、心に余裕を持つために、コレを音読してください(資料1)



実録・ネットで叩かれたときの対処法!


http://d.hatena.ne.jp/kokorosha/20070627/p1




 僕は、ココロ社さんの教えを実践しました。それが↓です(資料2)



テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」


http://d.hatena.ne.jp/toled/20071202/1196589952


 もちろんコメント欄が炎上しているわけですが、これは本エントリー自体が感動的なので、必ずプリントアウトして写経もしくは音読してください。


 さあ、だんだんとリズムが掴めてきましたね。


 では、続いて↓を読んでください(資料3)。これまた僕自身の「「民主主義よ、お前はもう、死んでいる」――グアンタナモ化した政治と敵対性の外部化について」というエントリーからの抜粋です。



佐々木賢は、現代社会の階層を大きく3つに分類します。*1佐々木によれば4人家族で年収300万円以下のC層が多数派で、全体の3分の2を占めているそうです。年収800万から1000万円程度のB層は、全体の4分の1から3分の1くらい。で、一握りの超金持ちを佐々木はA層と名付けます。佐々木いわく、


さて日本のA・B・Cの三層だが、A層がいるから、C層が貧困になった。この事実があるのにA層の姿が見えないから、C層は自分の怨みを、身近によく見るB層に向ける。ポピュリストのブッシュや小泉や石原はC層の怨みのエネルギーを利用して政権を取り、A層がさらに栄える政策をしている。こういう構図が浮かびあがる。

佐々木は、このような認識を前提にして、ある反石原集会についての感想を述べています。そこでは、「民主主義の否定」「文化の軽視」「抑圧と暴挙」といった言葉がキーワードとなっていたそうです。しかしそのような批判はC層からの共感を得ることは難しいと佐々木は言います。「C層の羨望と恨みの心情には根拠があるから」です。佐々木いわく、


前述の[2004年]二月二八日に日比谷公会堂に集まって「東京都の教育改革で、今起こっていること」について論じた人々の多くは、おそらくB層以上の経済階層に属しているものと思われる。だからC層の怨みの心情を理解せずに、B層の人が「民主主義や文化や教育」の大切さを説いても通用しないのではないか。おそらくC層の人々は「あんたらめぐまれてて、これまでいい目を見てきた。立場が悪くなったって、まだ、オレたちよりいい」というに違いない。もっと怨みが強い人は「ざまあみろ」というかもしれない。

C層は特に教育に怨みをもっている。文化人や学者や報道関係者や教師などを「能力ある人」と、最初は羨望の眼差しで見ていた。だが今は、この人たちを恨む気持ちが強くなっている。なぜなら文化人や学者は、概ね教育資格の恩恵にあずかった人たちだからだ。C層の人は努力して中等教育や高等教育を受けても、正社員になれる確率は低く、もしなれてもフリーター同然の扱いを受け、教育資格の恩恵を受けられなくなっているのだ。

……C層は思想や論理は無意味だと感じる。グローバル化以降、組合運動や社会運動がないので、この恨めしい社会にいつどこでどのように異議を申し立てたらいいか分からない。敵が分からず、不満もいえないとき、誰かが敵を示してくれると嬉しくなる。「国の弱腰外交がよくない、敵は北朝鮮と国際テロ団だ」などといわれると「そうかなあ」と思ってしまう。「国内の敵は日教組だ」といわれると、元々教師嫌いのC層の人にはぴったりくる。日教組は力がなくなっているのに。

佐々木は長く定時制高校の教員を務めた人です。日々C層と対峙していたB層と言えるでしょう。

教育が長期化し、職業資格が激増する中で、学歴・資格はインフレをおこしています。我慢して学校を卒業しても、C層は安定した職にありつくことができません。教育が制度的な詐欺であることが明らかになりつつあるのに、のん気なB層のインテリは「教育を守れ」と訴えます。しかしそれはC層には通用しないと佐々木は言います。


B層はC層に現実を伝えねばならない。だが単に論理や事実の提示だけで伝わるわけではない。立場を共有するか、あるいは互いの立場への共感がなくてはならない。先に述べたように今は、教育の恩恵を受けた者と教育に裏切られた者という立場の違いが歴然としてきた。その両者のコミュニケーションが成り立ちにくい。

……C層とB層が連携してA層に立ち向かうのは容易なことではない。そこにポピュリストのつけこむ余地があった。

佐々木の認識では、真の敵はA層です。ところがB層とC層の相互理解が難しいために、B層はC層にそのことをうまく伝えることができないのだと言います。

しかし僕は、A層という敵を前にしてかくも隔たりのあるB層とC層が安易に団結してしまうとしたら、それこそポピュリズムであると思います。C層を痛めつける教育制度から利益を得ているのがB層です。このような階級対立があるのに、A層を打倒するためにC層とB層が「立場を共有」したり「共感」するとしたら、それもまた敵対性の外部化でしょう。

問題は、A層が真の敵であることをC層が理解できないことではありません。A層はもちろん敵ですが、決して外部からの「侵入者」ではなく、階級社会が生み出したものです。したがって課題はC層とB層の相互理解ではなく、C層がB層ともA層とも対立していることを明らかにすることです。

「現実主義」は説きます。イシハラは全ての民主主義者の敵であり、したがって全ての民主主義者が反イシハラで団結することが唯一「実効的」な道であると。しかし、そのような絶対悪をアリバイにした敵対性の抹殺こそが、「三国人」やら「生活保護受給者」やら「障害者」やら「ババア」やら「日教組」やらに対する倒錯した敵意につながるのではないでしょうか? 

敵を外部や「侵入者」に求めてはいけません。私たちは、私たちのシステム自体の内部にある敵対性について語らねばなりません。ファシズムの到来を阻止するために、あるいは既に存在するファシズムに対抗するために必要なことは、反ファシストがただ反ファシストであるということだけを否定的な共通項として団結することではありません。必要なのは、団結ではなくて対立です。より正確に言うと対立しているのに対立していないかのように振舞うのをやめることです。「北朝鮮」のようなニセの敵を提示するファシストに対して、私たちは言わねばなりません。敵は外からやって来るのではない。この社会自体の内部に敵対性があるのだと。私たちは、ジェンダーについて、障害について、階級について、学歴について、国籍について、語らねばなりません。


http://d.hatena.ne.jp/toled/20070324/p1


 この佐々木賢の論考は雑誌に発表されたものですが、その後『教育と格差社会』という本に収録されています。革命が成就したら全ての教育研究書は禁書にしますが、佐々木賢の著作だけは例外です。


 小田さんは、次のようなコメントを書いています。



スルーしても、あるいは他の読者(まあ、いるとしてですが)も不快になるような無意味なコメントなので、削除してもいいのですがね。脊髄反射ついでにコメントしておきます。瀬尾さんのように「袋叩き」になっている人やトピックを取り上げると、わけの分からないコメントが寄せられるというのはよくあることです。大学教員を叩くことで溜飲を下げるということなのかも知れませんが、大学教員なんていまでは叩いても溜飲が下がるような「高い地位」にはないでしょう。それを叩いて気持ちよくなっているとしたら、その「低い地位」の大学教員より、ご自分が低い位置にいると思っていることをみんなに知らせているようなもので、得策ではないと思いますが。

研究者の卵や研究をしようとしている学生も読んでいるかもしれないのでフォローしておくと、それでも研究者たるものは、さまざまな査定や審査を通るためにそれなりに努力し、議論や文章の技術を身につけようとしています。無意味な「脊髄反射のコメント」などではなくです。日本語が書ければ議論なんて誰でもできる、というわけではないのです。そのような努力などしたくないというのであれば、「大学なんて行かなくて良かった」と、私も同意しますよ。


 もし本気でこれを書いたのだとしたら、小田さんは不幸にも文化人類学のトレーニングを受ける機会を持たなかったのでしょう。

 

 小田っち、文化人類学の入門書を、どれでもいいから立ち読みしてみたらどうかな? そしてその上で、そこに書いてある理論を自分自身や周辺の環境に適用してみるんだ。


 まずは、身近なところから行こうぜ。たとえば、同じ文化人類学者の万年非常勤講師に知り合いはいるかな? 彼らに、君と同じような「学問の自由」が保証されているかね? そうだ。君が権力者として振る舞っているということを自覚しやすいような相手であるあの人やあの人やあの人のことだ。


 彼らの「顔」を思い浮かべながら、なお同じコメントが書けるか? 君が「審査」して不採用とした例のあの人を前にして、同じことが言えるか? 彼らは、二重の拘束を受けている。彼らに「学問の自由」はない。しかし同時に、君のような権力者の「学問の自由」の幻想を演出することに協力しなければならない。


 君は言うかもしれない。「学問の自由」は現に存在するものではない。いつか「来るべき」「到来すべき」ものとしてあるのだと。


 間違いだ。課題は、「学問の自由」が保障される領域があって、それを徐々に拡大すべきということではない。「自由」があり、「不自由」があるのだ。両者はお互いに関係し合う単一の全体である。あるいは、「不自由」を排泄して初めて成立するのが「自由」の幻想なのだ。だとすれば、自由を求める者はまず「自由」を打倒しなくてはならない。


 君はこうも言う。「大学が公的な研究機関であるからこそ、たとえ社会通念に反していても(愚劣なものも新しい意見も人が理解できないものもすべて社会通念に反しているものです)、どんな意見でも「保証」すべきなのです」と。だが、そのような「保証」があったとして、それを支えているものこそ奴隷労働に他ならない。


 さあ、さらに文化人類学的想像力を広げてみよう。君は、フリーターのサービスを受けることがあるだろうか? コンビニで、生協で、居酒屋で、自宅で。


 彼らが「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」とかと言っているのを聞いているか? それを君は自由意志と思うか? もしフリーターが自由に行動を開始したら、君の地位はどうなると思うか?


 そうやって見えてくるのが、「学問の自由」というものだ。もう一度言う。これは、文化人類学の、初歩の初歩だ。


 最後に宿題だ。本名で書かれている「はてなインテリ」のブログを文化人類学的に分析してみたまえ。そのブログ主の属性は、どのような統計的特徴を示すだろうか?




 そしてそして最後に、小田っちのブログに群がっているコメンテーター諸君よ。小田ちゃんは、雑魚だ。対象を誤っている。君が最も共感し、心酔しそうになるような大学人を選べ。そして彼を撃て。その時に初めて一匹の雑魚ではなく、「構造」が揺れる。



教育と格差社会

教育と格差社会

↑必読です。


*1:「労働と教育」『現代思想 2004年4月号 特集 教育の危機』(佐々木は最近の講演ではD層を加えた4層を提示しています。「教育私企業化の意味」『社会臨床雑誌』3.2007)